第3話 腐ったミカンの法則

 プロ野球などでは、昔から、

「選手側に選択権」

 というものはあまりなかった。

 例えば、入団する時の、ドラフト制度というのもそうである。

 ただ、このドラフト制度というのは、最初からあったわけではなく、歴史が古いアメリカでも、最初は、

「選手と、球団の、自由契約」

 ということだったのだ。

 それがなぜ、

「ドラフト会議」

 というもので、選手を決めるのかということになったのか、それには、れっきとした理由が存在する。

 そもそも、

「ドラフト会議」

 というのは、どういうものなのかというと、今はだいぶ変わったところもあるが、

「シーズン終了前くらいに、選択指名選手を各球団で決めておいて、それを、会議の中で、指名していく。最初は、いい選手を指名することになるのだが、この順番も決まっていて、

「前シーズンの順位の低かったチームから、選択権があるということになる」

 というのだ。

 選手の中には複数球団が指名するような有名選手では、くじ引きになるのだが、最初に、選択選手を球団で決めてくる時、

「他の球団に指名されれば、その選手は指名を外し、他の候補の選手を指名する」

 ということになる、下手に競合して、くじに外れれば、次の順番が回ってくるまでの間に、その選手が残っているという保証はないのだ。

 ただ、

「もう一人の選手を指名したとしての、一巡する間に他の球団が指名してくれば、それは仕方のないことで、くじ引きは、しょうがない」

 ということになる。

 そういう意味で、

「ドラフト会議」

 というのは、結構頭を使っての

「凌ぎあい」

 ということになるであろう。

「指名順位を、最初の一巡は、シーズンの下位のチームから選び、次の一巡は、今度は逆に、上位からになる」

 ということを繰り返して、大体6巡目から、8巡目くらいの選手を指名することになるのだ。

 ということは、選ばれる選手には、選択権はないということになる。

 だから、選手側からすれば不満もあるだろうが、普通の会社だって、学生が面接に来て、それで合否を決めるのだから、学生に選択権はない。それを思うと、ドラフトで不公平を唱えるのはどういうものか?

「選手というのは、個人事業主のようなものだ」

 ということであれば、その通りなのかも知れないが、果たして、まだ、入ってもいないのに、そこまで言えるのだろうか?

 さて、このドラフト会議がどうして生まれたのかというと、要するに、

「お金」

 である。

「お金に、モノを言わせて、金のある球団が、いい選手をどんどんひっぱってくるのであれば、格差が激しくなる。弱い球団は、いつまでも、弱いままだ」

 ということが一つである。

 そしてもう一つは、これは球団側の問題であるが、自分たちで金を釣り上げておいて、今度は、

「契約金や、年棒が跳ね上がりすぎて、経営が傾いてくる」

 というところも出てくるのだ。

 そういう意味で、球団を公平にして、さらに、上り詰めてしまった契約金などを、普通に戻そうという目論見からであった。

 それが、

「ドラフト会議」

 というものの、元々の目的だったのだ。

 さらにプロ野球界では、このように、ドラウフ制度ができたことで、言われるようになったのは、

「選手の職業選択の自由はないというのか?」

 ということであるが、この場合は、企業の選択ということである。

 つまりは、

「選手にだって、行きたい球団があるだろう。好きな選手がいる。球団の教育方針に心酔している」

 などという考えを持っている人である。

 しかし、理由が、

「企業側の理由と、野球界の発展」

 というものだけに、選手の意向が反映されることはしばらくはなかったが、途中から、

「大学生以上であれば、逆指名」

 という形が許されるようになった。

 その頃になると、プロ野球に興味のなかった人間は、どんなものなのかハッキリとは分からなかったが、

 それによって、選手が球団を逆に指名することで、行きたい球団を、明らかにできたのだろう。

 ただ、問題は、それが叶うかどうかで、

「行きたい球団を逆指名した」

 ということは、それ以外の球団に、

「指名しないでくれ」

 という意思表示である。

 そうなった時、行きたい球団と水面下で交渉ができるのであればいいが、できないのであれば、

「もし、その球団が指名してくれなければ、プロ野球に行くことはできない」

 ということになる。

 下手をすれば、1巡目で指名されるはずだったが、1巡目は、他の選手が指名され、自分は二巡目以下となることも十分にある。

「指名される分、いいじゃないか?」

 ということになるのだろうが、その文、契約金や、年棒に大きな差が出てしまうだろう。

 だとすれば、

「他の球団で、一位指名を受ける方がよかった」

 と言えるのかも知れない。

 しかし、果たして、それでいいのだろうか?

