第12話 童(わらべ)

「してない!」勢いよく立ち上がって、ライラは言った。

 唐突な大声にカイルの身が跳ねた。

 ライラは音量を少し控えめにして続ける。

「人に迷惑をかけるようなことは絶対にしてない。今まで一度たりとも」

 少し気まずそうに目を逸らしながら。

 それでも、一度たりともと言い切った。カイルより遥かに長い人生で、一度たりとも。

「わかった。僕が悪かった。申し訳ない」

 カイルは両手を上げ、面と向かって謝罪した。

 ライラは下を向いてまた目を泳がせ、ゆっくりと座席に腰を下ろした。

「ごめん」とライラは言った。

「いや。考えが足りなかったのは僕の方だ」

 カイルはライラが思っているよりも強く反省していた。

 カイルの悪い癖だ。良いか悪いかに固執して、本当に重視すべきものが見えなくなる時がある。

 存外にカイルの表情が沈んでいたので、ライラもまた過剰な罪悪感という悪い癖を加速させた。

「ああそうだお客さん、ウチは馬を休ませてる間の食事代なんかも料金に含まれてます」

 御者は何も知らない。それにしてもやっぱり声が掠れている。

「え、ええそうですか」

 正直それどころではなかった。

「よかったら帰りも」

「いや結構です」

 どんなにお得でも、こんな馬車はもうごめんだ。カイルが軽く断った直後、

「なに?」

 ライラが何かにそう言った。斜め上のあたりを見ているが、そこには何もない。

「まってね」

 言いながら、ライラはマントの裏に手を伸ばす。

 そして一冊の本を取り出した。赤黒い色の、分厚い本だった。

 ライラはそれを膝の上に置いた。

「それは?」カイルが問う。

「この子は、〈紅童べにわらべ〉」

 ライラは真ん中あたりのページを開いた。

 少し暗くても、そこに書かれた文字はカイルにもはっきりと見えた。

 真っ赤だったからだ。

『えへへ。ライラがいじめれてたから、守ってあげようと思って』

 カイルは顔をしかめた。不気味だったからというより、いじめたという表現が不満だったからだ。かといって反論する余地はないので黙るしかない。

 代わりにライラが反論した。

「いじめられてないよ」

 単純だが、それだけでもカイルは少なからずホッとした。

『あれ、そうなんだ。なあんだ』

「でもありがとね」

『えへへ』

 表情は動かないが、ライラはしっかり微笑んでいるつもりだった。

『ねえライラ、そのお兄ちゃんと話してもいい?』

 唐突でちょっと予想外な質問。ライラは大丈夫かなと少し考えてから、カイルの意思をアイコンタクトで求める。

 カイルは頷いた。〈村娘〉よりは全然良い子そうだなと彼は思った。むしろライラが慎重すぎる気がする。

「いいよ」とライラが言う。カイルは両手で〈紅童〉を受け取った。

 見た目通り、ずっしり重たい。

 前回失敗したカイルは、今度こそちゃんと仲良くなろうと意気込んだ。

「僕はカイルだ。よろしくね」

『ワタシは〈紅童〉! 収納する魔術が使えるんだあ』

 この幼い感じ。童という名に違いはないらしい。カイルは自然と十歳未満くらいの子供の姿を連想した。

『ねえお兄さん』名前では呼んでくれないらしい。

「なんだい?」

『お兄さんはライラのこと好き?』

「え……」

「……」

 気まずい展開に戦慄するカイル。ライラは渡したことを早速後悔し始めている。

『ワタシはだいすき!』

 カイルはまだ〈紅童〉のことを純粋無垢な子供だと思っているため、それがより気まずさを加速させた。

 カイルはライラに対してなんの気持ちもないわけではないが、かと言ってそれは好きでも嫌いでもない。そもそも歳が違いすぎる。見た目も実年齢も。

 しかしながら幼子は好きか嫌いかでしか納得しない。

 カイルは詰んでいた。

「うん、僕も好きだよ」

 恥ずかしいというよりは、女の子に対してそういうことを軽率に言うのがカイル的にはタブーだった。誤解を免れようとしても、何をしたってライラに失礼になってしまう。

 だからカイルは堂々としていた。

 さて、ライラの反応だが、ここは赤面したりするのが正常なのかもしれない。しかし実際には青かった。

 焦りで顔を青くして、〈紅童〉を取り上げるか否かで葛藤していた。ライラはこの先の展開に嫌な予感を抱いていたが、それが確定したわけではないので悩んでいた。

『えへへ』文字が綴られる。『じゃあ、どれくらい?』

「どれくらいかあ」

 子供によくあるやつだ。両手を広げて、これくらい好き! とか言うやつ。

 と、カイルは思っていた。

『ライラを、どうしたいくらい好き?』

「……ん?」

 カイルの頭の中は派手にシェイクされた。感情は気まずさを通り越し、別のものへと変わっていく。

 わけがわからないので、カイルは聞いて確かめるしかなかった。

「どういう……意味だ?」

『どういう、いみ? イミはね、えへへ』

 真っ赤な文字が綴られていく。

『奪いたいくらい好き? 犯したいくらい好き? 縛りたいくらい好き? 殺したいくらい好き?』

 カイルの顔、そして〈紅童〉を持った手先から、血の気が引いていった。

『ワタシは食べたいくらい好き!』

「たべ……」

 カイルの手元から〈紅童〉が消えた。

 理由は単純。ライラが取り上げたからだ。

 ライラは〈紅童〉を即座にカイルから遠ざけて、若干肩を上下させながらカイルを見ていた。

 心なしか、焦りの表情が浮かんでいるようにも見える。

「忘れて」とライラは言った。

 数秒の沈黙の後、

「いや無理だ」無理もない。

 カイルは恐怖することにもう疲れていた。本人の名誉のために述べておくが、カイルは決して怖がりなわけではない。悪いのは最近で彼を襲ったいくつかの出来事の方だ。

 ライラもカイルに同情しているのか、ため息をつきながら〈紅童〉に視線を落とす。

「それはワタシ以外に言ったらダメだよ」

 ライラ自身は何度も聞かされた話だったが、初対面であるカイルとの会話にもその話題を選ぶとは、ライラも予想しなかった。いや、発想自体はしていたが、無いだろうなと思った。

 本たちがライラ以外の存在とどのように関わるのか、ライラは知らないのだ。

『ライラ、このお兄さん面白いよ。ワタシうれしい』

 ライラはまたため息をつく。今度は呆れが半分、愛情が半分という比率のため息だった。

 そして〈紅童〉をそっと閉じた。マント裏にしまおうとすると、カイルが言った。

「なんか僕は不安になってきたぞ」

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