第18話 最も強い馬

 第五レース、新馬戦、芝千八百メートル。

 京都芝千八百メートルは向正面、二コーナー奥のポケットからスタートする。スタートから最初のコーナーまでは九百メートルの距離があり、U字状にコースがとられているためコーナーを二回しか回らない。

 最初のコーナーはいわゆる“淀の坂”と呼ばれる上り坂のためスピードが落ちるが、そこを除けば全体として平坦なコースなこともあって時計が出やすく競走馬の実力が結果に反映されやすいコースである。

 出走馬で注目すべきはアレクサンダー、次点でトルメンタデオロであろう。二歳馬にして三冠馬イスカンダルを彷彿とさせる馬体を持っているアレクサンダーは言うまでもないが、トルメンタデオロもその芝馬らしからぬ馬格の良さはアレクサンダーにも引けを取らない。

「末崎、どっちが勝つと思う?」

「アレクサンダーとトルメンタデオロですか? うーん……、強い方ですかね! ……なんちゃって」

 末崎はおどけて笑う。

「……強い方か。違いないな」

「あれ? 殴ってこないんですか?」

 顔の前で腕を十字に身構えた末崎は素っ頓狂な声を上げた。

「お前、俺をなんだと思ってるんだ」

「いやあ……、ははは。

 ――じゃあ先輩はどっちが勝つと思います? どっちの厩舎も結構取材行ってましたよね?」

「そうだな。

 ……末崎、一番力の差が表れるレースってのはなんだと思う?」

「力の差? レースは同じレベルで戦うことになるんだから一緒じゃないんですか?」

「たしかにJRAのレース体系は、新馬・未勝利→1勝クラス→2勝クラス→3勝クラス→オープン特別→リステッド→G3→G2→G1というようにG1レースを頂点としてピラミッドが築かれている。まあ、これはあくまで目安で出走条件を満たせば格上の条件へ挑戦することはできるがな」

「……! そうか、新馬戦だけそれまでレースを走ったことがない馬が集まりますね」

 末崎は勢いよく手を叩いた。

「そう、極端に言えばそこでは将来の顕彰馬も名前すら忘れ去られる未勝利馬も一緒くたになって走る。だから当然人気順での決着も多くなってくるわけだ」

「なるほど。

 ……ん? でも、それが今回のレースとなんか関係ありますか? 結局どっちが勝つかってことの答えになっていないような……」

「関係大有りだよ。このレースは世間が思ってるような面白いレースにはならない」

 そろそろレースが始まる。場所を移ろう。

「ちょっと待ってください! どういう意味ですかそれ!

 結局どっちが勝つんですか!?」

 末崎が慌てて後を追ってきた。

 

「ボクが勝つヨ」

 ひとつ離れたゲートからルピさんがこちらを向かずに話しかけてきた。横目でうかがい見た後、視線を正面に戻す。

「申し訳ないですが負けるつもりはないです」

「このあと菊花賞だから景気づけにさせてもらうよ」

 ルピさんはこちらに構わず話を進める。普段とは異なり流暢な日本語だ。そうこうしているうちに偶数の馬番の馬たちがゲートへと入って来る。

「目の前のレースに集中したらどうですか」

「言われなくてもしてるよ。クソガキバンビーノ

「……俺を挟んで喧嘩はやめろ」

 僕とルピさんに挟まれた猿江さんが口を尖らせた。


 人々の熱視線のなかで第五レースが始まった。

 揃ったスタート、最初のコーナーまでの直線では熾烈なポジション取りが繰り広げられる。

 暫くしないうちに隊列は縦長になった。

「……飛ばしすぎだな」

 一頭が逃げ、いや大逃げに近い状態になっている。鞍上は、……まだ若い騎手か。

「可哀想に。ありゃ、あとで説教確定だ」

 しかし、こう言ってはなんだが見てる分にはこういう展開になったほうが面白い。レースでイレギュラーが発生し、その程度が大きいほど騎手の力量が問われてくるというものだ。

 盤石と言っていいアレクサンダーの唯一の不安要素。それは騎手である由比に他ならない。

 ここまで四十四勝と新人騎手としては十分すぎるほどの成績を上げてはいるが、まだデビューして一年も経っていないひよっこであることに変わりはない。

 隙などいくらでもある。

 三コーナーの上り坂に差し掛かる。ペースが一旦緩み、すべての馬がラストスパートに備えた。

『――先頭、逃げるマーズフライト! 二番手集団はまだ遥か後ろ! このまま逃げ切り態勢に入ります!』

「さあ、どうでる?」

 最初に動いたのはトルメンタデオロだ。みるみるうちにマーズフライトとの距離を縮めていく。

 その時、アレクサンダーに鞭が入った。ギアが入ったのが傍から見てもわかる。

 鞭が入ったアレクサンダーが悠々と最高速に乗らんとするトルメンタデオロを躱していく。坂を下り、スタンド前に入ってきたときにはアレクサンダーはすでに他馬を置き去りにしていた。

 悠然とした前脚の力強い駆動はイスカンダルを彷彿とさせ、その足音は大王の帰還を告げるようにスタンドに響く。

『一着アレクサンダー! 圧巻の走り! いまここに大王の帰還を告げました!

