第21話 Girl meets Girl

 時は少し遡り東京競馬場。

 菊花賞から一週間後、二歳牝馬限定戦・G3アルテミスステークス。

 年末に開催される二歳女王決定戦であるG1阪神ジュベナイルフィリーズの前哨戦としての性格を色濃くもち、翌年のクラシック戦線での活躍馬はもちろんのこと、のちのG1馬も数多く輩出している出世レースである。

『――アルテミスステークスを制したのは一番人気パリスグリーン! ディアヌ賞勝ち馬のフランキスカを母に持つ良血馬が見事期待に応えました。

 パリスグリーンはもちろん鞍上の四王天愛はこれが重賞初勝利です!』

 思わず息を呑む。

 これが今年の四王天ファーム牝馬筆頭。いい馬には何度か乗せてもらったが、ここまで操縦性の高い馬ははじめてだ。

「すごい……」

 先週の新馬戦、アレクサンダーの走りは映像で見ただけでも衝撃的なものだった。間違いなく来年の牡馬クラシック戦線はあの馬、そして由比が主役となるだろう。

 であれば牝馬のクラシック戦線はパリスグリーンと私が主役になる。

 こんな大きなチャンスが舞い込んでくることは滅多にない。それは子供の頃から競馬の世界に身を置いている私が一番よく知っている。

 そして、それを掴み取れるかどうかが一流の騎手とそれ以外を隔てるのだ。

 絶対に逃がしはしない。


『パリスグリーンは乗り替わりだ』

「――は?」

 電話越しの父の言葉に、自分でも驚くほど間の抜けた声が出る。乗り替わり、つまり私にパリスグリーンから下りろと言っているのだ。

 冗談じゃない。

「なんで私が下ろされなきゃいけないの!?」

『? “なんで”?

 乗り替わりなんてこの仕事をしていれば日常茶飯事だろ。ここまでデビューから二戦、よく乗ってくれた。

 次からは手が空いたルピに乗ってもらう。心配しなくてもお前には別のいい馬をあてがうよ』

 私の激情にあわせることなく、父は淡々と言葉を紡ぐ。

 その姿が私の神経を逆撫でした。

「ふざけないで! 私だって上手く乗れる! 

 週末のレースだって一着を取ったわ! 次走、阪神ジュベナイルフィリーズで使うって言うなら、私はもう三十一勝をクリアしているしなにも問題ない! 

 それに私を使ったほうが注目が集まるはずよ、新人女性騎手で、しかもあの四王天ファームの娘なんだもの! 違う?」

 電話越しで父が小さくため息を吐く。

『たしかに、お前を使えば話題にはなるだろう。

 ――だが、いまパリスグリーンに必要なのは人の目を引くティアラでもきらびやかなドレスでもない。しっかりと舞踏会にエスコートしてくれる白馬の王子様なんだ。

 わかるだろ?』

「そんなのわからない! 乗せてよ!」

 感情が堰を切ったように溢れ出しぐちゃぐちゃになる。しかし、それに反して言葉はうまく続かない。

 下唇を強く噛む。じんわりと鉄の味が広がった。

 無言の時間がしばらく続いたあと、父は再び話を出した。

『愛。これ以上親である私の口から言わせないでくれ』

 駄々をこねる子供を宥めるように父は言った。

 

「はっきり言えばいいじゃない! お前じゃ実力不足だって! どう思います? 刀坂さん!」

 愛ちゃんの嘆きが朝の美浦トレーニングセンターに響く。

「まあまあ、落ち着きなよ愛ちゃん。はいこれ」

「……ありがとうございます」

 彼女は差し出された缶コーヒーをしぶしぶ受け取る。

 アルテミスステークスが終わってからずっとこの調子だ。たしかにあれほどの有力馬を下ろされる経験は初めてだろうからしょうがないかもしれない。

「パリスグリーンはそれだけ四王天ファームの期待が大きいんだろう。預託している播元はりもと厩舎も四王天ファーム御用達だからね」

「……わかってます。

 でも、私が結果を出したらそのまま乗せてくれると思ってました。父さんが求めてるのはレースでの勝利だから」

「……競馬には馬が七、騎手が三っていう言葉がある。競馬においてのそれぞれの影響力を表した使い古された言葉だ。聞いたことあるだろう?」

 愛ちゃんは頷く。

「残ってきた言葉ってのはそれだけ含蓄がある。

 競馬は馬だけでは成立しない。そして、大きいレースになればなるほどその割合は七対三から六対四、しまいには五対五なんて具合に変化していくと私は思う。誰が乗るかはそれほど重要な要素。

