第15話 砂かぶり

 九月中旬、早朝。

 長かった夏も鳴りを潜め始め、この時間だともう風がすっかりと涼しくなった。

 クラッシュオンユーにまたがり厩舎から調教コースへと向かう。栗東トレーニングセンターの広大な敷地には、競走馬を育てるために多くのコースが存在している。調教日ともなるとここに所属する馬たちが間断無くコースを行き来している。

 クラッシュオンユーはゆっくりと歩みを進める。

 当初の予想と反して彼はおとなしい馬だった。調教も無難にこなすし、言うこともよく聞く。

 ただ、正直言ってしまえば物足りない。

 タイムは遅いとは言わないまでも凡庸。これまで乗ってきた馬たちと大きな違いを感じない。先生がダートで使うといったのもそれが理由かもしれない。

 でも――。

「芝を試してくれてもいいのに。そう思わない? 由比」

「……それを僕に言ってどうするんだよ」

 調教馬に跨る由比は こちらの問いにつれない返事をする。

 それを無視して私は話を続けた。

 「私、この子は芝馬だと思う」

 由比は私の言葉にクラッシュオンユーをじっと見た。少しの沈黙ののち、ゆっくりと口を開く。

「……父であるノッキンオンハートのここまで二世代の産駒成績はダートより芝での成績が顕著。馬体重もざっと見て四百五十キログラムもない。そして見る限りで走りは後肢優位――。

 たしかに芝馬かもしれない」

「でしょ!」

「でも、僕らでもわかるようなこと先生たちが気づかないと思うか?」

「……むー……」

 それはそうなのだが。

「でも、私はこの子で有馬記念に行きたい。だからダートじゃダメ」

 有馬記念は中山競馬場で行われる“芝”のG1競争。

 そもそもJRAで行われるレースの割合は芝とダートでほぼ同数であるが、G1からG3までの重賞レースのうちダートで行われるものは全体のわずか一割ほどに過ぎない。

 このことからも中央競馬は芝のレースを中心として回っている。

 当然芝のG1レースを目標とするなら、芝のレースを走るのが道理だ。

「焦りすぎだよ日鷹は。

 別にクラッシュオンユーで有馬に行かなくても、ノッキンオンハートの産駒はまだたくさんいる。

 それに、どうしてもその馬で行きたいにしても、ダートを走ったからといってずっとダートを走らなければいけないわけでもないだろ?

 そのうちチャンスもあるかもしれないよ。

 というよりノッキンオンハートにこだわりすぎじゃないか?」

 こちらを悟すように由比は述べた。

 彼の言うことはもっともだが、これは理屈ではないのだ。自分は期待されているアレクサンダーに乗れるから良いかもしれないが、余裕な態度を見せられると少し癪に障る。

「……そういえば、アレクサンダーは?」

「え?」

 予想していない質問だったのか、由比の声が半音上がる。

「アレクサンダーはいつデビューするの? 乗るんでしょ? 全然音沙汰ないけど。トレセンにもいないし」

「……来月には会えるよ。いまは外厩で調教してるから。

 ――ごめん。次の調教があるから。

 それじゃ、頑張って」

 そう言って由比はそそくさと去った。

 手綱を数度引かれる。目線を落とすと、クラッシュオンユーが早く帰るぞと言わんばかりに首を振った。

 