「好きでもない球団」

 であったり、

「練習方法に致命的な問題」

 があったり、

「ドラフトで入団した選手が、皆、活躍せずに、トレードされたり、自由契約」

 になったりと、そんな球団であれば、誰が行きたいと思うだろう。

 それなら、

「少々、年棒が変わってきても、将来ある球団の方がいいだろう」

 と考える。

 また選手としては、その球団事情というものを考える。

 自分のポジションにレギュラーが固定されていなければ、

「今なら、すぐにデビューできる」

 とも考えるだろう。

 しかし、それはさすがに少し落胆的だ。

 ポストシーズンというものは、それを補填するためのシーズンで、フロントは、他の球団の選手に食指を動かしたり、ドラフトで得ようとするだろう。

 そういう意味では、自分が指名される可能性は高いに違いない。

 それを考えると、

「よほど、嫌な球団でもないかぎり、指名されればそのまま行けばいいか?」

 とも考えるだろう、

 だから、

「逆指名するかしないかというのも難しいところで、最悪、どこの球団も指名してくれない可能性だってあるのだ」

 それを考えると、

「実に、逆指名というのは、微妙だ」

 と言えるのではないだろうか?

 そもそも、逆指名というのは、どうなのだろう?

 普通の大学生などが、就職活動をする場合、基本的に、起業は、まず、書類審査を行い、そこから、面接に入っていくというのが、一つの流れだろう。

 そういう意味では。-、ドラフトにおける

「逆指名」

 というものが、ある意味微妙な立ち位置にさせられるということを考えると、選手側には、

「厄介だ」

 として、微妙に感じることだろう。

「じゃあ、指名する球団側とすればどうだろう?」

 これは、

「メリットしかないのでは?」

 とも思える。

「相思相愛の選手であれば、球団側も、安心して指名ができる。他の球団が指名してこないと思うと、安心だからだ」

 そうなると、球団側も、

「商売根性」

 というものが出てくるかも知れない。

 というのが、前述の

「球団の指名順位」

 である。

 本来であれば、高校生と、大学生の二人を一位指名したいと考えていたとする。

 しかし、高校生は逆指名ができないので、実力からすれば、他の球団が、

「競合を覚悟で指名」

 をしてくるかも知れない。

 そうなると、一位指名に、安パイの逆指名選手を取ってしまうと、その高校生はあきらめざるをえなくなってしまう。

 それを考えると、

「まず、高校生を一位指名して、うまくいけば、選択交渉できるだけの権利を得られるかも知れない。何もしなければ、放棄するのと同じだからだ」

 というのだ。

 ということは、

「みすみす他の球団に取られてしまうのを、指を咥えて見ているのは、実に苛立たしい」

 と考えると、ダメもとで、その選手を一位指名しようと考えるのは、当たり前だ。

 もしだけでも、相手が同一リーグの場合と、そうでない場合とであれば、条件がまったく違ってくる。

 違うリーグであれば、

「そこまで気にすることはないが、同一リーグともなれば、自分のチームが勝てていた試合のいくつかを失うことになる」

 というのだ。

