第26話 ライラ

 街のほとりにこぢんまりとした聖堂がある。

 無彩色で構成された実に映えない聖堂だ。入り口を通って奥に大きな鐘があり、その手前には聖典が置かれた台がある。

 断罪官の女、ウエルは、それを前にして跪き、祈りを捧げていた。

「こんなところにいた」

 同じ大剣を持った青年が言葉をかけた。中性的な高めの声だ。ウエルには嫌でも聴き慣れてしまった声だが、彼が確かに男であることを忘れかけたことは何度もある。

 青年はウエルの後ろに立った。そんな度胸がある人間はこの世に十人といまい。

「街の人たちへの心配はもういいの?」

 青年が尋ねるとウエルは目を開けて、立ち上がる。

「もちろん心配ですよ。でも街のことは彼らの方が詳しいですから、私が世話を焼きすぎてもかえって邪魔になります」

「本当、物好きだよねえ。俺はウエルと組んでなきゃあんなこと絶対しないけどさ、ウエルはなんていうか、本物だよね」

「ええそれはどうも」

 ウエルは青年の顔を見ることもなく横を通りすぎ、出口へと向かう。

 青年は肩をすくめた。褒め甲斐がないし、からかい甲斐もない。住人に向ける笑顔はどこに行ったのだろう。今のは完全にはっつけた笑顔だ。

 青年が後を追おうとした時、ウエルが突然足を止めた。

「どうかした?」

「ああいえ」斜め上を見て考える。「何か、大事な責任を果たそうとしていた気がしたんですが……忘れてしまいました」

「へえ、おっちょこちょいなとこもあるのかな、ウエルは」



 夜は冷える。温度が命を左右する静寂の地において、夜はまさに暴力だ。

 だが、カイルとライラには少し無理をする必要があった。

 そもそもベルフから北西に出発する旅人はいない。何もないからだ。故に旅立つ方向だけで目立ってしまう。

 だからと言って夜にこそこそ出発したりすれば尚更怪しいので、二人は迂回することにした。つまり遠回りをしているわけだから、あまり時間がない。

 というわけで、日が暮れてしばらくしても歩き続ける必要が出てきたのである。

「寒い」

 ライラは二重に纏ったマントを必死に抱きしめながら歩いている。布が増えたうえ縮こまった体勢をしているため、ずんぐりとしたシルエットになっている。

「まだ序の口だぞ」晴れた星空だ。風も雪もない。

 カイルは地図に目を凝らしながらそう言った。ひどくざっくりとした地図だ。

 二人は平原にできた道を歩いていた。道と言っても、草が少ないだけの道だ。

 この辺りの地面は全て凍結していて、踏みしめる度にザクザクと音を鳴らす。しかしながらまだ凍っている層は薄いようだし、真っ白というわけでもない。

 人が通ってできた道もしっかりと残っている。

「月明かりがあってよかった」

 カイルは夜空を見上げて言った。明かりのために火を使う訳にはいかない。

「もう少し進んだら、休める場所を探そう」

「うん」

 始まりの街エオラーンへの順路、つまり違法になる道に入るまではもうしばらくかかりそうだった。

 カイルは自身がルールを犯していることを改めて思い出し、それからレミードの言葉を思い出した。

 カイルの頭の中には、彼の言ったことがまだしつこく漂っていた。

 騎士団はそう悪い組織じゃない。彼はそう言った。

 魔術師は理由もなく迫害を受けていると思っていた。カイルは何も知らないのに騎士団を疑った。

 いや、だから知ろうとするんじゃないか。

 知った上で自分が決める。そう決めたんじゃないか。

 なら、教会が正しかったら?

 その可能性を考えたか?

 一度ルールを破ったのに、僕が悪かったですなんて通用するのか?

