第17話 土煙舞う

 京都競馬場は朝からすごい人だかりだ。

 それもそのはず、今日ここではクラシックレースの最後の一冠となる“菊花賞”がおこなわれるのである。しかも、普段の菊花賞とは一味違う。二冠馬が出走する、すなわちイスカンダル以来六年ぶりとなる三冠馬の誕生がかかった大一番なのだ。

 二冠馬であるデザートストームはクラシック三冠競争である皐月賞、日本ダービーを他馬を寄せ付けない横綱相撲で勝ち切り、菊花賞の前哨戦であるG2神戸新聞杯でも危なげなく勝利を飾った。

 当然三冠馬誕生への期待は大きいものがある。

 しかし、人々が大挙しているのはそれだけが理由ではない。いや、ライバル不在の菊花賞よりも人々が注目しているのはこちらの方と言っても過言ではないかもしれない。

 第五レース、二歳新馬戦、芝千八百メートル。

 ここにアレクサンダーとトルメンタデオロが出走する。アレクサンダーは悲運の死を遂げた三冠馬イスカンダルのラストクロップだ。一方のトルメンタデオロはいま最も注目を集めている米国種牡馬カムシンの産駒であり、件のデザートストームの一歳違いの全弟である。

 来年のクラシックの主役であろう二頭が早々にぶつかるとくれば、人々の期待は否が応でも高まるというものだ。

「なんだなんだ、朝からこんなに人が入ってるってのにパドックは寂しいじゃないか」

 隣に立つ小豆畑さんが冗談交じりにぼやく。

 第一レースということもあるが、たしかにパドックから少し離れたここから見た限りでも人が少ないのがわかった。

「まったく、俺たちはお呼びじゃないってか? 脇役は辛いねえ」

「でも、こういう自分が主役じゃないんだなって日、逆に燃えてきませんか?

 主役を食ってやろうって」

 こちらを見て小豆畑さんが芝居がかった仕草で顎を撫でる。

「なかなかいいこというじゃないか。たしかに人生ってのはこういう日にどう頑張るかが大事ってもんだ」

「じゃあ今日は勝たせてもらいますね。小豆畑さん」

「はは、やれるもんならやってみな、嬢ちゃん」

 小豆畑さんは悪戯な表情で口角を上げた。

 騎乗命令がかかる。

 パドックで待つクラッシュオンユーのもとに駆け寄った。


「うへえ、すごい人ですね、ダービーの時よりも多いんじゃないですか?」

 スタンドを眺め、隣に立つ末崎が間の抜けた声を出す。

「それだけ注目されているレースがあるってことだよ」

 末崎の顔に折り畳んだ競馬新聞を叩きつける。

「もう、乱暴だなあ。

 ……でも、例の新馬戦はわからないですけど、菊花賞のほうは三冠がかかってるっていってもあんまり面白くならなそうですよね。これまで走ったどのレースもデザートストームは圧勝してるし。負けたのは急仕上げだったデビュー戦だけなんですよね? それでも二着だし」

「ああ。不安は三千メートルの長距離がどうかってとこだけだろうな」

 菊花賞は三千メートルの距離を誇る長距離レース。

 三千メートルを超える平地レースは一年間で両手に収まる数しか開催されておらず、三歳馬に限ればこの菊花賞までに三千メートル距離を経験することはない。つまり今日集う三歳の牡馬たちにとっては未知の距離ということになる。

「――まあ、今年の三歳牡馬のレベルを考えると多少不安があるからといってデザートストームの牙城を崩す馬が同年代にいるとも思えないが」

 ここまでの有力な三歳牡馬のレースはすべて見たが明らかにデザートストームが一頭抜けていた。牝馬が桜花賞をロカ、オークスをリアルビューティ、そして先週の秋華賞をマリアブレスと牝馬三冠を分け合い、それでもなお有力馬が群雄割拠の様相を呈していることを鑑みても少し寂しいものがある。

 末崎は競馬新聞を広げ出走表の名前を読み上げていった。

「えーと……ほかの有力馬は、夏の上り馬、目下三連勝中のセントラルロンドン。菊花賞の東の前哨戦・G2セントライト記念の勝ち馬ナイトフォール。あとは……、あっ、この馬復帰してたんですね」

 出走表を横から覗く。

「……トルバドゥールか。そういえば皐月賞で三着になった後、怪我で休養してたな。

 しかし、怪我明けでぶっつけ本番の長距離レースに使うとは。調教師もなにを考えてるんだか」

「……やっぱりデザートストーム一強ですかねえ。うーん、さすがに単勝一倍台は賭けても面白くないなあ」

「別に賭けられるレースは菊花賞だけじゃねえんだ。それこそ話題の新馬戦でもいいし、目の前のレースでもいいじゃねえか。

 こっちのほうがなんぼか荒れるだろ」

 ちょうど第一レースの競走馬たちがパドックを終え、返し馬のために馬場へと入っていく。

「たしかに……。あっ、先輩あの子いるじゃないっすか。日鷹騎手。デビュー戦を見たときは心配しましたけど最近は結構勝ってるみたいですね。

 乗る馬は……前走十着かあ、うーん」

 クラッシュオンユーか。

 初めて見たがまだ二歳といえど牝馬並みに細い。

 まあ、十中八九走らないだろう。ダートを走れるような馬格がない。

「じゃあとりあえず応援馬券だけ、単複百円で。先輩は買わないんですか?」

「よく調べてないレースは買わん」

 滞りなく返し馬、輪乗りを終えてゲートに馬が揃う。

 ゲートが開いた。

『――さあ、スタートしました!

