第4話 他人事
プロ野球選手が、引退をせずに、もう一度、
「プロ野球の世界に復活する」
ということもできる。
一つは、同じプロ野球であるが、
「支配下選手」
としては契約しないが、いわゆる、
「育成選手」
として契約するという場合である。
この場合は、いわゆる、
「三軍」
あるいは、
「四軍」
という形で、プロ野球選手という形になるのかどうか分からないが、
「今のままであれば、プロ選手として、試合には出れない」
ということである。
「成績がいいから、一軍に上げる」
ということが簡単に行われるが、それができるのは、二軍からである。
二軍は、あくまでも、一軍の下部組織なのでできるのだ。しかし、これが、
「育成選手」
ということであれば、再度、
「支配下選手」
としての登録となる。
そうなると、市街化選手にできる人数も確か決まっているだろうから、簡単にはできない。
そうなると、
「二軍と三軍の壁」
というのは、かなり大きなものだといえるだろう。
しかも、一度は、一軍にいたこともある選手であれば、ある程度年齢も行っている場合はなかなか難しい。
今では、
「30歳からのデビュー」
というのも珍しくはないし、選手生命も伸びていることから、まったくありえないことではないが、なかなか難しいだろう。
そんなこともあって、もう一つ、
「プロ野球に復帰できる道」
というのがあるのだ。
それが、いわゆる、
「ノンプロではない。いわゆる、独立リーグ」
と言われるものである。
これは、各地で今増えているもので、ノンプロやプロ野球のように、
「企業が宣伝のために、球団を所有している」
というものではない。
それこそ、
「将来のプロ野球選手を育てる」
という目的をもって結成されるものだ。
だから、結構、プロ球団から戦力外通告を受けた選手であったり、監督コーチなども、現役を引退した人が、チームで監督や、コーチをしているというのも珍しくもない。
つまり、
「ドラフトにかからなあったが、実力があって、プロを目指す人のための、球団であり、さらに、一度解雇された選手が、再度プロの舞台に復帰するために、用意された舞台ということになる」
これらの球団であれば、プロ球団の、三軍などよりも、いいかも知れない。
実際の、給与であったり、選手として、どう使ってくれるかということにもよるのだろうが、
「独立リーグ」
という考え方もあるということなのである。
独立リーグというのは、歴史は浅いと言えば浅いが、いつの間にか定着している考え方もあった。
最初の頃は、
「元お笑いタレントの人が球団を持って、監督をしている」
ということであったり、そのチームの女性選手が、人気で、実力もさることながら、
「結構、可愛いということで有名にもなった」
のである。
さすがに、チームが増えてくると、それぞれの各地区で、たくさんのチームが出てくる。
各地でリーグ戦が行われるのも、そうだが、プロ野球球団が、どうしても、数に限りがあるので、全国には合っても、中途半端な都会にはなかったりする。
そのため、年間数試合くらい、地元を、まるで、
「巡業する」
という感覚で試合が行われたりした。
それでも、なかなか来ることも少ないので、独立リーグでもあれば、結構客が入ったりもするだろう。
特に、四国のように、地方に、一つもプロ野球球団がフランチャイズを置いていないところもあるわけで、それも寂しいところである。
ただ、実は、以前に、
「四国に球団をつくろう」
という話もあった。
当時は大阪に球団があり、今は福岡に移転したところであるが、元々、そこの有名な監督が、球団側の、
「関西圏に球団が密集しているのは、どうにもならないのか?」
という話から。
「じゃあ、四国に球団を移せばどうですか?」
という話になったというが、結局は実際には、実現しなかったという経緯があった。
どうしても、支援してくれる大きなスポンサーとなるところと、観客動員がどうしても見込めないということだったのではないだろうか?
ただ、その球団が、身売りして、福岡に移転したことから始まって、
「地元球団」
というイメージが滲み出るようになり、それまで球団がなかった地方である。
「北海道:
あるいは、
「東北」
に球団ができたりしたのだ。
北海道は、どうしても、寒さからか、
「ドーム球場でもないと、野球ができない」
ということであったが、北海道に球団を移したことで、そこで、ドーム球場をつくるということになり、今では、
「押しも押される地元球団」
ということになった。
そのおかげで、他の地方にもどんどん、球団が増えてきて、後は、北陸と、上信越であろうが、さすがに、今の時代であれば、なかなか実現も難しいだろう。
そうなると、
「独立リーグ」
という考え方が不可欠となり、どんどん負えてくることになるだろう。
元々はサッカーチームが、
「プロ化に伴って増えてくる」
ということになると、他にもプロ化として、
「バレーボール」
「バスケットボール」
などが、実際にプロ化してくると、こちらの人気も増えてくるというものだ。
これもある意味、
「独立リーグ」
と野球では、短い間だったが、
「女子プロ野球」
であったり、プロの引退したかつての有名選手で作る、
「マスターズリーグ」
などというのも、スポーツ振興という意味で、結構な手助けをしたということになるのだろうか?