 それが分かっていて、みすみす、同一リーグの他球団に持って行かれるのを、黙って見ているのは、たまらない。

 それは、球団幹部の共通の気持ちだろう。

 そうなると、一位指名を、

「高校のスター選手」

 二位指名を、

「逆指名選手」

 とするのは、実に必定だということになるだろう。

 そういう意味でも、球団と、逆指名選手の間では、下交渉がなければいけないのかも知れない。

 そうしないと、選手の方でも、

「逆指名までしてやったのに、何で俺は、高校生の若造よりも、下なんだ?」

 ということになる。

 プライドがズタズタにされたかも知れない。

 選手の中には、知らされていなければ、

「二位指名などというのはプライドが許さない」

 として、社会人であれば、まだその球団で一念所属し、来年のドラフトを目指すのかも知れない。

 ということを考えると、

「逆指名選手が納得さえできていれば、逆指名というのは、企業に悪いことはないといってもいいだろう」

 下交渉では、

「今回は二位指名という形にしてもらうが、あくまでも形だけで、年棒や、契約金は、一位指名とそん色ない形で定時させてもらうから、ぜひ、うちにきてほしい」

 などと言われると、選手も、プライぢは保てるので、問題ないはずである。

 そうやって考えると、

「逆指名というものが、あろうがなかろうが、結局、ドラフト会議は、

「何か改善しようと思うと、それは、企業側が有利になる」

 ということなのかも知れない。

 これは逆をいうと、

「そもそもの、ドラフト会議が始まった時が、企業側が圧倒的に不利だった」

 ということが言えるのではないだろうか。

 企業側には、選択することができても、リスクは大きい。

 何といっても、

「有名選手が競合した場合、交渉権は、くじ引きに委ねられ、運を天に任せるという形にしかならない」

 ということだからだ。

 つまりは、

「交渉権を得るのに、まず神頼みがあって、それで交渉できるとしても、その選手が何を考えているかということで変わってしまう」

 つまりは、

「拒否される可能性も十分にある」

 ということだ。

 そうなると、浪人してしまう人もいるだろうし、高校生なら、大学か社会人。大学生なら、社会人という風に、進むしかない。

 ドラフトの目玉というほどの選手なら、大学や社会人から、相当、

「うちにきてほしい」

 といってきていることだろう。

 大学なら、スポーツ推薦などというのもあるだろう。

 少年野球からたたき上げてきた選手だったら、高校も、昔であれば、

「野球留学」

 などという言葉で言われた、

「スポーツ推薦」

 というもので、一種の、

「特待生枠」

 というものだっただろう。

 これは、野球だけに限らず、その大学や高校の得意分野のスポーツであり、

「全国大会常連というような学校」

 であれば、普通にあってしかるべきの体制である。

 それがいい悪いは、賛否両論あるだろう。

 何と言っても、

「ケガなどをして、選手生命を絶たれてしまった場合など、その処遇はあまりにも冷徹であり、そこから先の一途は、昔であれば、グレた生徒というレッテルを貼られてしまうということだ」