 四回阪神七日目、第四レース。

 二歳新馬ダート千八百メートル。

 奇しくも私のデビュー戦と同じコース。ストロングフィズと共に戦った舞台だ。

「リベンジマッチね。燃えてきた」

『阪神競馬場、第四レース。

 メイクデビュー、ダート千八百メートル。今日ここに、歴史に名を残してくことになる名馬が誕生するのか。

 一番人気はアーニングズゲーム。二番人気は――』

 新馬戦に出走する馬はこれまでに競争経験のない馬たちだ。では、そのなかでどうやって人気の有無が決まるのか。

 それを決めるのは事前の調教での動きであり、騎乗する騎手であり、厩舎のコメントであり、なにより血統である。

 アーニングズゲームの父馬はダートレースにおいてこれまで重賞勝ちの馬を何頭も排出している。調教での持ち時計も良好、騎手もあの那須さんとくれば人気になるのは頷ける。

 ちなみに私たちは六番人気だ。

 そういえば六という数字は今日の占いでのラッキーナンバーだった。いや、五だったかもしれないが、まあ細かいことはこの際気にしない。

 縁起でもご利益でも担げるものは担いでおこう。そんなもので斤量が変わりはしない。

 初々しくも全馬がゲートに揃う。あとはスタートを待つばかりだ。

「人気で順位なんて決まらないからレースがある。

 見せてやろうよ。アンタの実力」

 ゲートが開く。

 クラッシュオンユーは勢いよく飛び出した。スタートは上々だ。

「!」

 いや、

『揃ったスタート。内から一頭、――クラッシュオンユーが抜け出していきます』

 ハミを強く噛んでいる。

 力み過ぎだ。

 手綱を引き、なんとか前進気勢を抑えようと試みる。

 トレセンの調教コースの時と様子がまるで違う。いままでもそういった馬に乗ったことはあるが、ここまでのははじめてだ。

「……! あんた、猫かぶりすぎでしょ……!」

 手綱を操り、なんとか制しようとするがそれに逆らうようにクラッシュオンユーはぐんぐんとその速度を上げる。

「絶対に控える競馬をしろ」

 レース前の咲島先生の言葉が頭をよぎる。

「? 阪神のダート千八百ですよね? 逃げ先行のほうがいいと思うんですけど」

「お前は若い馬に乗ったことがねえからわかんねえだろうがな、絶対にそんな乗り方はするな」

「負けそうになっても?」

「そんなんで勝つくらいなら負けてこい」

 先生はそう言っていたが、この勢いのままいかせたほうが間違いなくクラッシュは気持ちよく走れる。

「……」

 手綱を短く持ち直し、再度強く引く。

 クラッシュオンユーはようやく落ち着きを見せ、馬郡の中団後方に位置取った。

「……これでいいですか。先生」

 レースはよどみなく展開していく。

 体感、タイムはおそらく平均からやや遅いくらい。一番人気のアーニングズゲームは中団のやや前に位置している。

 競馬をまだしっかりと覚えていない新馬たちだ。ここで後続馬が捲ったりして無理をすることもないだろう。この馬群のまま、最終直線の勝負になってくるはずだ。

 私ができることは、ラストスパートでスムーズに上がれるよう位置取りを調整すること。

 なら――。

 クラッシュオンユーをアーニングズゲームの少し後ろにつける。

「お邪魔しますね。那須さん」

 仕掛けどころを図るのにこれほど適した場所はない。あとはラストスパートまで――。

 その時、頬を打つように痛みが走った。

 痛みの正体はすぐわかった。砂だ。先行する馬の蹴り上げられた砂がかかったのだ。

 私にかかったということは、それ以上にクラッシュオンユーにも砂がかかっている。

 最後の直線、鞭を入れ合図を送るが反応が鈍い。

「……!」

 走る気を失っている。

 ダートを走るうえで重要になってくることは、砂を掻くパワーや、それに適した走り方だけではない。いい意味での鈍感さが必要になってくる。

 芝と違い、ダートでは競走馬が走ることで砂が後続の馬に襲い掛かる。それがどうしたと言いたくなるが、時速六十キロメートルを越えるなかで絶え間なく浴びるそれは繊細な馬のやる気を削ぐのに十分だ。

『一着、アーニングズゲーム! 那須! 後続と二馬身差!

 人気に見事に応え勝利を手にしました!』

 クラッシュオンユーの初陣。

 ゴール後の実況でその名が呼ばれることはなかった。

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