 惜しくも二着はトルメンタデオロが続きます! 三着――』

「すごい! 圧勝ですね!」

「ああ」

 アレクサンダーが危なげなく勝った。

 トルメンタデオロは重賞馬になりうるポテンシャルは十分にある。しかし、アレクサンダーはダービー馬になる能力を持っているといって差し支えない。

 その差は紙一重だが打ち破ることが容易ではないものだ。

 しかし、由比も恐ろしいほど冷静だった。さっきの日鷹が薄氷の上に成り立つ無鉄砲な大胆さが持ち味だとすれば、由比はすべてを計算し尽くした盤石な堅実さが武器と言えばいいだろうか。

「……可愛くないねえ、新人のくせに」

「トルメンタデオロは残念でしたね。菊花賞は弟の敵討ちということでデザートストームに頑張ってもらいましょう!

 僕ちょっと菊花賞の馬券買ってきます!」

「あ? いっつもネットで買ってるじゃねえか」

「ほら、せっかくなんで紙で欲しいじゃないですか、三冠馬の馬券! それじゃ!」

「あ! おい!

 ……仕事中だぞ、わかってんのかアイツ」

 こちらの声はむなしく響き、末崎の姿はあっという間に人影に紛れ見えなくなった。

 アレクサンダーがその実力をいかんなく見せつけた新馬戦を終え、人々の熱気が少し落ち着いたかと思われた京都競馬場だが、菊花賞の発送時刻が近づくにつれて再び熱を帯びてくる。

 しかし、菊花賞は人々の思いもよらない結果を迎えた。

「……う、うそでしょ」

『な、なんと一番初めにゴールへと飛び込んできたのは八番人気! 

 二着デザートストームとの差は……! 一体だれがこの結末を予想したでしょうか!』

「……なんですかあれ? あんな……おんなじ距離を走ったのにあんなに差が……」

「……さっきの新馬戦も霞んじまう。今日という日の主役が誰かを力づくで証明しやがった」

 これは面白くなりそうだ。思わず頬が緩む。

「これだから競馬記者はやめられねえ」

 

 レースの興奮冷めやらぬなか、勝利ジョッキーインタビューが行われる。そこに立つのはトルバドゥールの鞍上、きし飛馬ひうまその人だ。

 糊の効いた紺のスーツを着こなしたインタビュアーがマイクを向けた。

「トルバドゥールは復帰戦での勝利とのことで、どういった気持ちで今回のレースに臨んだんでしょうか? やはり不安なところはありましたか?」

「なにも」

 岸は質問に対し短く返す。

 インタビュアーは少し動揺した様子を見せたが、努めて明るく次の質問に移った。

「……ご自身にとってもあの皐月賞以来の久しぶりのG1レースでの勝利となったと思いますが、そういったところは――」

「意識してません。

 たまたま乗った馬が強かった。それだけですよ。

 ――ひとつたしかなことは今日ここに敵はいなかったということ。そして、これからもいないということだけです」

「え?」

 インタビュアーが間の抜けた声を上げる。

 観客席が俄かにざわつく。なかには小さいながら罵声の声も飛び交っていた。

「……え、えーっと、それは次のレースの意気込みということで――」

「もういいですか? ここで話すことはありません」

 相手の言葉にかぶせる形で話を遮り、返事を待つことなく岸がお立ち台から降りていく。競馬場にいた誰もが茫然とその姿を見送るしかなかった。


 菊花賞。

 イギリス競馬のセントレジャーステークスを範にとる長距離競走である。皐月賞、日本ダービーと並び三冠競争と呼ばれるクラシックレースの一角だ。

 そして、それぞれのレースには古くからの格言が存在する。

 ――皐月賞は“最もはやい馬”が勝つ。

 ――日本ダービーは“最も運のいい馬が勝つ”。

 そして、――菊花賞は“最も強い馬が勝つ”。


 この日また、新たな怪物が高らかに名乗りを上げた。

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