 三番オーキッドラン良いダッシュです! ぐんぐんと出ていきます。

 熾烈な先行争い、オーキッドランそのままが先頭に立ちました。続いて――』

 京都のダート千八百メートルはスタートから最初のコーナーまでの距離が短い。そのためスタートで後れを取ると巻き返していくことが難しくなる。

 当然、この先行争いはレースにおいて大きなウェイトを占めてくる。

『――隊列は早くも縦長。出遅れたのはクラッシュオンユー。最後方からの競馬になりました』

「……?」

 遠目で見ただけだがクラッシュオンユーのスタートは悪くなかったはずだ。わざと下げたのか?

 経験の浅い二歳馬だから安易に逃げさせたくないにしても随分と極端な位置取りだ。馬群は向こう正面に入る。緩やかな上り坂になりペースは鈍化、第三コーナーの下り坂に全馬備えている状態だ。

「! あれ!」

 末﨑が身を乗り出して馬群の後方を指差す。

「!」

『さあ、最後のコーナーを回って先頭は持ったままオーキッドラン、このまま逃げ切るか?

 ん? おっと、ここで外から飛んできたのはクラッシュオンユー! 最後方から凄い勢いで上がってきます! しかし、前とはまだ五、六馬身の差!

 先頭、依然としてオーキッドラン! さあ、届くか! 届くのか!?』

「! 凄い! いっちゃいますよこれ!」

 クラッシュオンユーが最後方から次々と馬を抜いていく。

 京都競馬場は向正面の三コーナーから四コーナーにかけて坂が設けられており、そこを下るとゴールまでは平坦な直線となるため、後半になってもペースが落ちない。ダートでありながら非常に早いタイムが出るコースではある。

 しかし、それを鑑みても一頭だけ勢いが違う。

『――あーっと、しかし、あと一歩届かず! オーキッドランが半馬身差で振り切りました!

 これには鞍上の日鷹騎手もがっくり』

「あー! あとちょっとだったのに!

 でも、すごかったですね! まるで飛んでるみたいでしたよ!」

「……ああ、思い出すな」

「? 思い出すって、なにをです?」

 末﨑が首を傾げた。


 レース後、検量室での後検量を終える。

 見事に一位入線を決めた小豆畑さんが笑いながらこちらに近づいてきた。

「いやあ、ビビったぜお嬢ちゃん。だが、まだまだ鍛錬が……ん? どうした?」

「……すごかったですよね?」

 小豆畑さんは無言で口角を上げた。

 やっぱり、勘違いではない。最終追い切りで乗ったときも感じたがこのレースで確信に変わった。

 前走とは走りの力強さがあきらかに違う。

「ああ、初戦とは馬が違っていた。ダートを走らせた甲斐があったな」

「それって」

「将来G1を勝つような馬が最初の頃ダートレースを走るなんてことがたまにある。なんでだと思う?」

「なんでって……。それはダート馬だと思ったからとか。それ以外だと、うーん……。ダートは芝よりもスピードも出ないしメリットは――」

「それだ」

「……まさか、ってことですか?」

「その通り。

 そもそもなぜダートが芝よりもスピードが出ないのか。それは脚が深い砂に埋まって走りにくいからだ。お前さんも砂浜を走ったことくらいあるだろ? あんな具合さ。

 反対に芝はスピードが出るがそれは走りやすいからにほかならない。いい時計、つまりいいパフォーマンスは出る反面、蹄が弱かったり脚元がまだ出来上がっていない馬にとっては大きな負担になる。

 だからダートはそういった馬にレース経験を積ませるのに最適な環境ってわけだ。

 だから咲島もダートで使った。そうだろ?」

「……たぶん」

「なんだ、なにも聞いてないのか? あいつも相変わらずだな」

 そういうことだったのか。

 ダートで使うということばかりに気を取られて考えが及ばなかった。たしかにクラッシュオンユーの馬体、特にトモの部分は入厩時よりハリがあり歩様も良くなっている。

「……そういえば、ノッキンオンハートの有馬記念前の休養。あれも脚元の故障が原因でしたよね」

「懐かしい名前だ。爆発的な末脚を持ったいい馬だったが脚元が弱くよく怪我に泣かされていた。

 ……人も競走馬も子は親に似るもんだ。困ったことにとりわけ短所のほうがな」

 馬を、クラッシュオンユーのことをよく見れていなかったのは私の方だった。

「……ありがとうございました! 小豆畑さん!

 ちょっと行くところがあるので失礼します!」

 私は急いでその場をあとにした。


 日鷹は話し終わるとそそくさと走り去った。

 今日のレースにしても荒々しいところもあるが、なかなかどうして肝が据わっている。

 さすが天才ジョッキー鳶島大洋の娘といったところか。

「……しかし、せっかちなところまでお前にそっくりだな。大洋」

 大きく伸びをする。

 まだ一レース乗っただけだというのに、まったく歳は取りたくないものだ。

「さてさて、あとは控室でゆっくり見させてもらうとするかね」

 熱気を纏う京都競馬場では早くも第二レースが始まろうとしていた。 

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