第24話 大きすぎる対価
ライラは支部を飛び出して街を走り抜け、人混みの中に逃げ込んだ。
ここまでアレに捕まらずに逃げてこられたのは混在の呪いが少なからず効いている証拠だった。が、少なからずである。
大量の足音の中でも、美しいその音は異質で、近づいてくるのが正確に察知できた。
コツ。コツ。コツ。
通常であれば、何かのきっかけでライラを認識したとしても、「敵意」と言う好感とは相容れない感情を抱いている限り、一度見失ったライラを追い続けることは不可能である。
しかしその足音は、正確にライラの方へ近づいてくる。
コツ、コツ、コツ、
女の姿を見た人々は、イウデクスだイウデクスよと呟きながら無意識に道をあける。
例え女が大剣を持っていなかったとしても、彼女の顔を見れば彼らは道を開けただろう。断罪官の女はそういう表情をしていた。ソレの行く道を塞ぐことが本能的に恐いと感じるような、そんな雰囲気を顔面に巻きつけていた。
ライラを隠匿していた人の壁がぞろぞろと掃けていき、やがて視界が完全に開けた。
ライラが女を視認したとき、女はライラを認識した。
足音の間隔が急激に短くなり、ライラは咄嗟に叫ぶ。
「〈空執事〉!」
マントの中から飛び出した魔術は、しかし女に触れる直前で消失した。
効かないことを今知ったみたいにライラの表情が歪む。
見た目からは想像できないくらいの速さで、巨大な刃が振り下ろされた。
紫を含んだ髪の一部が舞い散り、道路の破片が飛ぶ。
周囲からは悲鳴が上がったが、ライラの喉からは空気の漏れる音以外何も出なかった。
初撃は外れていた。ライラは避ける行動は取っていたが、剣はライラの立っていた場所より少しズレた位置に刺さった。そうでなければ、飛び散っていたのは間違いなくライラの血液だっただろう。
女が剣を引き抜くのは一瞬だったが、その一瞬のうちにライラは人混みの奥へ駆け込んだ。
呪いのせいで誰も道を開けたりしないため間を縫うのは困難。しかしそれでも必死にやらなければならなかった。ライラはかつて体験したことのないほど現実的な恐怖を味わっている。
それはライラという存在が終了する可能性に対する恐怖であり、生存本能による恐怖。通常の生物が持ちうる最もシンプルな恐怖である。
さて、人混みをかき分けなければならない方と、人が勝手に道を開ける方。果たしてどちらが速く進めるだろうか。
答えは明瞭だ。女はライラが間合いに入ったことを察知したが、曖昧な敵の位置を完全にするため更に接近。
次の瞬間、ライラの首に大きな負担がかかり、体勢が一気に後ろへ傾いた。
服の後ろ襟を掴まれた。情けない声が喉から漏れて、ライラは死神の方へ引き寄せられる。
足が地から離れ、背中を強打した。
痛みに苦悶の表情を浮かべる間もなく、腹に重い一撃。
「あがッ————」
ブーツがライラの腹に食い込み、押さえつける。
「逃しませんよ」
ライラの両手に二冊。
「『人へ。見えないものだろう。獣という名の姿、見えないならば手を取る。獣へ』」
ページがめくれていく。
「無駄」
女は初めて見る詠唱に嫌悪感を増大させ、片手に持った大剣を大きく振り上げた。
すると、
赤い雨が降り始めた。
「な」
女は絶えず残り香を検知している。だからこそ意味不明な状況に困惑した。
女の視界に硬く重くそびえ立つ黒煉瓦の建物群が、一斉に沈んだ。より正確に言えば、下部が地面に埋まっている。
次の瞬間には、地面が割れた。
服、食料、武器、ネズミ。人以外のあらゆるものが舞い上がった。
数日前のことを、あるいはその言葉を知る者は、こう叫ばざるを得ない。
「魔獣……」
「魔獣だ!」
女の脳内にもその単語が浮かび上がっていた。
魔獣は個体によって纏う魔術が異なる。しかし今ここで起きている現象は、四日前に女自らの手で倒した、いや、トドメを刺した、あの魔獣が起こした魔術の報告と酷似しているではないか。
故に女の思考の数パーセントが、そこにいるはずの魔獣に持っていかれた。
ライラが女の拘束から抜け出すには充分だった。
女は阻止しようとした。が、憎き魔獣が目の前にいるかもしれない。通常なら考えるまでもないその二択が、混在の呪いによって迷いとなった。
ライラはまた人混みに隠れた。視覚情報から消えた上に、魔獣という囮があるため、女がライラを見失うのは必然だった。
ライラは全力で走り、近くの八百屋を目に留める。すぐに押し入って、店の奥に積まれた空箱の山に飛び込んだ。
中年女性の店主は一度大きく驚いたが、すぐに街の方へ意識を戻す。
荒れた街を見た人々は混乱を極めていた。その理由は破壊がぴたりと止まったからでもあった。
ライラも平常を取り戻すべく努めた。荒れた呼吸を落ち着かせるために、意図的に呼吸を大きくする。
だが、それは次第に呻き声に変わった。
「ぐゥ……アあ……」
今にもすすり泣きへと変わりそうだった。
その痛みの原因は自責である。人間が努力を積み重ねて作り上げた、街という結晶を破壊した事による痛みだ。
自分の都合のために壊して、挙句こんなところに身を潜めて。
「ワタシ……は、なにを!」
何をしているんだ。
なんのために。
魔獣出現を演出して、人間の邪魔をして逃げて、そこまでして何をしようというのだ。
ライラはわからなくなった。
ライラの視界はすべて箱で覆われている。それはつまり周りからもライラが見えないということであるが、ライラにはまるで世界から一方的に目隠しを受けているかのように思えた。
〈紅童〉と〈空執事〉が、ライラを呼んだ。
ライラは歯を食いしばり、お腹に思いっきり力を入れた。
痛みを必死に乗り越えようとした。乗り越えて、息を整えようとした。
コツ、コツ、
「もし、奥さん」
乗り越えるために込めた力は、強制的に霧散した。
誰かが店主に話しかけている。
「そこにある箱の山を、調べさせてくれません?」
「な、なぜだい」
「大したことではありませんよ。畜生に踊らされたのを思い出しただけです」
ライラの喉が、ヒュッと音を鳴らした。
「お姉さん!」
今度は知らない声がした。ほんの十歳くらいの、幼い少女らしかった。
「……」一秒空いた。「どうしましたか?」
「お母さんが、落ちてきた天井に足を挟んじゃって……」
今度は数秒間空いた。
「案内してください」
そう言って、女と少女はどこかに駆けて行った。取り残されたライラは、しばらくその場でじっとしていた。
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