 ライラは、どうするんだ。

 迷いは、また別の迷いを生んで連鎖する。カイルはため息をついた。

 こんなことでは先が思いやられる。このまま閉鎖区域の一線を超えてしまって良いのかという気すらしてくる。

「カイル?」ライラが顔を覗き込む。「どうかした?」

「いや、別になにも。予想よりも気温が低いなって思っただけだ」

「ほら。やっぱり寒いって」

「否定はしてないだろ」

 言い返して落ち着くと、カイルは一度深呼吸をした。

 ルールなら、もうとっくに犯している。後戻りはできない。そう自分に言い聞かせた。

 凍土の夜はひどく静かだ。聞こえたとして、かなり遠くの方から動物の鳴き声が聞こえるだけ。あとはライラたちの呼吸音と、凍りついた土を踏む音くらい。

「なんていうか、寂しいな」

 こんなに広くて視界が開けているのに、いるのは自分とライラだけ。

「そう?」

 ライラは両手で肩を擦りながら、それだけ言った。

 ああ、そうか。と、カイルは思った。

「ライラは、いつもこれを味わってきたんだな」

「ん?」聞き返した直後に意味を理解して、「あー、どうだろ。わかんない」

 正直な感想だ。孤独や寂しさと言う点においては、ライラとカイルでは感覚がズレすぎている。

「寂しいって感覚は多分、ワタシにもある。でもそれ以上に、今はホッとしてるのかも」

 暗闇を眺める時間が長ければ長いほど、一瞬の閃光は眩いものだ。

「……そうか」

 カイルは上を見た。

 凍土の上に映える星空は、実に鮮明で見事な輝きを放っていた。当たり前のように魅入られて、彼はしばらくその光景を眺め続ける。

 やがてカイルは、ほんの一瞬だけ、とても苦しくなった。

「ねえカイル」

 呼ばれて、視線を移した。

普段の無表情からはかけ離れた、神妙な視線がそこにはあった。

直前まで星々を眺めていたカイルの顔は、ライラからは見えていなかったはずだが、それでもライラはずっとカイルの顔を見上げていたのかもしれない。そう感じるくらい、それは実に強固な視線だった。

カイルは両眉をわずかに上げて続きを促した。

 ライラは一瞬だけ視線を下ろしてから、先に口だけ開いた。少し遅れて、普段とあまり変わらない声が出る。

「ワタシのことを話すね」

 急にどうしたのか。その答えをいくら自分で考えても、きっとわからないだろうとカイルは思った。かといって、問いを口に出そうとは到底思えなかった。

結局カイルは、

「たのむ」

 とだけ言った。

 その言葉をしっかりと聞いてから、ライラは歩く方向を見て続けた。

「〈かたき〉。ワタシのもう一つの呼び名」

 かつて、ライラは存在しなかった。

 あるのは、人間のような何かだった。ソレは、言うなれば失敗作だった。

 姉たちが殺し合う間も失敗作であり続け、ソレは何も思わなかったし、何も成さなかった。

 だが。ソレが、ライラとなった時。ライラは、〈敵〉となっていた。

 それからずっと、ライラは生きてきた。

 全部ではなくとも、極めて長い時間、一人で生きてきた。


「君は魔獣が見えてるだろ。それも鮮明に」

 見つけた洞窟の中に、カイルの言葉が反響する。

「そうだね」

 ライラはいつかみたいに、自分の膝を抱えて地べたに座っている。

 カイルは冷静な様子だった。むしろ冷えすぎた顔をしていた。

「不老や不死なんてのも、普通は魔術師でも無理なんだろ」

「……うん」

 ライラが頷くと、カイルは黙った。

「わかってたの?」

 ライラが「ただのすごい魔術師」なんかじゃないということに気づいていたのか、という意味だ。

「そんな気はしてたってだけだ」

 カイルは洞窟の壁に寄りかかってあぐらをかきながら、少し先の地面にちょこっとだけ生えている苔類を眺めていた。

「黙ってて、ごめん」

「別にいいさ。君が誰であれ、僕は自分で判断するだけだ」

 けど。と、カイルは言った。

「まあ、できれば間違っていて欲しかったのかもな」

「ワタシは、カイルが決めたことに抗わない」

 ぎゅっと膝を強く抱きしめて、ライラは言う。

「カイルはカイルの判断をすればいい」

「おいおい、当たり前だろ」

 呆れたように笑って言ったが、少なくない強がりも含まれていた。

「君はどうするんだ。原書を見つけたとして、そのあとは」

「実は、図書館を開きたいなって」

「図書館?」

「結果はどうあれ、ワタシはこの先ずっと生きていくことになる。ワタシの記憶が続く限り、あの子たちみたいな本もずっと増えていく。どうせならそれを誰かのために使いたいなって」

 またよくわからない表現があるが、

「へえ、良いな」

 拍子抜けした感じだが、意外と心からそう思った。

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