そんな風にどんどん、プロチームができて行っているが、本当に必要なのだろうか?
元々は、プロスポーツといえば、野球か、レスリングか、相撲くらいではなかっただろうか?
相撲に関していえば、
「国技」
であり、ずっと昔から伝統があり、さらに、その伝統にのっとって、いろいろな決まりてであったり、技術が伝えられ、本来なら、
「日本独自の伝統」
というはずなのに、一時期は、ほとんどが、モンゴルに支配されていたような時代だったではないか。
横綱が三人いたら、
「そのすべてが、モンゴル」
という状態だった。
しかも、モンゴルの前はというと、ハワイや、欧州だっていたではないか。
まだモンゴルは、
「同じアジアだ」
ということなのだろうが、少なくとも文化が違う。
考えてみれば、モンゴルから来た力士が、問題を起こしたことも、何度となくあった。
「モンゴル人だから、注目された」
ということもあるのだろうが、そのたびに、
「日本の伝統を知らない外人がやってきて、伝統を汚した」
という人もいたではないか。
それを思うと、
「やはり、昔の野球などは、まだよかった」
と言える。
今のように、
「助っ人」
と言われる外人をどんどん連れてくる。
それは、それだけ、
「日本の野球が、メジャーに追いついてきた」
とでも、言えるのか。
昔から、
「日米野球」
という行事があったが、
「数試合やって、一個でも勝てば大ニュース」
という時代が、普通だったのに、今は、
「アメリカが勝ち越すのに必死」
という感じで、WBCでも、日本の優勝の方が多いではないか。
さらに、昔だったら、
「アメリカっはベースボールであって、日本のような、バントバントなどというせこい野球は、ベースボールの脚者とにも及ばないと言われていたのに、今では、そんな緻密な野球を、メジャーでも組み入れているということだ」
要するに、
「時代が変わった」
のである。
しかも、昔は、バリバリのメジャーリーガーが日本に来るなどというのは、ありえなかったが、今では、
「昨年のホームラン王というような選手が日本に来たり、逆に日本人がアメリカに渡って、信じられないような活躍をしているのだから、そりゃあ、メジャーの方も、日本の野球を見直すというものだ」
と言える。
しかし、日本のマスゴミも、世間も、どうも嫌だ。テレビでも、メジャーに渡った選手を、贔屓して特集を組んだりして、持ち上げている。
「日本の宝をメジャーに取られるのは、寂しい」
といっているくせに、
「メジャーでの活躍も見たい」
という、国民意識の違いが、どこから来るのか、
「正直まったく分からない」
という感じである。
「本当に、スポーツの世界って、どうなっているのだろう?」
というものである。
野球というものも、ある意味、最近では、
「地元の損得」
ということに絡んでくる。
昔は、どうしても、大都会に、球場も球団も集まってくる。
最初の頃は。管廊、関西合わせて、12球団のうち、9球団までもが密集していた。
特に関西に4球団あり、そのすべての親会社が、
「鉄道会社だった」
というもの、大きな特徴だった。
関西というところは、私鉄大手が5社だったので、そのうちの4つが球団を持っていたということを考えると、かなりのものである。
それ以外のフランチャイズというと、
「名古屋」
「広島」
「福岡」
という、ある程度の大都市だったのだ。
しかし、そのうちに、
「地元球団」
という意識が広がってくると、各地方に球団が流れていく、特に関東でも、千葉、埼玉など、今までは、東京、神奈川に集中していたものが、広がっていく。
そこで、
「地元球団」
ということで、球団名の頭に、地名を入れるということも多くなった。
さらに特徴は、北海道、東北にまで食指を延ばしたのは、前述のとおりだが、この頃になると、スポンサーとなっている会社の職種が、昔とは、明らかに変わってきた。
昔であれば、
「映画会社」
「鉄道会社」
「新聞社」
「食品や、自動車メーカー」
などであったが、昔と同じものは、
「新聞社」
「自動車、食品メーカー」
などは、ほとんど変わりないが、途中から、
「鉄道」
「映画会社」
の代わりに、
「金融業界」
「IT関係」
というのが出てきたのだ。
やはり、
