第28話 1つの約束、無限の命

 しばらく行くと、待っていたかのように雪が降り始めた。

 それは次第に風と伴いはじめ、やがて軽い吹雪となった。

 相変わらず二人の歩く音は鳴っている。それは凍った地面を踏む音ではなく、雪に足を沈ませる音だ。

 曇り空だが周囲は明るい。それは視界が全て白いせいだ。

 積雪量は足首が埋まるくらいまでだが、その下はどうやら全て氷らしい。

 あまりに寒いので、二人はほとんど喋らなくなっていた。見渡す限りの雪原が延々と続き、どう考えても休める見込みがないというのもその原因だった。

 こんな中では火起こしなど到底できない。既にやろうとしたが、三つある火種のうち二つをダメにする結果となった。

 こうなることを予想できなかったわけではない。死ぬことを全力で避けるなら、雪原が見えた時点で引き返せばよかったのだ。

 だが結局、カイルにはそれができなかった。カイルにできないと言うことは、ライラにも引き返す意味がなくなるということだ。

「ライラ」

「ん?」

「平気か」

「……うん」

 こんな時でも他の心配なんだ。とライラは思った。

 無意味なのがわかり切っているので、聞き返そうとは思わなかった。

「カイル、〈紅童〉に入って」

「そんなことしたらライラが一人になる」

「……」返すべき言葉が失せた。諦めの印を口にする。

「バカだね」

 カイルから反論はなかった。

「カイル?」

 ライラは振り返り気味にカイルの顔を伺う。

 いつの間にか、ライラの方が彼の少し先を歩いていた。

 ライラは忍耐力こそないが、苦しさ自体には慣れている。それこそ死んでしまうような苦痛にも。

 しかしカイルはそうではない。死んだらおしまいであり、故に体が全力で警鐘を鳴らそうとする。

 カイルから反応はなかった。

 代わりにドサリと音がする。

「ほんとにバカ」

 ライラは倒れたカイルのそばにしゃがんだ。

 彼の背中を見て言う。

「ありがと。でもワタシは付き合わないから」

 ライラは〈紅童〉を取り出した。


 それからは一人で歩き始めた。〈村娘〉を手に持ちながら、一人で。

 ライラは確かに苦痛には慣れているが、その体は人を正確に模倣しているため、死のラインはカイルとほぼ同じだ。

 故にライラの意識もすぐに遠のき始めた。

 しかし抗った。

 ライラはずっと焦っていた。

 それは迫る死への焦り。だが、人間が本来持つ本能を模倣した焦りではなかった。

 あるいは、ライラは今初めて死を恐れているのかもしれなかった。

 酒瓶を取り出して、今にも凍りつきそうな酒を全て口に含み、喉の奥へ流し込んだ。

 気持ち程度だが温度が戻る。

 制御が戻ってきた足を必死に動かして、歩みを進める。

 例え白銀の空間にいても、ライラはあの時カイルに言われたことを忘れていなかった。

 自分の命を蔑ろにするのはやめてくれ。

 ライラは思い出す。確かあの時は、言葉では了承しなかったんだっけ。

 だったら尚更守らなければならない。

 守ろうとしてたけど死んじゃいました、なんて、言い訳にしか聞こえない。それでもし怒られたり残念がられたりしたら、きっと悔しい。

 だからライラは歩いた。

 自分のために歩いた。

 裏切りたくないから歩いた。

 あとどれくらいだとか、そんなことは考えず。ただ無心で。

 その結果……気づいたら視界が光に包まれていた。

 この光がなんなのか、一瞬考えて、〈村娘〉に尋ねようとした。

 だがその直前に答えに辿り着いた。

 これは光ではなく、雪の白。自分の顔が雪に埋まっていることに、ライラは気づいた。


……


 生き返っても、寒いままだった。

 ライラは雪に両腕を差し込んで上半身を起こした。

「————」

 その時に雪を強く握り込み、歯を食いしばった。

 少し呼吸が荒くなる。自己嫌悪が思考を侵食し始めるが、振り払った。

 足を止めるわけにはいかなかった。どんな状況になっても。例え三秒後に死ぬとしても。

 起き上がった。数歩歩いて、また意識を失った。

 これではダメだ。と思って、覚醒した瞬間に走り出すことにした。

 何度も、何度も死んだ。

 その度に約束が破れていった。

 長い時間が経ったころ、異質な音がした。甲高いという表現では収まらない異質な音。いや、声だ。

 長く鋭い声は、伸びるにつれて増殖するかのようだ。

 声の主は集団で姿を表した。

 狼だ。真っ白な狼。

 どうしてこんな吹雪の中、なんて考えなかった。

 彼らは平然と狩りをしようとしている。目を見ればわかることだ。

 ライラは目に入る狼を全て睨みつけたが、他には特に何もしなかった。

 一匹がライラに飛びかかる。それを合図にして、他の個体も一斉に飛び出した。

 継続的に遠のいていく意識の中、まるで獣が見えていないみたいに、ライラは足を動かし続けた。


 カイルは目を覚ました。

 目を開けたのは確かなのだが、光はなかった。

 黒という表現が似合わないほどの、真っ暗な空間。

 しかしカイルは、直感のような何らかの感覚で察知した。そこに何があるのか。あるいは、いるのかを。

 〈紅童〉は驚いていた。ライラは言っていなかったが、〈紅童〉が人間を収納するのは初めてだった。

「おや、こうなるのですか」

 言ったのは〈空執事〉だった。

「当たり前よ。カイルも人なんだから」

 何も見えない空間で、カイルは初めて、〈空執事〉〈紅童〉〈村娘〉の存在を認識した。

 彼はライラと関わってからの記憶を思い出す。その時、カイルの中でもう一つの世界が出来上がった。

 その世界の醜さが、あまりに美しくて、カイルは驚嘆した。

「そうか、君たちは別々で、一つなんだ」

「はい、その通りでございます」

 〈空執事〉が笑ったのがカイルにもわかった。

「ところで、人間がここにいても平気なの?」

 〈村娘〉が〈紅童〉に尋ねる。

「うーん。わかんないけどワタシはもう少しいてほしいな」

「いや、あのね、そう言うことじゃなくて、」

「仲良くしてくださいね」

「別に喧嘩じゃないわよ。ワタシはただ、」

「はーい」

 〈村娘〉は喋らなくなった。カイルは三人(助数詞を定めるのが難しいので仮にそう数える)のやりとりをぼうっと眺めていた。

 眺めているうちに夢中になった。いつの間にか彼は、無意識のうちにそこへ向かって歩いていた。

 歩いたという表現が正しいかはわからない。もはや、彼が地面の上に立っているのかすら怪しいのだから。

 しかしながら、次の瞬間、カイルの足に何かが触れた。この事実はどうやら確かなようだった。

 彼は屈んで、その何かを手に取った。

 それは一冊の本。聖典だった。

「カイルさん」

 〈空執事〉に言われて、我に帰った。

「お願いがございます」

 カイルは首を傾げて応えた。

「んん、なんと言いますか」考えてから口にはできなかったのだろうか。

 しばらくして。

「ライラには、あの子には、まだ足りないんです」と、〈空執事〉は言った。

「足りない?」

「ええ。ですから、」

 じゃれていた〈紅童〉と〈村娘〉もカイルを見た。

「ライラと仲良くしてください」

 〈空執事〉は神妙に言う。

「例えあの子が、呪いを手放すことになっても」

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