第30話 赦し~父娘~


 わたしは、ただ、黙って父親の人生の回想を見つめていた。


 見つめ終わったわたしには、何か言うべき事がある気がしたが、うまく言葉に出てこない。


 ――だからわたしは、一歩一歩、赤い花畑を歩いて、父親の下へと向かっていく。


 それはクロウさまの、優しく甘い、あまりに素敵すぎる、理想の父親とは違う――


 愚かで醜く、あまりに酷すぎる、そんな実の父親――


 だが、この父親が、確かにわたしを生んで、育ててきたのだ。


 理解に苦しむ教育や行動は数あれど。


 これが、わたしの父親なのだ。


 わたしはそんなことを考えながら、ついに父親の眼前まで辿り着く。


 わたしの姿に気づいた父親は、震えていた。


 プルプルと、よわよわしく震えて、わたしの前に跪いていた。


 わたしは思った。


 ――この人は、こんなに小さかっただろうか。


 ――この人は、こんなに弱そうな人だっただろうか。


 ――この人は、こんなに、死んでしまいそうな目をしていただろうか、と。


「シェリ、もう一度会ったら、ずっと言いたいと思っていた事がある……」


「……なんでしょうか」


「すまな……かった……謝っても到底許されない事をしたことは分かっている……それでも……すまなかった……」


 わたしは、わたしに向かって必死に謝ろうとする父親の姿を見つめる。


 卑しく跪き、わたしに赦しを乞うその姿。


 あまりに、憐れで、弱く、小さい。そう思った。だから――


「あなたは、どうしてわたくしに赦して欲しいんですか?」


 わたしはまず、その理由を問う。


「それは……俺が本当に愚かで醜い、酷い父親だったから。実の娘を幸せにすると誓ったはずだったのに、全然その通りに育てられなかったから。どんどん自分の弱さに負けて、どんどんシェリを不幸にして、シェリを絶望の中に叩き込んでしまったから――」


 わたしはその理由を聞き終えて、父親への対応を決断した。


「わたくしがそんな謝り方で赦すとでも思いましたか……? もっと地べたに這いずり回るように、みじめに、醜く、どん底の人間として謝ってください。実の娘を幸せにしたかった……? 血迷うのも大概にしてください。わたくしがいつ幸せになったとでも? わたくしの気持ちがあなたに分かりますか……? わたくしがあなたのせいで、どれほど自分が嫌いになったのか、あなたに分かりますか……? 本当に、いい加減にしてほしいです……バカじゃないですか……」


 そういうと、父親だった男は崩れ落ち、地面にひれ伏し、それでも赦しを乞うた。


「う、うぅ……! シェリ……! すまない……! すまない……! すまないぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい……! 本当に、全て、俺が悪かった……! シェリは微塵も悪くなかった……! 俺は、最高に良い娘に育っていた実の娘を、だまして、操って、自分の欲望の処理に使ってしまっていた……! なんて弱い精神だったんだ……! そしてその末に、シェリだけが幸せそうにしているのに嫉妬して、シェリを最高に不幸な状況まで追い込んだ……! これが父親のする事か……! いや違う……! 俺はクズだ……! 人間ですらない、クズなんだ……! すまないぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい……!」


 わたしは、必死に謝る男の崩れ落ちた姿を見つめる。


 本当に醜い――


 本当にみじめだ――


 本当に、人間のどん底というものがあるとしたら、この姿がそれだろう――


 わたしはその姿に、自分の暗く澱んだ恨みのようなものが少し満足するのを感じた。

 だから、わたしは自分のその次の感情を処理していく事にする。


「お父様……」


「……シェリ……?」


 それはわたくしが、はじめて父親をお父様と呼んだ瞬間だった。


「わたくしは、お父様の人生を追体験しました。そこにあった不幸について、わたくしは語る言葉を持ちません。ただ、思った事もあります。それは、邪悪な不幸というものは、複雑に絡み合いながら、連鎖して、後世に受け継がれていく性質のものなのではないかという事です」


 わたしは一歩一歩、ひれ伏す父親に近づいていく。


「確かにわたくしは不幸でした。いっぱい、いっぱい、不幸でした。ずっと誰かに救ってほしいと思っていました。ですが、わたくしはこの300年後の世界で、クロウという優しい少年のおかげで、確かに救いを得る事が出来ました」


