第19話 最終関門

「しかし、栗東も騒がしくなったな」

 咲島調教師が音を立てて茶を啜る。

 午後、雑事を終えてつかの間の休息だ。

「菊花賞のあと、スポーツ紙とか専門紙だけじゃなくて一般紙やテレビの取材も来てますからね。まあそっちは馬じゃなくて岸くんのほうに興味があるみたいですけど」

 市口調教助手が相槌を打つ。咲島は手元の新聞に目を落とした。

「……“神の子復活”か……。燻ってただけのくせに随分と大層な見出しだな」

「あの“有馬の奇跡”でノッキンオンハートを勝たせてくれた騎手なのに辛辣ですね、先生」

「市口、何度言やわかる。奇跡なんかじゃねえあれがあの馬の実力だ。岸の野郎が乗ってなくても勝ってた」

「あの時はお父さんが岸君に騎乗依頼したんじゃなかった? わざわざ美浦まで行って」

 台所からみずきが顔を出し話に入って来る。じろりと咲島調教師が彼女を睨んだ。

「知らんな」

「都合が悪くなるといっつもそうやって誤魔化すんだから。そんなこと言ってるから誰も乗ってくれなくなるのよ。

 そのうち青ちゃんにだって愛想尽かされるんじゃない?」

「ふん。愛想尽かされるほど懐かれてねえよ」

「まったく。

 ――そういえばそろそろトライアルレースの最終戦始まってる頃かしら?」

 みずきが壁にかかった時計を見た。

「今日じゃねえよ明日だ明日。ちょうど今頃着いてる頃だろ――」

 温くなった残りの茶を啜り、音を立てて湯呑を置いた。

「名古屋にな」

 

 名古屋競馬場。

 クラッシュオンユーの次戦に後ろ髪を引かれながら降り立ったここで、ユースフルジョッキーズシリーズ西日本トライアルの最終戦が執り行われる。近年、愛知県名古屋市港区からトレーニングセンターのあった弥富市に移転したこともあって現在日本で最も新しい競馬場である。

 ファイナルラウンドに出ることのできるのは東西合わせて十六名。西日本トライアルで中央競馬会所属騎手が出場できる枠は四枠だ。

 この前佐賀で一緒だった由比は先週金沢で予選の全レースを終了し、すでにポイント数一位での通過が決まっていた。残りの三枠の内二枠もほぼ確定しているので、今日の結果次第で最後の一人が決定する。

 いまはまだクラッシュオンユーに乗せてもらっているがYJSの結果如何では降ろされることになっても不思議ではない。 

 なんとしてもその一枠に入らなければいけない。

 競馬場に着くと見知った男が立っていた。目が合う。あちらは特に驚く様子もなくこちらに右手を上げた。

「なんであんたがいるの? 番場」

「いちゃ悪いかよ、日鷹」

 競馬学校で同期だった番場だ。

 私は腐っても同期なので辛うじて覚えていたが、なかなかこうはいかないだろう。褒めてほしい。

 番場は関東の美浦トレセンに所属しているので中央のレースで会う程度だが昔のままだ。以前より少し頬がこけているくらいだろうか。

「ご飯でも行く?」

「なんでそうなる」

 しかし、なぜ番場がここにいるのだろうか。

 YJSに出るにしても番場が出場している東日本地区のトライアルレース会場に名古屋競馬場は含まれていない。

「ここ名古屋だけど? ……もしかして間違えちゃった?」

「バカ。間違ってねえよ。

 YJSの東日本地区のトライアルレースは西地区そっちより一週早く全部終わったからな。

 修行だ修行」

 それは知らなかった。

「そうだったんだ。それで? 結果は?」

「……お前、同期の成績くらい少しは興味を持ったらどうなんだ。全体三位で予選通過だよ」

「愛と長谷くんは?」

 待ってましたとばかりに番場は得意げに笑った。

「通過したのは俺だけだ」

 意外だ。長谷くんはまだしも愛も予選敗退か。

 各予選レースは公平を期するため乗り馬は抽選で決まる。普段乗っているレースに比べれば騎手の実力や人脈以外の不確定要素に左右されると言われればそうだ。

 そういった意味でも由比が予選を一位で通過したのは流石というべきだろうか。

「あんたそんなに運良かったっけ?」

「あ? 実力だ! じ・つ・りょ・く!

 俺の親父が誰か忘れたか? 地方競馬なんてガキの頃から遊び場なんだよ」

「ふーん……、あっ、じゃあコツとか教えてよ。地方競馬で勝てる」

「そんなもんはねえよ」

「ケチ」

 番場はムッとして眉間にシワを寄せる。

「ケチじゃない。――じゃあ聞くがお前、いままで見てきたレースは何回だ?」

「は? なに急に。そんなの覚えてるわけないじゃん」

「俺は軽く五万回はレースを見てきている」

「五万!?」

 頭の中でその膨大な数にあと何年で辿り着けるか計算してみようと試みるが早々に断念した。 

「俺とお前じゃこれまでの積み重ねが違う。

 まだ鼻水垂らしたガキの頃から大井で親父の背中を見て、時期が合えば地方競馬場にも連れられてな。小学校に上がってからも暇さえあれば家でひとりレース映像を見た。いろんなレースをだ。

 そして騎手になった今は毎レース、イメージと実際のレースの齟齬をひとつひとつ地道に修正してる。

 コツなんてスマートなもんじゃない」

「……なにそれずるい」

「いまの話を聞いてなんでそうなる」

「ずるいもんはずるいんだよ」

 こういうとき、自らの経験の浅さを痛感する。

 G1レースを目指しているからには、そしてクラッシュオンユーに乗っていくからには、少なくとも同期のなかで抜きん出てるようでなければ話にならない。

 私にはまだまだ足りないものばかりだ。

「ま、頑張れよ。

 ファイナルラウンドで同期が俺と由比だけじゃ寂しいからな」

 私の肩をポンと叩き番場は先を進む。その後ろ姿はあっという間に小さくなった。

「首洗って待ってろよ!」

 こちらを振り返ることなく、番場は左の掌を上げた。


 翌日。

 名古屋競馬場は雲ひとつない快晴だった。

 名古屋競馬場のトラックは全長千百八十メートル。そのうち直線距離は二百四十メートルあり、これは西日本に存在する七つの地方競馬場のなかで最長である。

 そしてもうひとつ特徴的なのがその広いコース幅だ。その幅は実に三十メートルほどあり、中央競馬のコースに匹敵する。ほかの地方競馬のコースが平均二十メートル程度であることを考えるとその広さがわかるだろうか。

 第三コーナーから第四コーナーにかけては入口から出口にかけて徐々に半径が小さくなるスパイラルカーブになっていることもあり、スピードを落とすことなくコーナーを回ることができる。すなわち、最後の直線は馬群がばらけ、差し、追い込みといった後方からの馬も活躍しやすい競馬場なのだ。

『――一着デラビッグマン。二着争いはドレミノウタとチタノスピードが接戦、ドレミノウタが僅かに優勢でしょうか。

 デラビッグマン鞍上の番場稔は名古屋競馬場ではこれで二勝目。父である番場卓騎手を彷彿とする力強い追い出しでした。これで中央地方合わせて今季二十勝目を達成です』

 遠くで実況の声が聞こえた。パドックでは次のレースへの準備がたんたんと進んでいる。

 目一杯肺に空気を送り、すべて吐き出す。数度それを繰り返した。

「……絶対に勝つ」

 自らの頬を強く張った。

 最後のトライアルレースが始まる。

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