「地元密着型の球団運営」
というのは、
「サッカーチームのプロ化」
というのも大きかっただろう。
サッカーチームというと、
「企業の損得」
ということよりも、
「地元に根差したクラブチーム」
という印象で、目的としては、
「世界大会で活躍できる選手の育成」
というものが大きいのだ。
最近のプロ野球というもの、それに近いかも知れない。
「地元密着型」
というのは、切実的に、
「スポンサー会社だけでは、運営できない」
という問題が孕んでいるのだろう。
サッカーチームも、最初の頃は、どんなに強いチームでも、その経営や、運営は、毎年のように、無理があって、地元企業が、たくさん支援してくれたり、地元の市民が支援してくれることで、
「さらなる、地元密着型のチーム」
というのが出来上がっていくのだった。
その精神が、野球界での、
「独立リーグ構想に結びついてきたのかも知れない」
と言える。
しかし、実際に、運営が、本当にできているのかというのは難しいところで、最近のプロ野球でも、三軍制度が定着してくれると、その試合相手として、学生チームだったり、地元のクラブチームだったりするだろう。
さすがに、
「先が見えない」
ということもあり、どうなるのか、まったくの未知数だった。
そんな、霧島という選手が、最近は地元の独立リーグのコーチに就任していた、
かつては、地元の高校、大学と、いわゆる野球でいうところの、
「エリートコースを進んできた」
といってもいいだろう、
「学生時代は、ケガもなく、順風満帆だった」
といえる、
高校時代には、甲子園にも出場している。大学時代には、リーグで優勝し、首位打者にも輝き、ドラフト指名で、地元の球団に入団した。
学生時代に、挫折らしいものを味わうことなく進んできた反動なのか、どうやら、
「プロの壁」
のようなものに引っかかっていた。
「4年目までは、一軍昇格なし」
ということで、
「あと2年やってみて、思っていた最低限の活躍もできなければ、辞めるつもりだった」
ということだったのだが、
それでも、翌年は、一軍に上がって、シーズンのほとんどを、一軍で過ごし、それなりの成績も収めることができた。
それによって、
「もう少し続けてみよう」
と思い、気を引き締めて、それ以降のシーズンに望んでいた。
しかし、結果としては、その年がキャリアハイであり、後は、成績は伸び悩んだ。
それでも、
「一軍半」
というくらいであったが、それでも、最低の状態ではありながら、何とか、36歳くらいまで現役で乗り切ることができた。
一つ思っていたのは、
「俺は大けがというものをしなかったのだが、それがよかったのかな?」
と考えるようになった。
なるほど、確かに、
「ケガらしいケガはなかった」
ということで、
「成績も、ケガによるものではなかったので、ある意味、
「これが俺の実力だたんだな」
と思っていたのだ。
それでも、いくら一軍半くらいの成績とはいえ、2軍でもそれなりの成績を収めることができ。
「プロ野球界に、爪痕が残せた」
ということで、
「やり切った」
という気持ちがあったのだった。
考えてみれば、
「ドラフト一位で、鳴り物入りで入団し、ケガで思ったような活躍ができなかった選手であったり」
さらには
「けがはないが、一軍に昇格することができず、やはり4、5年目で限界を感じ、引退という形をとっている選手も少なくなかった」
といえるであろう。
そんな選手がどうなるかというのは難しい。
球団職員という形の人もいただろうが、皆がそういうわけにはいかないともいえるだろう。
地道に就職活動して、サラリーマンに転身する人もいた。
そういう意味で、腹をくくって、
「引退」
ということを考えた人は、行動が早かったかも知れない。
もっとも、
「ダラダラしていては、過去の栄光にしがみついてしまって、引退を決めてしまってからも、頭の中で野球界から、逃れられないという運命になっていくのかも知れない」
といえるだろう。
そういう意味で、霧島は、ある程度自分の中での、
「限界というものを分かっていて、
「これ以上は、体力的に衰えていくばかりだ」
と考えたのだろう。
これも、
「一軍半」
という立場で、自分なりに突っ走ってきたから言えることなのではないだろうか?
