第22話 乗らなきゃいけない

「なんで私なんでしょうか?」

 目の前の恰幅のいい男、数原調教師に問う。

「その馬が君になついているからだ」

「……? それだけで? なついてるというか……、ただ人懐っこいだけでしょう?」

 私の言葉に、数原先生が横に立つ厩務員に向かって無言で目線を送った。若い厩務員は一度頷き、恐る恐るこちらに近づいて来る。

 次の瞬間、いきなり手綱が思い切り引っ張られた。スティレットが厩務員へ噛みつこうと襲い掛かったのだ。

「ちょ、ちょっと! ストップ!」

 体勢を崩しながらもなんとか手綱を引き寄せる。ほかのスタッフも加わり、なんとか静止することができた。

「その牝馬、スティレットは全然人になつかなくてな。うちの厩舎の人間はもちろん、これまで乗ってくれた騎手にもだ。次のレースを頼もうとしても噂が噂を呼び乗ってくれる騎手がいない」

 横に立つ馬、スティレットを見る。

「とんだおてんば娘なのね、あなた」

 スティレットは、それほどでもと言うように誇らしげに鼻を鳴らした。褒めてはいない。

「どうだろうか? お前さんの所属している仙葉せんば厩舎にはワシから話を通すから。な?」

「お話はうれしいですけど……」

 ここで安請け合いはできない。人がいい仙葉先生は許可してくれるだろうが、いま一番私に馬を斡旋してくれているのはなにを隠そう四王天ファームだ。いい馬を斡旋してもらえているが、その代わりにレースでは当然四王天ファームと関わりの深い厩舎の依頼を優先することになる。

 私が返答に困っていると、数原先生の背後からスタッフが小声でなにやら耳打ちを始めた。

「……やっぱり無理ですよ先生。この子、四王天のところの子ですよ。いまは落ち着いているからいいですけど、レース中にスティレットが暴れてもしなにかあったら……僕たち美浦に……いや、競馬界にいられなくなっちゃうかも……」

「うっ……!

 …………はあ……、しょうがないか。

 ――すまん、忘れてくれ。ちょっとワシも焦っていた。ほかの騎手を当たるよ」

 数原先生ががっくりと肩を落とす。申し訳ないとは思うが致し方ない。

 スタッフの一人がその肩を勢いよく叩く。 

「大丈夫ですよ先生! もっといい騎手がすぐ見つかりますよ!」

 ……“もっといい騎手がすぐ見つかる”?

 聞き捨てならない。新人騎手である私にもそれなりにプライドがある。なにより現在の関東所属の騎手リーディングで九位に位置しているのが私の実力の証明だ。

「乗ります」

「え?」

「この子に乗ります。いつですか、次の調教は」

「……明日だ。

 でもいいのか? たしかに頼んだのはこっちだが……」

「大丈夫です。

 私は四王天ファームの娘である前に“JRA騎手”の四王天愛なので! 乗り馬は私が決めます!」


 翌朝。初めてのスティレットの調教。

 押せば押すだけ進み。ブレーキはまったく効かない。さながら暴走機関車のような馬。

 それが調教に跨った私のスティレットに対する第一印象だった。

「どうだい? うちのわがままなお姫様は」

 調教スタンドから降りてきた数原先生がこちらに向かって問う。お姫様、とはずいぶんと可愛いらしい物言いだ。暴走機関車はうら若き乙女に少し不敬だったかもしれない。

「いい馬ですけど。まじめに走りすぎというか。だいぶ行きたがりですね」

「ああ。溜めれたらいいキレがあるんだがなあ。そういう器用さがないのがなんとも」

「じゃあ、次のレースはもう少し控える競馬を覚えさせて――」

「いや、逃げよう」

「いいんですか?」

「これまで二走、控えて乗ってもらったが鞍上と馬が喧嘩して体力ばかり削られてからっきしだ。腹くくるしかないだろう」

 それなら好都合だ。

 平地競走の勝利数が百回に満たない見習い騎手である私は、減量制度のお陰で通常より軽い斤量で馬に乗ることができる。斤量一キログラムで◯・二秒、およそ一馬身の差が生まれると言われているので、技術不足の時分にこの恩恵は計り知れない。

