第17話 死なないということ

 吐血してから、ライラは自分の体が貫かれていることに気づいた。

 腹から流れる血で下半身が濡れていく。

 信じられないほどの痛みに表情を歪ませながらも、その目でしっかりと魔獣の姿を見た。

 その後で、なんとか手に持ったままでいる〈空執事〉に視線を移す。

 たぶん相性が悪いんだ、とライラは思った。

 ひどく中途半端な魔獣だ。そのせいで〈空執事〉だけでは干渉しきれなかったらしい。

 一人じゃできないならみんなでやるまで。それだけの話だ。

 狙いが再びカイルに向く前にやらなければならないが、本を取り出そうにも体を掴まれていて動けない。

 それに出血のせいで頭がぼんやりし始めている。このままでは読み上げに要する集中が保てそうにない。

 ならば、ライラの取る選択肢は一つだった。

「お願い、していいかな」

 手に持った黄色い本に向かってそう言った。

 すると手の中で勝手に開き、

『仕方がないですね』

 ページが次々捲られていく。

 カイルには今起こっていることがほとんど理解できていなかった。

 かろうじてわかるのは三つだけ。

 どうやら魔獣が抑えきれなかったらしいということ。

 そもそも魔獣について理解しようとしていることが馬鹿らしいということ。

 そして、ライラの本が開くと同時に、折れた木が浮遊し始めたということ。大きな木はその粗い断面をライラの方に向け、空中で止まった。

「おい、なんだよ……」

 ただの木が、処刑人の斧に見えた。

 数秒後、倒木は超スピードで動き出した。

 ライラに向かって一直線の軌道を描く。

「やめ……」

 カイルが弱々しく手を伸ばすと同時に、大きな木はライラの元を通過した。

 人間を圧倒するほどの質量を持ったそれは、ライラの頭を易々と吹き飛ばした。

 カイルの手が震えた。

 吹き上がる少女の血を前にして、彼の体は中身を含めて少しの変動もできなかった。

 ライラの体が生き物でなくなるまで数秒ほどだった。

 それは死体のまま浮いていた。しかし手に持った本は落下しない。

 突如、ライラだった体は色を無くし、黒一色になった。

 そして更に一瞬後には、ホコリでも舞うみたいに、黒という情報さえ霧散してなくなってしまった。

 それはつまり何もないということだった。

 手に持っていた黄色い本が落下した。重力に任せて、ただ真下に落下した。何も不思議なところはない。敢えて見つけるなら空中でも頑なに開かなかったことくらいだ。

 落ちてきたそれを、ライラは手に取った。

 カイルが見ているのは確かにライラだった。ライラが消えるのと同時に現れたライラ。

 顔も、髪も、服装も、いつもとなんら変わりないライラ。つまりは、腹を貫かれる前の姿だった。

 ライラはもう片方の手をマントの裏に伸ばした。

 その瞬間、ライラの元に風が吹き荒れる。気をつけなければカイルでも吹き飛ばされそうな程の強風。

 しかしライラは平然とした様子で風を受けている。一瞬後、通行人を避けるみたいに、ライラは体の向きを変えた。

 強い風圧が、ライラのいた場所を高速で通過した。ライラのマントが激しくなびいて、華奢な体格が露わになる。

 カイルには、通過したものは一切見えなかった。ただ、それが先ほどライラを貫いたものであるということだけは確かだった。

 ライラはマントの裏から赤い本を取り出した。そして〈紅童〉と〈空執事〉を掲げた。

 魔獣の炎が激しく燃え上がる。

「『左に喜び、右に楽しみがあって、真ん中には欲望がありました。』二人で、お願い」

 二冊が同時に開き、全てのページがめくられ、また閉じた。

 再びの咆哮。半径一マイル以内に存在する全ての生き物の耳をつんざく悲鳴。

 爆風のようなものが遠くから押し寄せてきて、炎はかききえ、やがてなんの音もしなくなった。

 間近に迫る足音によって、カイルは現実に引き戻された。

 顔をあげると、ライラが立っていた。

 ライラは未だにへたり込んでいるカイルの顔を覗き込み、言った。

「立てる?」

 カイルは差し出された手を見つめた。


 数十秒遡る。

「ふ、ふはは」

 御者。ノイズ・コレーヴは、腹の奥から突き出ようとする笑い声を抑えるよう努めていた。

 だが、無理だった。

「はあっッッ! はッハハハハハハァアアアア!」

 笑い声は魔獣の咆哮にかき消された。

「死ななくてよかっただろう?」

 静かな夜の空にそう語りかけ、ノイズは満足そうに歩いて立ち去っていった。

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