第13話 初嵐
暑い。
額の汗を再びハンカチで拭う。
雲ひとつない青空。強烈な太陽が容赦なくこちらの体力をじわじわと奪う。立秋も過ぎ、少しは涼しいかと期待して札幌まで脚を伸ばしたがあてが外れた。
いま中央競馬は春の主要なレースの開催が終わり夏競馬の真っ只中だ。有力馬たちは涼しくなる秋まで暫しの休みに入る。そのため、夏は日頃は脇役に甘んじている馬たちが躍動する季節だ。このうんざりする外気温よりも熱い戦いが日々繰り広げられる。
この時期は中央競馬が開催される十場のうち、東京、中山、阪神、京都を除いたローカルの競馬場がメインとなることもあって記者の身としてもなかなかに忙しい。
「――では最後に。
このレースで十勝目ということでひとつの区切りになると思うのですが、次の目標はありますか?
差し支えなければ教えていただければ」
「……目標」
目の前に立つ日鷹青がぽつりとつぶやく。
阪神でのデビュー戦を見たときはどうなるかと思ったが、今日のレースもしかり、見違えるほどに成長している。中央はもちろん地方のレースにも積極的に乗っているのが功を奏しているのだろう。
「やはり今出場しているYJSのトライアルラウンド突破とかに――」
「G1に出ることです。来年」
「……は? G1?」
G1レースを目指すことはわかる。ましてや騎手ならば誰もが標榜して然るべきだとすら思う。
しかし来年?
まだ十勝したばかりの見習騎手が?
「……本気ですか?」
思わず本音が漏れる。
「あ! 間違えました」
そうだろうそうだろう。レースに勝って昂揚していたのか。まあ、まだ一年目の騎手だ。口が滑ることもある。
「出るだけじゃないです! “勝ちます”!」
先程よりも力強く言い放つ。その目に一点の曇りもない。さながら今日という日の空のようだ。
まったく、どこからその自信が湧いて出るというのだ。
思わず口元がほころぶ。
面白い。
「……ありがとうございます。楽しみにしてますね」
いつの時代も、夏という季節は人を成長させるものだ。目の前の彼女がひと夏を越えどう変わるのか、じっくりと見せてもらおう。
「日鷹青! ただいま戻りました!」
勢いよく玄関を開ける。
二週間しか離れていないのに、咲島先生の家は懐かしい匂いがした。
右手には土産の袋、左手にはキャリーケース、背中にはパンパンのリュックサックを背負い、気分は険しい探検を終えて帰還した冒険家だ。
「あら、おかえり青ちゃん」
家の奥からみずきさんが顔を出す。ほかに人の気配はない。
「これ、お土産です! コロポックル!」
「あら! ありがとー」
「先生たちは馬房ですか?」
「ええ。
あ、そういえば、帰ってきたら馬房に来るようにお父さんに言付け頼まれてたわ。
武市さんに紹介したいって」
「武市さん?」
トレセン周りでは聞いたことのない名だが、馬主さんだろうか。とりあえず荷物を適当に置き、足早に馬房へと向かった。
馬房では咲島先生が爽やかなライトブルーのアロハシャツを着た男性と話している。先生がこちらに気付いて手を挙げた。
「おう、遅かったじゃねえか。日鷹」
「文句は飛行機に言ってください。
それで、私に紹介したい人って――」
「やあ、初めまして。日鷹さん。
馬主をやってます、武市です。よろしく。
佐賀ではコールミーベイベーがお世話になったね」
「! コールミーベイベーの馬主さんですか! ……まさか、私の騎乗を見てはるばる佐賀から」
武市さんは笑いながら顔の前で手を左右に振った。
「ははは、まさか。僕は普段は大阪のほうに住んでいるからね。来ようと思えばすぐさ。
――でも、君に興味があるのというのは正解だ」
「相変わらず騎手の趣味が悪い」
先生が毒づく。
「そういう騎手ばかり預かっている君には言われたくないよ」
武市さんは先生の言葉を軽くいなした。
「――ちょうど中央に馬を預けようと思っていてね。それで昔お世話になったここにしようとしたら、君が所属してるって言うじゃないか。
運命って信じるかい?
