第23話 空は今日も青い
『行った行った! 一着スティレット! スタートから一度も先頭を譲らず鮮やかな逃げ切り勝ち! 十一番人気から四王天騎手が見事なエスコートを見せました!』
控室の中継映像に、興奮した実況の声を背にして東京競馬場にいる愛の姿が映る。
「おめでとう、愛」
画面に向かいひとり呟く。
急ぎ足で控室を出る。騎乗するレースの時間が迫っていた。
心臓が徐々に高鳴っていくのがわかる。
緊張からくるものではない。これから始まるレースへの気持ちの昂ぶりが、私の心臓をドクンドクンと波打たせているのだ。
肺に吸い込んだ空気をゆっくりと大きく息を吐きだす。
「緊張してるのか?」
「! 猿江先輩!」
背後を振り返ると、声の主である猿江先輩が通路に立っていた。
「なんで京都競馬場に? ジャパンカップは乗らなくていいんですか?」
「あほ。乗らないんじゃなくて乗れないんだ。言わせるな」
猿江先輩は呆れた顔でこちらを見る。
今日は日本唯一の国際招待競走であり、日本初の国際G1でもある大レース・ジャパンカップが東京競馬場で開催されている。大袈裟でもなんでもなく、一流の馬、一流の騎手が一堂に会する祭典だ。
「冗談ですよ。京阪杯の騎乗でこっちに来たんですよね」
「ああ。ジャパンカップに上位騎手がとられているからいい馬が回ってきた。しょうがないからこっちで一着貰っとくよ」
猿江先輩は嘯く。
「勝ったらなにかご馳走してくださいね」
「ふん、考えといてやる」
まんざらでもない様子で猿江先輩は口角を上げた。「約束ですよ」と言ってその場を離れる。思えば私の初勝利の時にも先輩が関西へと遠征に来ていた。
私にとっての吉兆かもしれない。そう、湯呑に立つ茶柱の如く、だ。湯呑に漂う猿江先輩が脳裏に浮かんだが即座に振り払う。
「勝って来いよ。日鷹」
振り返ると、離れたところで猿江先輩がこちらに右拳を突き出していた。
「はい! もちろん!」
そう言って、私も勢いよく右拳を突き出した。
『第四レース、京都芝千八百メートル未勝利戦。
七頭立て、少頭数となった本レース、一番人気は今回が芝替わりのクラッシュオンユー。前走は素晴らしい豪脚を披露してくれましたが、芝初挑戦の今日のレースでもその切れ味を見せてくれるでしょうか。二番人気は――』
初めての一番人気。
七頭走るこのレースで、クラッシュオンユーに、私に、一番の期待がのしかかる。
今日この瞬間、この京都競馬場では間違いなく私たちが主役だ。
「……最っ高」
思わず声が漏れる。
有力馬に乗る上位騎手は毎レースこういった気持ちを味わっているのだろう。私も早くそうなりたい。そのためにもまず目の前のレースを勝つ。
輪乗りを終え、いよいよゲート入りに移る。
京都芝千八百メートル。ひと月前、アレクサンダーが鮮烈な新馬勝ちを決めたのと同じコース。
今日、ここにクラッシュオンユーと私が新たなページを刻む。
「――行こう。クラッシュ」
ゲートが開く。
『スタートしました。
クラッシュオンユーはゆっくりとゲートを出ていきました。後ろからの競馬になります」
最後尾に着ける。
事前のレースプラン通りだ。逃げで戦いたい馬が複数いるこのレースはペースが早くなる。そうなれば、後半脚を溜めた後ろからの馬に必ずチャンスが巡って来る。
『――ヒットザベース、メイカイテネシー二頭が飛ばしました。先頭はヒットザベース、二馬身離れてメイカイテネシー。さらにそのあとは十馬身以上離れます』
今日の私とクラッシュオンユーがとる作戦は“追い込み”だ。
競走馬は先頭からの位置取りによって、逃げ・先行・差し・追い込みと大きく四つに分けることができる。逃げ・先行馬がレースを形作っていくなかで、後方に待機しラストスパートに力を温存するのが差し・追い込み馬だ。
差し馬が馬群を苦とせずに中団後方に控えるのに対して、追い込み馬は集団を苦手とすることが多く、最後方に位置取る。馬群に包まれることなく自分のペースで走ることができる事ができる反面、当然デメリットも存在する。
それは、“勝敗がレース展開に大きく左右される”ということだ。