 だからこそ大舞台、G1レースに乗せてもらえることはそれだけで栄誉あることなんだ」

「……でも、私にはいまからその信用を勝ち取る時間はありません。なんかいい方法ないですか、刀坂さん」

「困ってるみたいだね、愛」

 声がする方を振り返る。そこにはまだ少年のあどけなさが残る若い男が立っていた。歳は二十くらいだろうか。

「……なにしに来たのいさみ。部外者立入禁止よ」

「ひどいな。僕は関係者だろ。たしかにまだ学生だけど、四王天ファームの仕事も一部任されてるんだから」

 横にいる愛をちらりとうかがう。彼女はこちらの視線に気づいてすぐに反応した。

「弟です。双子の」

「ああ、例の」

 そういえば弟がいると聞いたことがある。まさか双子だったとは。あまり似てないが、男女の二卵性双生児だとこんなものだろうか。

 勇くんはこちらを向いて頭を下げた。こちらもそれに応える。

「はじめまして刀坂さん。今年の桜花賞は見事でしたね。まさかリアルビューティが負けるなんて。いまでも信じられません」

「光栄だね、そう言ってもらえると。欲を言えばもう少し四王天ファームの馬に乗せてくれると嬉しいんだけど」

「父に伝えときます」

「帰って」

 愛ちゃんは我慢ならないといった具合に話を遮る。勇くんは余裕のある表情を崩さない。

「ヤダって言ったら?」

「ムリヤリ追い出すだけよ。方法はいくらでもあるわ。痛いのからすっごく痛いのまでね」

「いやいや、それはご免被るね。

 ――しかし冷たいな、はるばる東京から来たっていうのに。パリスグリーン降ろされるみたいだけどまだ乗りたいんだろ?」

「……なんでそれを」

「双子だからね。当然さ」

 愛ちゃんは憎々しい表情で舌打ちをした。普段なかなか見れない表情で少し可笑しい。

「そう怒るなって。

 牧場のことを考えたら父さんの言うことは正しい。どれだけいい馬でもレースで結果が出せなきゃ僕たちは飯の食い上げだからね。

 パリスグリーンにルピさんを乗せようってのも当然の経営判断だ。

 じゃあどうするか。

 答えは簡単だ。違う馬をルピさんに斡旋すればいい。幸いパリスにこだわらなくてもうちの牧場にはほかにもクラシック有力馬はいる。たとえば――」

 勇くんの顔に勢いよく液体がかかる。黒い。さっきのコーヒーだ。咄嗟のことに茫然と勇は立ちすくむ。

「二度と顔見せないで!」

 愛ちゃんはそう言ってどこかへ走り去ってしまった。残されたのは私と、哀れ服を汚された弟君だけだ。

「……ひどいなあ。買ったばっかの服なのに」

 勇くんは悲愴感あふれる顔で自らの服をまじまじと見る。眩しいくらいだった白いシャツは変わり果てた姿をしていた。

「あの言い方じゃ怒っても無理ないよ。だいぶ入れ込んでるみたいだしね」

「でも乗れなきゃ意味ないでしょ?

 パリスグリーンに乗れるように協力するって言ったんですよ、僕は。……ああ、ベタベタだ。最悪」

「君は正しいかもしれない。でも、残念だけど人を動かすのは理屈じゃなくて感情なんだよ」

「非合理的ですね」

「でも君もわかるところはあるんじゃない?

 平日のこんな朝早くからわざわざ美浦まで会いに来るなんて。いてもたってもいられなくなったんじゃないの?」

 勇くんは口を尖らせ、顔を背けた。

「双子なんで、しょうがなくですよ」

「……ふふ、そうだね。そういうことにしておこう」


「あーもうイライラする」

 パリスグリーンよりいい馬? 四王天ファームの今年デビューする二歳馬はすべて見たが現時点でそんな馬はいなかった。悔しいがそんなことは私よりも相馬眼のある勇のほうがよくわかってるはずだ。

「待てー!」

「ん?」

 なにやら騒がしい。

 あたりを見回す。いつもと変わらず厩舎が並んでいるだけだ。

 そうしている間にも、地面を蹴る音がどんどんと近づいて来る。瞬間、いななきとともに目の前を大きな影が遮った。

 ――馬だ。

 トレセン内で馬などなにも珍しくないが、乗り手も引き手もいないとなると話は別だ。

 競馬に使用される馬の品種はサラブレッド(Thoroughbred)といい、その名前は「完全に育てあげられたもの」を意味する。その名の通り連綿と品種改良を重ね、徹底的にレースでの速さを追い求めた馬、それがサラブレッドだ。

 それ故に気性は二の次三の次。なんなら荒いほうがレースで走るなんてこともあるのだから性質が悪い。

 気性が荒い馬は、さながら“猛獣”である。

「落ち着け! なにも怖いことはせん!」

 奥からどたどたと揃いのウェアを着た男たちが駆けてきた。

 目の前の馬と目が合う。あっという間にこちらとの距離が縮まった。

 ――やばい。

 反射的に目を閉じ、体を小さくする。

「……?」

 なにも起きない。

 額に暖かいものが当たる。目をゆっくりと開けると、さっきの馬がこちらに甘えるように顔をこすりつけているのが目に入った。すかさず口元に垂れ下がっている手綱を持つ。大きく息を吐く。

 これで、とりあえずは大丈夫だろう。おとなしい子でよかった。

「はあ……よかった、ようやく落ち着いた」

 ようやく追いついたウェア集団の中で一番恰幅のいい男が安堵の声を出す。よく見るとウェアにはローマ字で「Kazuhara Stable」と書いてある。

 数原かずはら厩舎。名前は聞いたことあるが、四王天ファームの馬は預けていない小規模厩舎だ。

「本当にすまん! 怪我は無いか?」

「ええ、大丈夫です。

 ――おとなしい馬だからよかったですけど、気を付けてくださいよ」

 私の言葉に数原厩舎の関係者は顔を見合わせた。なにやら小声で話し合っている。

「? なんです?」

 なにか変なことを言っただろうか。

 少しの話し合いののち、意を決した様子で恰幅のいい男が難しい顔をしてこちらに一歩進み出る。目と鼻の先まで近寄ってくるものだから思わず一歩引いた。

 視線が交錯する。

「次のレース、この馬に乗ってくれんか」

「…………はい?」

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