第24話 麒麟児
時は流れ、十二月。
靴底から冬の寒さが伝わる。栗東もすっかり薄く霜で覆われていた。普段は落ち着いている僧侶でさえ経を上げるために東奔西走するさまから十二月は師走とも呼ばれているが、常日頃から馬が駆け回る競馬界もその慌しさに一段と拍車が掛かるというものだ。
調教を終え、厩舎の前で一息つく。
厩舎はいつもと変わらず整然としているが、今日は珍しい客人が来ていた。
「うー、冷えるな。こう冷えると腰に来る」
隣に立つ咲島の口から白い息が出る。久しぶりに着たのだろう、名前もわかないキャラクターが描かれた年季の入ったジャンパーは少しかび臭い。
「あの“鬼の咲島”も寄る年波には勝てないもんだな」
「ジジイがジジイを憐れむんじゃねえよ、由比」
咲島は眉間にシワを寄せてこちらをにらんだ。その表情は騎手と厩務員として初めて栗東で会った頃からなにも変わらない。
「すまんすまん。そんなに怒らないでくれよ。
……しかし、いつの間にかもうこんな季節か。この前ダービーが終わったと思ったら、あっという間に有馬記念だな」
「有馬より自分の息子の方が気になるんじゃねえのか? YJSに朝日杯に大忙しじゃねえか」
「一駿は昔の私と同じで馬に乗るのが上手いからな」
「はっ、冗談はよせよ。昔、俺の管理馬がお前が乗ったおかげで何頭負け続けたことか」
「それは私だけのせいじゃないだろう。あんな気性の難しい馬ばかり押し付けてきて」
「はて、覚えてねえな」
都合が悪くなったのか、咲島はとぼけてそっぽを向いた。
「……まったく。
――そういえば、YJSはお前のとこの子も出るんだろ? 日鷹……鳶島の娘が」
「ああ。この前のレースの斜行であやうく騎乗停止を食らって乗れなくなるかと思ったがお咎めなしだ。近くに馬がいなくて助かった」
「それはツイてたな」
たしかにあそこで制裁が加われば、通常はその翌週から開催四日間の騎乗停止。JRAのレースは通常週末となる土日に開催されるので、二週間まるまる乗れないということになる。そうなれば当然、今月半ばに行なわれるYJSに出ることは叶わなかった。
「まあ、運が良いに越したことはねえ。
なんせすべてのホースマンが目指すダービーだって“最も運がいい馬”が勝つって言うくらいだ。騎手だって運がある奴がいいに決まってる」
「……そうだな。一流の奴は自力だけじゃない不思議な力を持っているものだ」
「まあ、あいつがそうだとはまったく思わんがな」
咲島は実に愉快そうに笑った。
日鷹青。彼女の父親、鳶島大洋は馬に乗る技術に長けていたが、それ以上にレースに出ればなにかを起こしてくれるのではと期待をしてしまう騎手だった。レースの映像は何度か見たが彼女にもその片鱗を感じる。まだ吹けば消えてしまうような儚げなものだが。
「先生!」
遠くからこちらに向かって呼びかける声が聞こえた。遠くに大きな荷物を持った少女が立っている。
噂をすればなんとやら。立っていたのは日鷹青だ。
「YJS行ってきます! 優勝してくるんで祝勝会の準備しておいてください!」
「調子に乗るな、下手くそ!」
日鷹は大きく手を振ると、振り向いて駆けだした。その姿はあっという間に見えなくなる。
「ったく、慌ただしい奴だ」
鳶島の娘……いや、日鷹青。面白い子だ。彼女が一駿と同期だったのは幸運だったかもしれない。
「少し体が冷えたな。茶でも飲んでいかないか? 咲島」
「なんだ、話足りないのか? 朝まで話せるぞ、お前がひどい乗り方したレースのことなら」
「はは、やめてくれよ。
昔のことばかり話してたら余計老け込むぞ。どうせならこれからの競馬界のことでも語ろうじゃないか。
ゆっくりとね」
ユースフルジョッキーズシリーズ(YJS)・ファイナルラウンド。