前方の馬が楽な展開になれば、いくら良い末脚を持っていても先頭に届かないなんてことは往々にしてある。追い込み馬はクライマックスを鮮やかに描く演出家であるが、レースの筋書きを思い通りに綴ることはできない。
ではなぜ追い込みを選択したのか。
ひとつ目の理由は、クラッシュオンユーの気性だ。
これまで二戦乗ってきたが、馬群が苦手というよりは他の馬と一緒に走ると興奮するきらいがある。前走でわざと馬群から離したときは落ち着いていたので今回も同じ乗り方を選択した。
そしてもうひとつの理由は、この馬がとてもキレる脚を持っているということだ。
気性難で逃げや追い込みといった極端な脚質を取る馬はいても、それが必ず功を奏すわけではない。それを成立させるには、馬もまた他馬にはない抜きんでた能力が必要になって来る。
そしてこの馬にはそれがある。
父であるノッキンオンハートを彷彿とさせる豪脚が。
三コーナーを下り、四コーナーのカーブへと差し掛かった。残り四百メートルの標識を通過する。直線はすぐそこだ。前に行く馬が追い出しにかかる。
まだだ。まだこらえろ。
クラッシュオンユーの末脚を最大限生かせる限界まで我慢するんだ。例えるならいまは目いっぱいまで弓の弦を引いている状態。溜めれば溜めるほどつがえた矢は威力を増す。しかし、慎重にいくだけでは遅きに失し脚を余してしまうのもまた事実である。
見極めるんだ。
『先頭は依然としてヒットザベース、二番手はメイカイテネシーで変わらず。後方からじわじわとスフィアライト――』
――いまだ!
左手に持つ鞭をクラッシュオンユーに入れる。
「……っ!」
追い出した直後、猛烈な勢いで外に体が引っ張られる。
コーナーでクラッシュオンユーが大きく外に膨らんだのだ。振られた体を急いで内側へと倒しこむ。手綱を強く握った。
戻れ! 戻れ! 戻れ! 戻れ!
全身の力を振り絞る。大きく外に膨らんだクラッシュオンユーがようやく直線に向き直った。
プレイズモンキー、リプレッション、クレインヘイロー……。一頭、また一頭と前を行く馬を抜いていく。先頭との距離はみるみるうちに縮まった。
――すごい!
『逃げる逃げるヒットザベース、苦しくなってきたか。続いて――おっと、大外、クラッシュオンユーぐんぐんと上がってきます。
大勢変わって先頭はメイカイテネシー。リードを二馬身三馬身と広げていきます。二百メートルを通過――』
クラッシュオンユーの有り余るエネルギーが発露する。瞬く間に先頭を行くメイカイテネシーを捉えた。みるみるその後ろ姿は大きくなる。
『大外から凄い脚! クラッシュオンユー、メイカイテネシーを悠々と躱していく! これは強い! あっという間にリードを広げていきます!』
重力は消え、飛ぶようにクラッシュオンユーは進んでいく。さながら風の如く淀のターフを吹き荒ぶ。
はじめて先頭でゴール板を通過した。
『四番クラッシュオンユー、文句なしの一着! 衝撃の末脚は芝でも健在!』
静かに右拳を握る。
三戦目にしてクラッシュオンユーにとっての初勝利。それをようやく掴むことができた。
一戦一戦、いや一日一日、クラッシュオンユーは目まぐるしい速さで成長している。目の前にある後ろ姿がたくましく映った。
クラッシュオンユーの首筋に手を伸ばす。
「! うわっ!」
景色が一回転する。
クラッシュオンユーが私を振り落としたのだ。
ゴール後のクールダウンでスピードが落ちていたのもあり、背中から緩やかに地面に着地する。日に照らされた芝の匂いが鼻を突いた。
見上げた空は青く澄み渡っている。
私の感傷を遮るようにクラッシュオンユーがこちらを覗き込んだ。まったく、自分で振り落としたくせに一丁前に心配しているつもりだろうか。
「痛いんだけど、クラッシュ」
私の言葉に、クラッシュオンユーは顔をそらした。
もうすぐ冬の訪れを告げようとする空の下、私たちは夢への階段をひとつ上った。そう、たしかに上ったのだ。
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