 そんな、厳しい状態に、ケガもせず、ずっとスター選手として、ドラフトにかかるというのは、

「実に幸運だ」

 と言えるだろう。

 もちろん、その選手の努力のたまものなのだろうが、どうしても、ちやほやされてしまう。

 嫌でも、

「天狗になる」

 というのは当たり前のことで、ここでも落とし穴がないともいえない。

 中には、ドラフト一位で入団してきて、途中、どこかで、羽目を外す形で、

「謹慎処分」

 というような形になる人も、少なからずいたのかも知れない。

 そんな状態で、プロ野球に入っても、

「すぐに活躍できるとは限らない」

 もちろん、選手層であったりもあるし、監督やフロントの考えもあるだろう。

 球団側は、

「即戦力とみなして、一位指名した」

 というのに、監督が使ってくれないどころか、二軍生活を余儀なくされることもあ

「る。

 球場の外で売っている、グッズなどは、その選手のものが結構売れているのに、本人は、球場にも来ていない」

 という状況になることだって少なくないだろう。

 それを思うと、球団としても、

「監督、コーチなどの現場の意見は聞くが、そこで確執が生まれないとも限らない」

 昔の野球漫画などでは、そんな球団とフロントの確執が、不穏な空気でチーム全体のムードを悪くして、

「最悪、最下位をずっと低迷している」

 ということだって普通にあるだろう。

 そんな球団が強くなれるわけもない。

 そんな球団が一位で優勝するようなことがあれば。

「少なくとも、この年のリーグは、最低最悪のシーズンだった」

 といってもいいだろう。

 そうなると、リーグが盛り上がるはずもなく、

「結局。得なことはない」

 というものである。

 それを考えると、

「ドラフト会議や、トレードというものが、どれほど大切なのか?」

 ということである。

 ストーブリーグと呼ばれる、

「トレードなどで枠シーズンオフであるが、前は、ほぼ選手の意思はまったく通らなかった」

 しかし

今では、

「FA制度」

 であったり、

「ドラフト会議」

 などで指名して、入団までに交わす選手との契約の中に、

「決まった年月、球団でお世話になるが、それを越えれば、アメリカ大リーグの、メジャーに挑戦してもいい」

 という形での契約も、あったりする。

 つまり、

「メジャーありきの契約ということになる」

 のだが、これは、球団側も、かなりの決断を必要とするのだろう。

 例えば、

「5年でメジャーに行かれてしまうと、たまったものではない」

 と言えるが、今の世の中。

「そんな契約は飲めない」

 などといってしまうと、選手も入団を拒否してくるかも知れないし、今の野球界の流れとして、

「そんな契約は、普通にある」

 といってもいい。

 それに文句をつけられれば。

「あの球団は、ロクな球団ではない」

 として、人気が落ちてしまう。

 ファンが激減してしまうというのは、

「プロ野球球団を持っている意義というのも、自らが壊しているようなものだ」

 しかも、球団の人気がなくなり、そんな契約を選手に求めて、それ以後、その球団から、

「メジャーへの遺跡は困難だ」

 ということになると、まず、有名選手は、逆指名で、

「行きたい球団」

 を公表するのではなく、

「あの球団は嫌だ」

 と名指しされてしまい。その理由に、

「メジャーに挑戦できないから」

 ということになり、

「もうそのチームにはいい選手はくることはなく、衰退していく一方だ」

 ということになるだろう。

 野球界というのは、面白いもので、

「急にそれまで弱小球団だったところが、いきなり優勝争いをするようになり、優勝でもすると、そこから数年は、優勝できないとしても、ずっと上位に食らいついていくだけの球団になっていたりする」

 というものだ。

 逆に、

「急に弱くなった球団があったとすれば、その球団は、そこから長い低迷に入ることも珍しくもない」

 と言われる。

「去年まで、数年連続で優勝していたチームが、最下位になったら、そこから五年、十年と、優勝どころか、上位にもいけなくなり、弱小球団になってしまうのだ」

 ということだ。

 もちろん、いろいろな理由があるだろうが、

「何かのきっかけで、チームの雰囲気が悪くなり、選手が活躍できない」

 というそんな感じになることだってあるのだ。

 それは、

「中にいないと分からない」

 というそんな雰囲気になっていることだろう。

 それが、プロ野球空きというもので、選手層だけではなく、フロントの良し悪しで、チームの浮沈というものに関わっていくに違いない。

 それを考えると、

「まるで生き物だ」

 といってもいいだろう。

 そんな微妙なチームに、

「ドラフト会議」

 あるいは、

「トレードなどのストーブリーグ」

 というものは、大きな影響を与えることだろう。

 また、プロ野球界では、前述のような。

「FA権の行使」

 というものがある。

 これは、

「ある一定の期間選手として出場すれば、そこからは、個人で自由に契約ができる」

 という制度である。

 正式名称を、

「フリーエージェント」

 というのだ。

 フリーエージェント権を獲得すれば、基本選手が有利に思えるが、決してそうではない。

 まずその選手の所属球団が、

「FA権を行使すれば、その時点で、交渉しない」

 ということである。

 つまり、

「FA権を行使するような選手は、うちにはいらない」

 ということだ。

 そんな契約がなければ、まず最初に、所属球団と交渉する、そこで、交渉が成立すればいいが、しなければ、いくつかの球団に当たってみることになる。しかし、それでもダメなら、とにかく、交渉しないと、その年は、

