第16話 Born to be "THE GREAT"

「次は京都のダートだな」

「! 先生、レース見てましたか?」

 咲島厩舎に私の声が響いた。

 先週のクラッシュオンユーのレース映像を繰り返し見たが納得がいく回答ではない。

「当たり前だろ。ちゃんと控えて走れてたじゃないか。まあ、あれくらいはできて当然だが」

「だったら見たでしょ! 砂被って走る気をなくしてたのを!

 芝を走らせてください!」

「砂を浴びないやり方なんていくらでもあるだろ。それに一戦走っただけでお前に何がわかる?」

「……たしかに私はまだ未熟ですけど、未熟な私でもわかります。

 あの馬がダートを走るなんて絶対におかしい!」

 咲島先生はこちらに一歩詰め寄った。思わず一歩後退る。

「文句を言うなら今すぐ降りろ。別にお前が乗らなくてもいい」

「……!」

「! ちょっと! 落ち着いて!」

 先生を掴もうとした私を、すんでのところで市口さんが間に入って止める。

「どいてください、市口さん」

「どけ、市口」

「絶対どきません! なんなんですか朝っぱらから!」

 市口さんは両手を広げて叫んだ。構わず先生に向かって言葉を投げる。

「先生はクラッシュオンユーが勝たなくていいって思ってるんですか?」

「俺の指示に従えねえなら出ていけ」

「ちょっと、どうしたの?」

 騒ぎを聞きつけて、みずきさんや生島さんをはじめとしてあたりから人が集まってきた。

「……さっさと調教に行ってこい。お前が乗る馬はそいつだけじゃねえだろ」

 先生は振り向いて去っていく。

 そこで話は終わった。


 今日二頭目の調教に当たるため、一度厩舎エリアへと戻り吉中よしなか調教師のもとへ合流する。吉中先生はすでに厩務員と馬とともに私を待っていた。

「じゃあ、今日は十分に馬をほぐしたあとCウッドで強めに追ってくれるか?」

「はい。わかりました」

 栗東トレセンには一周二キロメートルを超えるトラックが鎮座している。トラックのコースは内側から外側に向かってAからEまでアルファベットが振られており、合わせて六つ(Dコースのみ内外で二コース)の平地調教用のコースが整備されている。調教師はこれに坂路を加えた調教コースのなかから最適なコースを選び日々の調教をおこなっているのだ。

 CウッドはそのうちのCコース。ウッドチップと呼ばれる粉砕された細かな木片が敷き詰められたコースだ。クッション性が高いため馬への負担が少なく、管理もしやすいという利点もあって多くの厩舎が利用している。

 調教トラックへと近づくとなにやら人だかりができていた。

「おい、あれが?」

「ああ、ほんとにそっくりだな」

 あたりが俄にざわつく。人々の視線の先、Cウッドを一頭の馬が走っている。

 その姿に思わず二度大きくまばたきをした。

「……イスカンダル……?」

 雄大な鹿毛の馬体。威風堂々とした前脚の駆動。

 あの日の有馬記念で見たイスカンダルがそこにいた。いや、しかし、その額には見覚えのない大きな流星が走っている。

 例えるなら“稲妻”のような。

「まさか、……あれがアレクサンダー?」

 調教を終え、馬上の騎手がゴーグルを外す。由比だ。間違いない。

 あれが現在、最後の三冠馬であるイスカンダルの噂の産駒・アレクサンダー。栗東に来ていたのか。

 しかし、栗東がこんなに浮ついているのは初めて見た。

「ありゃあ、いい馬だな」

「! 小豆畑さん。珍しいですね、調教にいるの」

 隣にはいつの間にか小豆畑さんがいた。

 高齢なこともあり最近はめっきり調教に乗らなくなったらしく、ここに来てからまだ数度しか調教のときには会っていない。

「たまには馬だけじゃなく老体にも鞭を打たんとな」

 そう言って小豆畑さんは大口を開けて笑った。

 話を戻そう。

「……でも、見るだけでわかるもんですか? いい馬かどうかって」

「ん? ああ、無駄に歳は食ってきたからな。名馬ってやつはたくさん見てきたが、やっぱりいい馬ってのは佇まいが違う。

 こう、なんというか、色気がある」

「色気……?」

「しっかし、アレクサンダーといい、トルメンタデオロといい栗東には今年も活きの良い馬が入ってきたな。ジジイにも一回は乗せてほしいもんだ」

「トルメンタデオロ? なんですそれ?」

 はじめて聞いた名だ。

「なんだ、まだ見てないのか?