 そしてこの斤量減の恩恵を一番得ることのできるのは逃げ先行策。斤量の差はそのまま馬の余力の差になる。この馬の実力はまだ測りかねるが、一戦だけなら勝ち負けは十分狙えるだろう。

「わかりました。必ず勝ってきます」

「え?」

「……え? って、そのために私に依頼したんじゃないんですか?」

「勝てるならそれが一番いいのは違いないが……。とりあえずこの馬にとっての競馬の形を作れれば十分だよ。型ができれば次のレースにつながる」

 スティレットを伺う。

 昨日軽く調べたが、父はマイル中距離戦線で活躍したアクセルワーク。母は現役時代は未勝利ながら血統表を見ると日本古来の名牝系であり悪くない。いや、失礼ながら数原厩舎に入っているのが不思議なくらいの良血統である。

 それが勝たなくてもいい、か。随分と悠長なものだ。

 まあ、未勝利で終わってもこの血統であれば繁殖牝馬で重宝されるだろうから切迫感はないのかもしれない。

「しかし、君が乗ってくれてよかったよ」

「そんな、探せば私より気性難の馬の扱いがもっとうまい騎手だってたくさん――」

 私の話を数原先生が手で制する。

「こんな話を聞いたことがあるかい? ある若い騎手の話だ」

 そう静かに話を切り出した。

「その騎手はある重要なレースでどの馬に乗るかを決めかねていた。まだ若いその騎手にとってとても大事なレースだ。そこで、候補の馬を一頭一頭見て回ったらしい。

 一頭、また一頭と見ていき、いよいよ最後の馬を訪れた時のことだ。帰りしな、その馬がその騎手の袖を掴んで離さなかった。まるで『自分に乗れ』と言わんばかりにな。そして、その騎手はその馬に乗ることを決めた。

 ――結果としてその馬は見事レースに勝ち、その騎手に初めてのG1タイトルをもたらした」

「有名な逸話ですね」

 実話にしてはあまりにドラマチックだ。まあ、こういうたぐいの話には尾ひれ背びれ、なんなら胸びれだってつくものだが。たとえそうだとしても、良いものは良い。私も好きなエピソードである。