「所属球団なし」

 ということになる。

 キャンプも自費での参加ということになり、結果、それでも、所属がないとなると、所属がないのだから、収入はなくなってしまう。

 それどころか、翌年実践がないままの復帰ということになり、

「ケガでもないのに、復帰ができるのか?」

 ということで、再度いろいろな球団と交渉しても、もう、雇ってくれるところがないとなると、

「引退」

 ということにしかならないのだ。

 完全な、

「人生の選択ミス」

 ということになりかねない。

 そんなFA権にしても、成績がパッとせずに、知らず知らずに忘れられ、引退に追い込まれる選手もいたりする。

 最近では、

「ただ、引退しなければいけない」

 というだけではなくなったのも事実だった。

 というのも一つとしては、

「球団職員として残る」

 というものである。

 もちろん、技能はいるだろうし、人間性も必要だが、スカウトから、そのままフロント入りという人もいる。

 特に、

「鳴り物入りえ入団してきた選手ともなれば、そう簡単に球団から切るというわけにもいかないだろう」

 さらに選手の中には、

「契約者に謳っている人もいるかも知れない」

 もっとも、入団当初からmそんなネガティブな選手はいないかも知れないが、よほど、プロでやっていく自信がない人は、それくらいの慎重さがあってもいいかも知れない」

 また、選手の中には、自分にある程度の限界を感じてくると、それなりの勉強をしている人もいるだろう。

 何と言っても、野球選手としての寿命は、普通でいけば、

「38歳くらいまで現役でいられれば、御の字」

 ということになる。

 しかも、体力勝負で、

「ケガもつきもの」

 となると、それくらいのことを考えていても、当然といえる。

 アイドルグループにもあるではないか。

「将来のことを考えて、アイドル活動をしながら、いろいろな可能性に挑戦する」

 というところ、

 たとえば、

「バラエティ」

 であったり、

「芸術への道」

 であったり、

「舞台などに進む人も多い」

 という、

「アイドルだって、いつまでも、外見で売れるわけではない」

 実際に、ピンでアイドルやお笑いをしていた人が、絵で、才能を生かしたり、映画監督として、活躍していたりする。

 それを考えると、

「第二の人生」

 というのを模索するのも、当たり前というものだ。

 それを怠っていると、そこで人生を見失ってしまい、

「下手をすれば、変なものに手を出したりして、取り返しのつかないことになる」

 ということである。

 そんなことを考えていると、

「薬や、借金で人生を潰す」

 という、元芸能人であったり、スポーツ選手も少なくない。

 つまりは、

「どんな職についていても、人生、終生勉強なのである」

 と言えるだろう。

 次に、球団から、

「戦力外通告」

 というもおを受けたりした場合のことだが、シーズが終了すると、そこで、

「トライアウト」

 というものがある、

 言葉は非常に悪いが、分かりやすくいうと、

「敗者復活戦」

 とでもいおうか?