 もう一頭来てるんだよ栗東に。来年のクラシックレースの有力馬が」

 トラックを見渡す。小豆畑さんが首を振った。

「残念ながらこっちじゃない。坂路のほうだ。今頃あっちも騒いでるだろうよ。

 ――なんせ今年の二冠馬、デザートストームの全弟だからな」

 そう言ってほくそ笑んだ。


 調教トラックの南側。まっすぐ線を引いたように設置されているのが栗東の坂路コースだ。

 全長千八十五メートル、スタートからゴールまでの高低差は三十二メートルを誇る。

 そのひしめき合うように馬がいる坂路を、一頭の馬が悠々と駆け上がっていった。その鞍上はリーディングジョッキーのルピだ。坂を上り切り調教を終えると、馬をクールダウンさせながらゆっくりと戻って来る。調教助手が駆け寄り馬を預かった。

「いい馬だネ。マダ荒いけど似てるヨ、デザートストームに」

「まだ二週前追い切りですけどルピさんが乗ってくれて更に良くなってますよ。レースが楽しみです」

 調教助手は興奮を抑えきれない様子で話を続ける。

「でも、兄の三冠がかかった菊花賞当日の新馬戦に出すなんて、オーナーもなかなか粋なことをしますね。――アレクサンダーをぶつけられるのは誤算でしたけど。

 ……まあ、鞍上はルーキーなんで思ったほどの馬じゃないかもしれないですね。素質馬ならもっと経験のある騎手を乗せるでしょうし」

「関係ないヨ。天才は生まれながらに天才なのサ。――ボクみたいにネ」

 ルピはおどけて笑った。調教助手はその拳を強く握った。

「じゃあ、ますます負けるはずありません! ルピさんもトルメンタデオロも天才ですからね!」

「……ふふ、そうだネ」


「ライバルがいっぱい来てるよ、クラッシュ」

「……またクラッシュオンユーと話してるんすか?」

 馬の手入れをしていると他厩舎の調教を終えた日鷹さんがいつの間にかクラッシュオンユーの前に立っていた。クラッシュオンユーの馬体にかかるシャワーが、朝日を受けてきらきらと反射する。

 クラッシュオンユーは今日がレースの二週前追い切りだった。今日は負荷をかけるために日鷹さんより体重の重い調教助手の市口さんがまたがっている。

「はい。クラッシュはシャイなんで私が話すだけですけど」

 クラッシュオンユーは特に反応を示すこともなく、気持ちよさそうに瞼を閉じたままだ。

「……それはシャイってことでいいんすか?」

「もちろん!

 あっ、生島さんは見ました? アレクサンダー。あと、トルメンタデオロっていう馬も来てるらしいんですけど」

「まあ、遠くからなら」

「なんかすごいらしいですね。私はまだアレクサンダーしか――」

 そこで急に日鷹さんが話を止めた。ゆっくりとクラッシュオンユーの横に回りながら馬体を確認している。

「どうしたんすか急に?」

「……なんか、この前より大きくなってます?」

「そりゃあ、二歳馬っすからね。人間でいえば小学生くらいっす。まだまだ成長期なんで一日一日、まるで別馬みたいに変わっていくっすよ」

「……」

 なにかを考えているのか、日鷹さんはしばらくのあいだ口元に手を当てて動かない。水が床を打つ音だけがあたりに響いた。

 ようやく口を開く。

「……生島さんはクラッシュがダートレース走ることどう思ってますか?」

「またその話っすか? ……まあ、その話っすよね。

 いろいろ思うところはあるんでしょうけど、咲島先生は馬にとって意味がないことはしない人っすよ」

「……わかりました。

 生島さんがそういうなら信じてみます。ゲート試験もそれでうまくいったし」

「それは……あんまうれしくない理由っすね」

「なんでですか!」

 日鷹さんの声が響く。

 うるさいとばかりにクラッシュオンユーが鼻を鳴らした。

 

 五回京都六日目。

 一戦目の敗北からあっという間に時が過ぎ、クラッシュオンユー二戦目の日が訪れる。

 この日、クラシックレース最後の一冠となる“菊花賞”がおこなわれる京都競馬場。ここで新たな伝説が生まれることを人々はまだ知る由もない。

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