それを考えると、
「ちょうどいい時期の引退だったのかも知れない」
ということで、引退ということを球団に話すと、
「じゃあ、二軍のコーチ補佐という形で、今後のスタッフ入りを考えてみないか?」
ということだったので、引退と同時に、翌年からの、二軍コーチ就任を了承したのだった。
本当は、
「2軍コーチを、2、3年やって、そのうちに、一軍コーチをやっていきたい」
と思っていた。
「さすがに、監督というのは、無理だろうな」
とは思っていた。
「まあ、二軍コーチで、しかも、補佐という立場であれば、そこまで責任もないだろうし、逆に若いコーチとして、選手目線で見ることができるので、これくらいがちょうどいいんだろうな」
と思うと、
「就職活動をしないでよかった」
という思いもあって、何とか、このまま行けると思うのだった。
実際に、最初の一年はあっという間だった。
しかも、自分が眼をつけて指導した選手が、皆2軍で活躍し、一軍に昇格。そのまま一軍に定着するというのがパターンになってくると、コーチ補佐を2年務めると、今度は、
「2軍コーチ」
へと、自分も昇格したのだった。
ただ、今度は、コーチになったとたん、指導した選手が、鳴かず飛ばずになった。
補佐をしていた時に2軍コーチは、自分が昇格したのと同時に、今度は一軍のコーチに昇格していた。
さらに一軍監督も、二軍監督からの昇格人事で、これもよく考えてみると、
「その時の、時代の流れのようなものがあったのだ」
ということであった。
「元々のコーチがよかったからなのか?」
それとも、
「自分の実力が、コーチ補佐どまりだった」
ということなのか、少しかんがえさせられた。
2軍でチームは、優勝することができたのだが、自分がコーチした部分は、リーグでも下の方だった。嫌でも、考えさせられるというものだった。
だから、思い切って、チームを退団することにした。
というのも、ちょうどその時、独立リーグのチームから、
「コーチ就任」
という話があった。
正直、2軍コーチというものに、少し限界を感じていたこともあり、
「独立リーグだったら」
ということで、そっちのコーチをすることにしたのだ。
選手の方も、
「プロ野球で頑張りたい」
という意識を持った選手ばかりなので、
「2軍という、上から落ちてきた選手ばかりのところにいるよりも、精神的にも違うのではないか?」
と感じたことで、腹はすぐに決まったのだ。
今年、40歳になって、独立リーグのコーチも、3年目になっていた。
すでに、プロ野球の世界には、ほとんど未練はなかった。
独立リーグも来てみると、結構自分なりに楽しかった。
「そういえば、俺って、今までに、野球が楽しいって感じたことがあったっけ?」
と思い出していたが、
「いや、ない」
と感じた。
「こんなに、野球って楽しかったなんて」
と、一度は感じたことがあり、そうでないと、ここまで長い間野球に関わっていくことはなかっただろう。
「俺は、ずっと野球をやり続けるんだ」
ということに気付いた時期があったはずだ。
それがいつだったのか、思い出そうとするが分からない。
自分の中で、
「たぶん」
と思える時期があるとすれば、大学野球で優勝した時の事だろう。
終章経験とうと、その大学のリーグ優勝と、高校の時の、甲子園出場の切符を取った、「地区大会での優勝」
ということだけだったのだ。
だが、そもそも、下馬評も、
「あの高校が優勝候補最有力だ」
と言われていた。
だから、
「優勝して当然」
という意識の中で戦っていたのだ。
つまり、
「最初から、プレッシャーの中でやっていたので、全然、優勝しても嬉しいという感覚はなくそれよりも、ホッと安心したというのが、本音だった」
と言えるだろう。
「実際に、優勝したのに、こんなに面白くないとは」
というのも、初めて味わった感覚だった。
だから、選手は誰もが、緊張した顔をしていて、心底嬉しいという感じではなかった。
まるで、
「ノルマを果たした」
というだけのことだったのだ。
「結局、あの学校が優勝か」
という、落胆した声も聞こえる。
普通なら、
「こっちはあれだけ必死にやったのに、それを、そんな簡単にいうなんて」
という感じで思っていただろうが、ここまで言われると、
「もう、どうでもいい」
というくらいに、気が付けば、
「まるで他人事」
という感じで思えるような自分になっていた。
だから、プロ4年目で、
「これ以上やっても」
という切羽詰まった思いだったはずなのに、どこか、他人事というような感覚だったというのも、今から思えば、無理もないことだったのだ。
それでも、何とか、35歳まで現役を続けられたのは、その、
「他人事」
という精神がよかったのかも知れない。
「だから、一軍で活躍ができず、絶えず2軍半だったんだ」
ということであった。
しかし、自分としては、
「2軍半でも、これ以上落ちなかったのは、自分の中で、
「何とかできる」
という、
「他人事精神」
があったからではないだろうか?
そのまま、もう一度、挫折のようなものがあったのだが、もう、それを挫折とも思えないほどに、感覚がマヒしてきた。
今の、激動の世の中を暮らしていくには、これだけの、
「他人事精神」
というのがないと、
「乗り切ってはいけない」
ということになるのだろう。
「今年は、何とかやり切った」
というそれだけの気持ちでよかったのだ。
だから、
「退団」
ということに対しても、わだかまりというものはなかった。
「長年世話になった球団だったのに」
ということをいう人もいるだろうが、
「企業が人を選ぶんじゃない、人が企業を選ぶんだ」
という思いがどんどん出てきたのだ。
そういう意味で、
「ドラフト制度」
というものを、あまり評価していなかったが、今となれば、自分の中で、そんなに悪い方に考えていたわけでもなかった。
その感情が、いわゆる、
「他人事」
ということだったのだろう。
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