僕はロマンチックなのが好きでね。どうだ、乗らないか? うちの馬に」
「! いいんですか! 乗ります!」
馬主さんからわざわざ指名されるなど願ってもないことだ。
「俺は反対です。
久しぶりにいいオス馬掴んできたと思ったら、まだ見習いのこいつに乗せるなんて。
万が一にもダービーなんて話になったらどうするつもりです?」
「だから私は――」
「するんだろ? 三十一勝」
私が話終える前に武市さんが言葉を挟む。
先ほどまでの朗らかな声のトーンが変わった。その目はこちらを見定めるように光る。
生唾を飲み込む。
「……はい!」
再び表情が変わる。
「じゃあ、なにも問題ない。
まさか、G1に乗りたい騎手がそんなことも達成できないなんてことあるわけない。
そうだろう? サクちゃん」
「……」
先生は黙って息を吐いた。
「じゃ、決まったことだし早速会いに行こう」
そう言って武市さんは背を向け奥の馬房に向かう。あとに続くと馴染みのある馬房の前で止まった。
「! お疲れっす」
馬房の前を掃除していた生島さんがこちらに気付き会釈する。
「……ここ」
ストロングフィズの馬房だ。
いや、正確にはストロングフィズの馬房“だった”ところだ。
競走馬の世界はシビアである。
年間およそ七千頭生まれる競走馬のうち、中央のレースで勝ち上がる、すなわち一勝することのできる馬はその五分の一程度にすぎない。
三歳の八月一週目。
そこまでに勝ち上がることのできない馬は格上のレースへ挑戦するか、地方競馬への移籍、または引退を迫られる。
ストロングフィズはそのタイムリミットまでに勝ち上がることができず、馬主の懇意にしている地方競馬の厩舎へと移籍したのだ。
「さあ、この子だよ」
武市さんの目線の先、そこにはまだ体が細い一頭の馬がいた。
真っ黒な青毛の馬体。額の真ん中、小さいひとつの白斑がこちらの視線を奪う。
「きれいな馬……」
武市さんが満足気に頷く。
「“クラッシュオンユー”。今日から君が乗る馬だ」
その言葉を反芻する。
「クラッシュオンユー……。
――これからよろしくね! クラッシュ!」
クラッシュオンユーはこちらをじっと見据えた後、鼻を鳴らして顔を背けた。
「なっ!」
「お前じゃ不満だとよ。どこかの馬主より賢い馬だ」
先生の言葉に武市さんが苦笑する。
「いやあ、素質はあるんだがな。どうも気難しい奴で親しい牧場から庭先でもらったはいいが困っていてね。
こういう馬は君のところが一番いいだろ? ノッキンオンハートだって上手く育てたんだし。あの“有馬の奇跡”はいまでも語り草じゃないか」
「馬鹿言わんでください。俺だって普通の馬がいいに決まってんでしょうが」
ノッキンオンハート……。
あの日の有馬記念で私の人生を変えた馬。そういえば彼も小柄な青毛の馬だった。
「……もしかしてこの子、ノッキンオンハートの?」
「すごい。よくわかったね。そうだよ。
こいつは父ノッキンオンハートの牡馬だ」
「……よりによってな」
先生は不機嫌そうに吐き捨てる。
しかし、こんなに早くノッキンオンハートの子に乗るチャンスが回ってくるとは。
なんて運が良いことだろうか。
「日鷹、言っとくがな――」
「わかってます。まだ実力が足りないって言うんですよね。
でも、絶対に乗ります!
YJSで結果を出して、G1で、いや、有馬記念でこの子に乗って勝ちます!」
武市さんが実に愉快そうに笑う。咲島先生の肩を二度叩いた。
「サクちゃん、いい徒弟を持ったね」
「……無鉄砲なだけですよ」
「わかってないなあ。それがいいんじゃないか。
僕も若い頃に戻りたいもんだ」
「俺はごめんですね」
二人のやり取りの最中、額に汗が伝う。
それを拭うように、風が吹いた。
空は深く青く澄み渡る。足元には白い雲が湧き始めていた。
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