 そこでは、各球団のコーチか監督も来ているのか分からないが、各球団が主催という形になって、描くチームから、

「戦力外通告を受けたが、まだ、現役としてやりたい」

 という選手が、一堂に返して、

「そこで、再度、テストを受けることができる」

 というものだ。

 選手は、そのテストを受けて、その時の動きはその他で、球団関係者の目に留まれば、そこで晴れて契約ということになる。

 さすがに、スカウトも、

「戦力外通告を受けそうな選手」

 というのを、計算していないので、注意して見ていない。

 トレードで撮れそうな選手という目で見るには、さすがに戦力外の選手は、厳しいだろう。

 だから、ある意味。

「最後のチャンス」

 ということで、それぞれの選手は、トライアウトに望むのだ。

「これでダメなら、選手を引退する」

 という覚悟であろう。

 もちろん、

「一年浪人して、来年再度トライアウトを受ける」

 という人もいるだろうが、なかなか厳しいのも現実だ。

 そういう意味で、他の道に舵を取る人も多いだろう。

「早ければ早い方がいい」

 という意味でもである。

 ただ、野球選手で、プロに入るような人の多くは、ほとんど、他の世界を知らない。

 学生時代から、野球だけをやっていて、

 例えば、前述の、

「スポーツ推薦」

 などというと、

 とりあえず、

「授業に出ていればいい」

 というくらいで、後は野球で結果を出せばいい。

 だからこそ、

「授業料無料」

 という特待生扱いなのだ。

 逆にいえば、

「選手としてできなくなる。それはケガにおいても同じだが、野球選手で致命的な状態になると、学校は、血も涙もない」

 特退は解かれてしまい、成績が悪ければ、容赦ない状態である。

 学校を退学せざるをえなくなり、それでも、誰も助けてくれない。

 昔から、

「お決まりの転落人生」

 ということだったのだ。

 そういう意味で、

「スポーツ推薦」

 というのは、

「天国と地獄が、背中合わせ」

 ということになり、

「本当に紙一重」

 ということになるのだ。

 それが、学生スポーツの正体。それを分かっているのかどうなのか。学校側は、

「生徒はすべて分かって入ってきているんだから、こうなったのは、自業自得だ」

 としか言わないだろう。

 煽てるだけ煽てておいて、使えなくなると、まるでゴミくずのように、ポイ捨てである。

 それを思うと、

「人間なんて、なんてひどい動物なのか?」

 ということである。

「人間ほど、恐ろしい動物はいない。本能で動いているだけではないからだ」

 といえるだろう。

 それこそが、人間臭いと言われるところなのだろう。

 だから、下手をすれば、プロ野球にまで入って辞めていく人よりも、学生時代に、

「スポーツ推薦からの転落」

 という方が、ひどいのかも知れない。

 学生時代にそんな目に遭えば、

「そりゃあ、人間不信になるというものだ」

 と言えるだろう。

 何といっても、学生時代という、

「人間形成の時期」

 にである、

「大人たちの勝手な都合で翻弄される」

 というわけなので、

「これ以上の残酷なこともない」

 と言えるだろう。

 中には、自殺を図った生徒もいるかも知れない。

 人生を踏み外すことは、必至だとしても、

「命を断つ」

 ということを選択する場合もある。

「何もしななくても」

 という輩もいるだろうが、そんなやつは、

「人の痛みをまったく分からない」

 いや、

「分からないのは、分かろうとする努力すらする気がないやつ」

 であり、そんな連中は、

「分かろうとしないから、分からないんだ」

 という最低限の理屈すら分かっていないという連中なのだろう。

 そんな大人が、

「子供をダメにする」

 そんなことすら分からない連中が、教育の現場にいるというだけで、胸糞悪いといってもいいだろう。

 もっとも、

「皆が皆、そんなわけではない」

 一部のおかしな連中がいるせいで、

「俺たちまで白い目で見られるのはたまったものではない」

 と思う先生もいるだろう。

 しかし、結局、そんなやつらも、何か、そんな状況に一石を投じようとはしないのだから、ある意味、

「同罪」

 である。

 いや、それこそ、

「目の前で起こっている苛めを見て見ぬふりをしている」

 というバカな連中と同じで、下手をすると、

「生徒苛めている生徒よりも、悪質だ」

 といえるだろう。

 黙って見ている先生や大人たちが、結局、事態を悪化させるのであって、生徒にとっては、それら傍観者による、

「二次災害」

 によって、死に至らしめられるといってもいいだろう。

 そう、まさしく、

「アナフィラキシーショック」

 といってもいいだろう。

 苛めというのは、

「苛めっ子と、いじめられっ子」

 だけという単純な構図ではない。

 そこに、

「関係しているのに、何もしないという一種の、傍観者という、連中が存在しているのだ」

 つまり、その連中は、数からいえば、圧倒的に多いのだ。

 それらの連中が、引き起こすもの。

 それが、

「二次災害」

 であり、

「アナフィラキシーショック」

 なのだ。

