第14話 月下のステートメント
誘導に従い発馬機の中にゆっくりと入る。
後方の扉が閉じられるが、クラッシュオンユーは少し反応を示したものの落ち着いていた様子だ。
駐立も問題ない。
手綱を短く握り、スタートの合図を待つ。
「……」
ゲートが開いた。
クラッシュオンユーがスタートを切る。
――上手くいった。
そう思ったのも束の間、違和感に気づく。加速していかない。
想定外だった。
「不合格」
その三文字が無情にも告げられる。
クラッシュオンユーの初めてのゲート試験は不合格だった。
ゲート試験。
JRAの新馬がデビューする前に課せられる試験であり、ゲート入りからスタートまでレースを行うのに問題がないかを確認するためのものだ。これに合格することで晴れて競走馬としてデビューすることができる。
逆に言えば、これに合格できなければどんなに能力が高い馬もデビューすることができない。
ゲート試験は毎週水曜日から金曜日にかけて実施されており、これを行うタイミングは各厩舎に任されている。ここ、栗東トレセンに入ってすぐ行う厩舎もあれば、レースが差し迫ってから行う厩舎もある。
咲島厩舎は後者だ。
クラッシュオンユーはトレセンでの調教もひと通りこなし、今月すなわち九月中のデビューを予定している。ここで躓くとこれからのスケジュールに影響が出てきてしまう。
「別に今年中に合格できりゃいい」
試験を見守っていた先生のもとに帰ると、素知らぬ顔でそう言った。
「でもそれだと」
「バスや電車じゃねえんだから、馬がいっつも人間の思う通りにいくかよ。
ゲートを出るまでは上手くいったんだ。一回目にしちゃ上出来だろ。
なかにいたときはどうだ? 落ち着いてたか?」
「……特に、問題はなかったです」
「じゃあなにも心配するこたない。来週再試験すりゃいい」
そう言って先生はその場をあとにした。
「生島さん。なにがだめなんでしょうか」
一頭目の調教を終え、二頭目の調教の準備のために戻ってきた日鷹さんが唐突に質問してくる。
おそらく昨日のゲート試験のことだろう。
「先生も言ってましたけどそこまで深刻にならないほうがいいっすよ。
日鷹さんにとっても初めてのゲート試験だからいろいろ考えちゃうとは思いますけど」
咲島厩舎に所属する馬のゲート試験は多くの場合、自分がおこなっていた。しかし、クラッシュオンユーに関してだけはゲート試験を含め、日鷹さんにすべて任されていた。
口ではああ言っているが先生も随分と期待していることがわかる。
「コツとかないですか?」
作業の手を止める。
「……うーん、ゲート試験は結局馬の試験っすからね。
騎手にできることも限られてるんで。
……話してみたらいいんじゃないっすか。クラッシュと。
どうしたら出てくれるか、って」
「……馬と話してみる」
日鷹さんは真剣な顔で宙を見つめた。
「――なんてね。冗談っすよ」
慣れないジョークに口元が若干ひきつる。
日鷹さんはブツブツと呟きながら調教コースへと戻っていった。
「おはよう。クラッシュ」
時刻は深夜二時過ぎ。
草木も眠る丑三つ時、起きているのは競走馬とホースマンくらいなものだ。
馬房のなかのクラッシュオンユーは私が来ることをわかっていたように静かにこちらを見た。
彼の馬房の前で腰を下ろす。
暫し、沈黙が二人の間を埋めた。
「私、これから阪神競馬場にレースに行くの。いいでしょ?
こことは比べ物にならないくらい人がいっぱいいるんだ。私がプロになってから初めて走った特別な場所よ。
あなたも走ってみたくない?」
当然、クラッシュオンユーから返事はない。
「なんて、わかるわけないか」
再び沈黙が訪れる。クラッシュは我関せずといった様子でこちらを見下ろす。
まったく、ストロングフィズのほうがずいぶん愛嬌があった。
「……昔ね、あなたがいるそこには違う馬、女の子がいたの。
私が初めて乗った馬。
名前はストロングフィズ。
少し赤みを帯びた鹿毛に、綺麗な目をしててね。
でも、レースに行くとこれが困った子で。ゲートのなかでは落ち着きがないし、抜け出したらソラを使うし――」
瞼を閉じると、いまでも彼女の姿が鮮明に浮かび上がる。たった五ヶ月ほどしか一緒にいることができなかったのに、長い長い時を共に過ごしてきたようだ。
「大好きだった。
――でも、もうここにはいない。私が、勝たせてあげれなかったから」
そう、私に実力がなかったから。
立ち上がる。お尻についた土を払った。
クラッシュオンユーは微動だにせずにこちらを見据えたままだ。
「もうそんなことは嫌。
だからこんなとこで足踏みするつもりはない。
絶対にアンタとレースに行く。アンタが嫌だって言ってもね」
雲に隠れていた月明かりが顔を出す。空を照らすのは、三日月と呼ぶにも心許ないか細い月だ。
「覚悟しといてよ。クラッシュ」
一頭目の調教の時間が迫っていた。クラッシュオンユーに短く別れを告げ、約束した厩舎へと急ぐ。
馬房から短く鳴く声が聞こえたような気がした。
「合格」
次のゲート試験、クラッシュオンユーはあっさりと合格した。気合を入れて臨んだ私としても拍子抜けだった。
「やればできるじゃん」
クラッシュオンユーは短く鼻を鳴らした。
その様子を見ていた咲島先生と生島さんのもとへ向かう。
「やりました!」
「……まあ、上出来だな」
「生島さんもありがとうございます! 上手くいきました!」
生島さんはキョトンとした顔をしたが、すぐに怪訝な表情で眉間にしわを寄せた。
「まさか、本気にしたんすか? あれ」
「あ? なんだ、あれって?」
「いや、ゲート試験のコツを聞かれたんで馬と話してみればって……」
咲島も同様に眉間にしわを寄せた。
「……それでお前、クラッシュオンユーと話したってえのか?」
「はい! ……まあ、私が一方的に話しただけですけど」
先生は一拍置いて大きな声で笑い出した。
「まったく、馬鹿もここまで行くと清々しいな」
「! もしかして、馬鹿って私のことですか?」
「……もしかしなくてもそうだと思うっすよ」
先生が柏手を打つ。
「さあ、早速デビュー戦の準備だ!
二週間後の阪神、“ダート”で行く。うかうかしてる暇はねえぞ!」
「はい!
……ん? ……ダート? いま、ダートって言いました!?」
早朝の栗東トレセンに私の絶叫がこだました。
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