「……シェリ……そうなのか……? シェリはもう、辛くないのか……?」


 父親は、慎重に確かめるように、わたしにそう問う。


「……はい。わたくしは、もう幸せです。幸せなのです」


「……そうか。良かった……」


 父親は、ふっと力を抜いて、地面に倒れ伏した。


 それは、限界を超えた罪悪感に苦しんでいた父親の魂にとって、確かに心安らいだ瞬間だったのだろう。

 

 わたしは、そこに、父親の真実を見たと思った。


 この父親は、どうしようもないほど愚かで、醜く、酷い事をしてきた父親だったけど――


 それでも、この父親は、確かにわたしの幸福を喜ぶことが出来たのだ。


 わたしはそこに、一筋の救いのようなものを確かに感じた。


 だから――


「お父様。顔を上げてください」


「……へ?」


 お父様は、言われるがまま、よろよろと身体を起こす。


 手を床について、起き上がろうとしている体勢になる。


 そのままわたしを見上げた父親を――


 わたしは、しゃがみ込んで、ぎゅっと抱擁した。


「お父様……お父様が、わたくしの幸福を喜ぶお心をお持ちな事、確かに伝わりました……それが、お父様にとっての真実の心である事が、わたくしには分かりました……正直言って、わたくしはお父様の過去に戸惑っていました。お父様が幼い女の子しか愛せなくなったことにも、実の娘の不幸を望むようになったことにも、決してお父様ばかりが悪いわけではない、他の原因があったように思います……それを、どう処理すればいいのか、わたくしは戸惑っていました……」


 わたしは、優しく、笑顔で、お父様に語り掛ける。


「シェリ……シェリ……! 違うんだ……! 本当に、俺が全て悪いんだ……! 俺が馬鹿で愚かで弱い子供だったから……あんな風になるまで、追い詰められてしまったんだ……」


「いえ。お父様があんな風になってしまったのには、家族に愛されていないという何より酷い不幸が、その根底にあったと思います。わたくしは、同じく真に愛してくれる者がいないと感じていた人間として、そんなお父様に、確かに同情心のようなものを抱いています。ですから、わたくしは、お父様の全てを見てきて、お父様の全てを理解した者として、敢えて言いましょう――」


 ぎゅっと、強くお父様を抱き締めて、その強いメッセージを、身体の熱と共に、伝えるようにする。


「――わたくしは、お父様の全てを、赦します……」


 反応は、劇的だった。


「うわ……うわ……うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……!」


 お父様は、涙腺が決壊し、そのままひたすら、泣き続けた。


 今まで、人生全体で鬱積していたすべての不幸が、全ての心の傷が、贖われて、埋められていくような、そんな、全てを浄化するような涙だと、わたくしには感じられた。


「うわぁ……! うわぁああ……! うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……!」


 お父様は泣き続ける。

 両目から涙を流し続ける。


 それは、お父様にとって、確かに、人生で初めてもたらされた、赦しだったのだろう。

 人生で初めてもたらされた、救いだったのだろう。


 それが、自分がいじめて追い出した実の娘からもたらされた事は、皮肉であるかもしれないが……


 その実の娘である自分としては――


 お父様のさまよえる魂に、確かに救いをもたらせて、良かったと――

 確かに幸福をもたらせて、良かったと――

 

 そう、きちんと思えている――


 そして、そんな自分で在れていることに、誇りと喜びを感じている……


 だから、わたしは、改めて感謝しようと思えた。


 この父親との『和解』――


 これを演出してくれた、クロウ・ツァイトという少年の、果てしない努力と優しさ、天使のような、神様のような、素晴らしい強い想いに――


「うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……! うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……! うわぁああ……! うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……!」


 お父様の慟哭が、赤い花畑に響き渡る。

 それは、全ての哀しみを、全ての恨みを、過去にするような叫びで――


 わたしは安らかな気持ちで、そんなお父様を、抱き締め続けるのだった。

 わたしにとって、クロウさまは聖人に他ならないが――

 お父様にとっては、わたしが聖女か何かに見えているのかなと――


 そんな、冗談のような事を考える余裕があるくらいには――

 わたしは、穏やかで、落ち着いた心を、保つ事が出来ていたのだった……

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