 アナフィラキシーショックというのは、一種のアレルギー中毒のことである。

 分かりやすい例とすると、

「スズメバチに二度刺されると死ぬ」

 ということである。

「スズメバチは、人間を殺傷する恐ろしいハチだ」

 と言われていることから、

「ハチの毒が、人間を殺傷する」

 と思われているが、そうではない。

 というのも、

「一度刺されただけでは死なないからだ」

 ということである。

 何も、

「最初が、致死量の半分だから」

 というわけではない。

 ハチの毒などは、時間が経てば、他の毒と同じで、どんどん消えていくものだから、ある程度の時間が経てば、人間の身体からは血の毒は消えているはずだ。

 それなのに、

「死ぬ」

 と確実に言えるのは、死に至らしめるものは、

「ハチの毒ではない」

 ということになるのだろう。

 とすれば、

「何が、人間を殺傷するというのか?」

 ということであるが、

 それが、アナフィラキシーショック」

 と呼ばれる、毒ではない、

「アレルギーによるショック状態だ」

 と言えるのだ。

 普通、人間の身体の中に、毒素を含んだものが入り込むと、毒が、身体に回らないような、自浄効果と言われる、

「抗体」

 と呼ばれるものができあがる。

 つまり、次にその毒素が体内に入ると、

「その抗体が反応し、毒素と戦ってくれる」

 というわけだ。

 つまり、2度目に刺されると、抗体の働きで、ハチの毒と戦うことになるのだが、その時、抗体が、ショック状態を引き起こし、それが、人間の身体を死に至らしめるということになる

 つまり、抗体ができてしまったことで、却って逆効果になるというわけである。

 そのショック状態は、アレルギー反応としてのショックなので、

「アレルギーによるショック状態」

 といってもいいだろう。

 つまり、

「ハチの毒」

 によって、人間は死ぬわけではない。

 このショック状態によって死んでしまうのである。

「それなら、抗体をつくらなければいい」

 ということになるのだろうが、そうなると、他の軽いと思われている毒を人間は、何とか無意識のうちに取り除いているが、中には、本当に死んでしまうものもあるかも知れない。

 と考えると、

「アナフィラキシーショックが起こることは仕方のないことだ」

 と言えるのではないだろうか?

 そうなると、一度ハチにさされた人は、二度目に刺されないように、気を付けるしかないということになるのだろう。

 そんなアナフィラキシーショックは、一種の、

「二次災害」

 のようなものではないだろうか?

 実際に、学校を退学していく生徒に何もできないのは、先生としても、

「どうしようもない」

 ということになるのだろうが、

 だったらせめて、

「そんな生徒が生まれないように、運動する:

 などということがあってしかるべきではないだろうか。

 それすらできないというのであれば、本当に、問題なのは、この、

「二次災害」

 の方であり、

 これを人間の身体の作りと同じように、

「仕方がないことだ」

 ということで許されるのだろうか?

「自分たちには関係ないことなのに、先生全員がそんな風な目で見られるのは、心外だ」

 などと言っている連中こそ、

「本当の害悪なのではないだろうか?」

 と言えるだろう。

 そのことの本質に、気付いている人は少ないかも知れない。

 それが、本当は一番の問題なのかも知れない。

 それを思うと、昭和の頃に流行った言葉、それは、先生が不良生徒に向かっていった言葉であったが、今度は、それを生徒の方が、先生に向かっていうことになるだろう。

 その言葉というのが、

「腐ったミカン」

 というものだ。

「たくさんの綺麗なミカンがある中に、たった一つ腐ったミカンがあるだけで、すべてが腐ってしまう」

 ということで、

「だから、腐ったミカンである、不良生徒は、除去するしかない」

 という考えだ、

 そこには、

「腐ったものを元に戻すということはない。なぜなら、腐ったものは、二度と元には戻らない」

 ということだからだ。

 だから、わざわざ、

「腐ったミカン」

 という表現をしたのだろう。

 だからこそ、

 スポーツ推薦」

 などにおける、二次災害を起こさせる先生も、

「腐ってしまった根性は二度と元には戻らない」

 ということで、ことわざにある、

「覆水盆に返らず」

 ということになる。

 そして、願うとすれば、ことわざとすれば、

「因果応報」

 ということになるのだろう。

「巨大ブーメランが戻ってくる」

 ということが、その二次災害を起こさせた先生たちに対しての、報いであり、

「どうせ、生徒のことなど考えておらず、いかに今の激務を乗り切ることができるか?」

 ということしか考えていない。

 そもそも、

「腐ったミカンの集まり」

 であるくせに、さらに激務を押し付けようというのだから、

「学校教育が崩壊している」

 というのも当たり前だというものだ。

「すべては大人の都合」

 ということであり、

「その犠牲になっている生徒たちは、実に可哀そうだ」

 ということである。


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