「この馬が君を選んだのもそういう運命的なものかもしれない」

「先生、結構ロマンチストなんですね。でも、自分から騎手を探して駆け回るなんて、ちょっとやんちゃが過ぎるんじゃないですか?」

「なあに、そういう馬がいてもいいじゃないか。競馬の神様は懐が深い。

 なんせワシみたいなのが調教師をやらせてもらってるくらいだからな」

 数原先生は顔をくしゃくしゃにして笑う。

 次の調教の予定を確認したあと、その日はその場をあとにした。


「……ん?」

 着信音が鳴っている。

 まぶたを擦る。部屋が暗い。いつの間にか寝てしまっていた。いま何時だろうか。

 とりあえず電話に出ないと。

 手に取ったスマートフォンには父の名が表示されていた。画面下部を指でスライドする。

「…………はい、もしもし」

『……寝てたのか? すまないな、また日を改める』

「いい、続けて」

 わかった、と言うと父は話始めた。

『今月末の白菊賞、うちで馬を用意する。アンナプルナという馬だ。それに乗れ』

「……は?」

 白菊賞。十一月の末に京都競馬場で行なわれる二歳牝馬一勝クラスのレースだ。

『パリスグリーンの穴埋めだ。栗東の馬だがそこは目を瞑ってくれ。実力は今年の牝馬の中でも上位だろう。順調に成長していけばG1のタイトルも目じゃない』

「ちょ、ちょっと、勝手に話を進めないで」

『勝手じゃない。別の馬はあてがうとこの前電話で言っただろう』

 たしかに言っていたが。父はいつもなにかと急だ。

 人の気持ちを少しくらい慮ってほしい。

『わかってるとは思うが向こうの厩舎には一回電話を入れておけよ。もしなにかあったら勇に聞いてくれ。調整はあいつに任せてある』

「……わかりました」

『期待しているよ』

 通話はぶつりと切れた。スマートフォンをベッドの隅に放り投げる。背中から大の字に寝転んだ。

 真っ暗な部屋僅かばかりの明かりが窓から差し込む。

「……少しは話聞きなさいよ」

 目を閉じる。

 次に目を覚ましたのは、もう空が白んだ頃だった。


 あれから二週間ほど経った。仙葉厩舎に所属する馬の調教を終え、数原厩舎に向かう。

 厩舎に着くと数原先生が笑顔で待ち構えていた。

「決まったよ。スティレットのレース。再来週の日曜だ」

「再来週の日曜ですか?」

「ああ、そこの未勝利戦で使おうと思ってる。調教はおかげで順調だし、東京開催ということも会ってスティレットのオーナーも来てくれるらしいんだ」

 白菊賞の日だ。

 白菊賞が開催されるのは京都競馬場。未勝利戦が行われるのは東京競馬場。どちらかを取ればどちらかに乗ることができない。

「――じゃあ今日の追い切りはCウッドで頼んだよ」

「……あっ、はい。わかりました」

 白菊賞を走る有力馬。気性難の未勝利馬。どちらを選ぶかなど考えるまでもない。

 そう、考えるまでも。

 Cウッドをスティレットはいつものようにぐんぐんと加速していく。それ以外の選択肢など毛頭ないように。

「……」

 行きたがりで一本調子。

 走り出したらどこまでもバカ真面目に懸命に走る。

 パリスグリーンとは正反対の馬だ。

「――ほんとに不器用だね。アンタ」

 十一月の冷たい風に吹かれ、スティレットが地面を蹴る音だけが私を包んだ。

 調教を終えスタンドまで戻ると、数原先生の隣に見覚えのある人物が立っていた。

「父さん。なんでいるの?」

 調教スタンドにいたのは間違いなく父だった。隣には勇もいる。

「パリスグリーンの出来を見に来た。ついでにお前の顔も見ておこうと思ってな」

「……ちょうどよかった。お父さんに話したいことがあるの」

「? なんだ?」

 父は眉をひそめる。

「白菊賞の依頼、辞退させてください」

「……なに?」

「別の依頼が入ったの。だから乗れない」

 数原先生は状況を理解したのか、その顔からみるみる血の気が引いていく。

「……それは白菊賞より、――四王天ファームの依頼より優先することなのか? パリスグリーンを降ろされたことを根に持っているなら、そんな子供じみたことはやめるんだ」

「そんなんじゃない。

 ――父さん。私が騎手になるって言った時、なんて言ったか覚えてる?」

「……」

「“騎手としてたくさん名馬と言われるようないい馬に乗りたい”。それが私が騎手になった理由」

「だったらなおさら白菊賞を降りる理由にはならないだろう。四王天ファームの馬は繁殖牝馬の質、育成環境、規模、どれをとってもいまの日本競馬界でトップクラスだ」

「わかってる。

 四王天の馬にも乗りたい馬はたくさんいる。パリスグリーン以外にもたくさん。それでいいと思ってたし、満足してた。

 ――でも、違った。いい馬かどうかじゃない。

 “乗らなきゃいけない馬”がいるんだって、はじめて気付いたの」

「……その馬のことか?」

「うん」

 父は私とスティレットをじっと見る。

 数原先生が気が気でない様子でそれを見守っていた。

「愛――」

「行こう父さん」

 父が口を開こうとしたとき、勇が割って入った。

「そんなにこだわることじゃないよ。愛が納得してるならパリスグリーンの件はこれで終わりだ。白菊賞の件は僕が関係者に謝っておく。

 それで問題ないでしょう?」

 父はなにか言おうと口を開いたが、再び口を閉じた。前向きではないかもしれないが、私の辞退を認めてくれたと受け取っていいだろう。

「……今後の予定は一旦すべて白紙にさせてもらう。いいな?」

「わかりました。ありがとうございます」

 頭を下げる。

 父はこちらを無言で一瞥した後、後ろを向いて歩きだした。勇もそれに続く。振り向きざまキザったらしくこちらに片目をつむったのが見えた。

 ばーか。

 しかし、ここまで啖呵を切ったからにはスティレットで結果を出さなければいけない。もちろんそのつもりだが。

「ど、どうしよう……」

 数原先生がその巨体を小さくして動揺していた。こちらに助けを求めるように視線を送って来る。思わぬ形で先生も巻き込んでしまった。まあ、これも運命ということで大目に見てもらおう。

 笑顔で数原先生に向き直り、小さく舌を出す。

「やっちゃいました。

 責任、とってくださいね。先生」

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