中央(JRA)・地方(NAR)合わせて六十九名が参加したトライアルラウンドを見事に突破した十六名が集った。
ファイナルラウンドは地方競馬・中央競馬各一場で行われ、騎手は各ニレースずつ合計四レース走ってその合計ポイントが最も多いものが優勝を手にすることができる。今年の会場は地方からは船橋競馬場、中央からは中山競馬場とどちらも千葉県にある競馬場が選ばれた。
「日本競馬の一年の総決算、有馬記念の一週前に行なわれる若人たちの腕試し。競馬はその名の通り馬が主役であることに議論の余地はないが、騎手がいなけりゃレースの体をなさない。
騎手が注目されるこういう催しは騎手にとって貴重なモチベーションのひとつだ」
「ここから将来、那須孝介やルピを越える騎手が生まれるかもしれないなんて夢がありますね」
「ああ」
スポーツ新聞社のビルの一室、競馬雑誌「ホース・ワン」の編集部。末崎が肩越しにこちらのパソコンの画面をのぞき込む。
目の前のディスプレイに映し出されている騎手の情報に目をやった。そこには十六人の騎手の名前、所属、年数、トライアルラウンドでのポイントが表示されている。
〈JRA東地区〉
1.
2.
3.
4.
〈JRA西地区〉
1.
2.
3.
4.
〈NAR東地区〉
1.
2.
3.
4.
〈NAR西地区〉
1.
2.
3.
4.
末崎が画面をスクロールしながら名前を追っていく。
「何人か取材した子もいますね。
このなかだと誰が一番うまいんです? やっぱり由比くんですか?
YJSの週の日曜にG1の朝日杯に乗るし。G1の騎乗経験がある騎手はYJSへの参加資格が喪失するからなんか狡く感じちゃいますね」
「まあ、中央の騎手だったら由比かもな。中央の騎手だったら、な。
もう一回ちゃんとよく見てみろ」
「? ちゃんと見ましたよ……?」
末崎が首をひねりながら視線を画面に戻す。少し経ってその視線が一点に集中したのがわかった。その表情がガラリと変わる。
「……千崎いさな……百二十ポイント!? 一着のポイントってたしか――」
「三十ポイントだ。千崎はトライアルレース四戦全てで一着を取った」
「そんなことあり得るんですか!?」
末崎が耳元で大声を出す。手元の雑誌でその頭を叩いた。その口から短く情けない声が出る。
「あり得るもなにも、実際に百二十点取ってるじゃねえか」
「そうですけど……。どんな子なんですかこの千崎くんって? 競馬一家のエリートとか? 由比くんみたいに」
「いや、親はごく普通のサラリーマンだな。本格的に馬に乗ったのも、地方競馬教養センターに入ってからだ」
「それで一年目でこれ……。天才じゃないですか……」
末崎がこれまでに見せたこともないようなまじめな顔で画面をまじまじと見ている。普段もそれくらい熱を持って仕事に励んでほしいものだ。
「船橋の千崎に佐賀の剣……。中央だけじゃなく、地方もこの世代は粒揃い。楽しみな騎手が大勢いる。
その中でも抜けてるのが中央競馬界のサラブレッド・由比一駿。そして、地方競馬界の麒麟児・“千崎いさな”だ」
画面に映る千崎がこちらに向かい不敵に笑っているように見えた。
千葉県船橋市。船橋競馬場。
閑散とした競馬場に声が響く。
「おーい、いさな! 取材が来とるぞ! どこ行った!」
遠くで先生の声が聞こえる。取材取材って、今朝からそればかりでうんざりだ。同じことを繰り返して喋るのも飽きてきた。
「悪いな先生」
人通りの少ない物陰に腰を下ろす。
おもむろに上着のポケットから1枚のボロボロになった紙を取り出す。そこに映った写真は色褪せているが、その雄姿はいまでもしっかりと目に焼き付いていた。
「やっと中山で乗れる。
――ノッキンオンハートが走ったあの中山で……!」
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