異形の血族(後編)

 見上げた空には、下界の出来事など何処吹く風とばかりに、ゆったりと流れて行く千切れ雲の群れ。其の流れに誘われる様に歩き出した。あの雲のどれか一つに、もしかしたら妹の名残が何かしら消えずに留まり続けているかも知れないと、そんな気がして。此のまま雲と一緒に何処迄も行けたら良い。そうして上の空に気を取られ続けて、歩き続けた其の先に辿り着いたのは、屋敷の裏手からも見下ろす形で眺める事の出来る湖の岬。

 広がる水面より吹き寄せる風に我に返り、呆けたまま朱に染まった湖水を、見るとは無しに見続けていた。寄せては返す風と共に、夕暮れの空の中に溶け込んで行く波の音。其の儘倒れ伏して、此の穏やかな情景の中に全てを委ね切って仕舞いたい。静かに緩やかに移ろって行く空と水面と草叢と。本当に何もかも忘れて、そうして仕舞おうかしら、と半ば本気で思案していた処に、無粋にも邪魔の入る事となった。

 荒々しく草を搔き分ける音。苛立たし気に小石を蹴散らしながら次第に近付いて来る足音。最後に其の音の主である兄が姿を現わし、自分の前に立ち塞がった時、何時もだったらその激しい剣幕や振り上げられた腕に怯え、萎縮して仕舞うのが常であったのに、どう云う訳か、其の時に限って何故だか妙に落ち着き払った心持で、柔らかな笑みさえ浮かべて迎えたのは、自分でも意外な事だった。


 ”あら、兄様、どうしたんですの、こんな処迄?″


 とても普段の自分とは似ても似つかない物柔らかな物腰と言葉遣い。其れは、兄の激昂の表情の中に隠しようの無い怯えの色を見たからかも知れなかった。


〝貴様は、″

 そう叫ぶ兄の声は其れを裏付ける様に少し上擦っていた。

〝貴様、貴様は、貴様は自分の妹を、実の妹を手に掛けたな? 何だってそんな。こんな、こんな事が許されるとでも思っているのか? 矢張り貴様を此処に置いていたのは間違いだった。早々に追い出すか、さもなくば……、″


〝いっその事始末しておけば良かったと? 酷い、兄様。私にはそんな風に咎め立てしておいて、自分も実の妹を手に掛けようだなんて。″


〝黙れ、貴様が我々一族にとっての毒である事が分かった以上、妹殺しの汚名を被る事に躊躇いは無い。一族の血の力を消滅させ、無かった事にしてしまう様な力など。貴様は一体、何処迄この兄を苦しめれば気が済むと云うのか。″


〝少なくとも妹は、あの娘は、あの娘の望んだ通りその軛から解き放たれではありませんか。人としての生を失い、あのような形でこの地上に縛り付けられたまま唯苦しみ続けるだけだった、あの可哀想な魂を開放する事が出来た。褒められこそすれ、責められる謂れなどありません。″


〝其れが貴様の思い込みでないなどと、どうして言える? あの娘の望んだ通り、だと? 其れが自分の血に狂った末の己の願望の声ではない、と言えるのか? 自身の血の昂りのまま貪る事に後ろめたさを覚える余り、自身で勝手に妹の声を作り上げ、さもあの娘の為にした事です、決して自分の浅ましい欲望を満足させる為ではありません、と。全く、昔から其の手の言い訳だけは一人前だな、貴様は。どうした、顔が強張っているぞ。反論出来る事が有るなら言ってみろ。″

 

 昔からそうだった。私ではどうあっても口で兄に勝つ事が出来なかった。どんなに頭を絞って言葉を捻り出したとしても、忽ち言葉尻を取られて手も無く捻られて、知らず知らずの内に追い詰められて仕舞うのだ。頭の中でどんなに反抗していても其れに伴う言葉が尽きてしまい、何も言えないまま下を向いてる事しか出来なくなって仕舞う。こんな事になっても、其れは変わる事無く、私は為す術も無く、無駄と知りつつも、必死で最後の足搔きを口にして仕舞うのだった。其れが決定的に自分を打ちのめし、発ち上がれなくなる程の打撃を与えて仕舞うのだとしても。


〝でも、でも、あの娘は言ってくれました。最後に、確かに、有難う、有難う姉様って。確かに言ってくれたんです。″

 

 そして、予定調和的に齎された最後の言葉。


〝其れが本当に貴様の愛しい妹の言葉であると何故言い切れる? 何度も言わせるな。妹がそう言ってくれただと? 其れはお前の心の声を都合良く書き換えた物に過ぎず、其の事から目を逸らすばかりか、自分のちっぽけな良心を守る為に、妹を体良く利用しただけだと云うに。グダグダと長ったらしい言い訳などせず、最初からこう言えばいいのだ、「私の愛しい妹の魂は、とても美味しう御座いました。」とな。″


 私達の周りに広がる赤く染まった夕暮れの情景が、怒りか絶望故か鮮血の様に真っ赤に染まり、とても自分の喉から出たとは思えない凄まじい声が洩れ出た。もう、何が真実なのか分からない。私は兄に摑み掛かっていた。私のそんな剣幕に一向に怯む事無く、兄はその顔に此れ以上無い、と云った嘲笑を浮かべながら、猶も言い募るのだった。


〝どうした、図星を衝かれて我を失ったか。其れも良いだろう。少なくとも何時もの取り繕った澄まし顔などより余程見られるという物だ。そうやって己の血の声にだけ従っていれば良い。貴様のしている所謂普通の日常など、どうあっも私達には無縁な物なのだからな。″


〝黙れ、黙れ。″と声を張り上げながら、兄の胸ぐらを掴み、ひたすらに揺さ振って、結局何がしたかったのだろう。息が上がって立っていられず、その場にへたり込んだ時には既に、兄の姿は無く、静かに暮れて行く夕闇の中、湖より吹き寄せる涼し気な風が葦を揺らす音が聞こえて来るだけで、先程迄の言い合いの痕跡の何も見い出せない穏やかな情景が在るだけだった。

 一体何が真実なのか。分からない。兄は姿を消した。跡形も無く。本当に私に兄など居たのだろうか、そう考えてしまう程、呆気無くその存在が消え去って仕舞った事に、じわじわと湧き上がって来る不安。あれ程迄に私を苛み、否定し続けて来た兄が、こうも呆気無く。変な可笑しみすら感じてしまい、思わず零れてしまう笑い声。しかし、其れも身体中に残る重たい倦怠感に遮られ、直ぐに止んで仕舞う。もう夕陽もほとんど沈み切り、僅かばかりに地平近くの空に残る朱の色がその名残を残すだけだと云うのに、目の中に残る真紅の衝動は、薄れるどころか、増々其の濃さを増す一方で、疲れで今にも倒れ伏しそうになっている身体を、まるで自分の物では無いかの様に駆り立て、血の求めるがままに、残された最後の場所へと引き摺って行くのだった。

 兄と妹、、二人を手に掛けた、其の事が私の中に残っていた最後の枷をも取り去って、私は唯己の血の求めるがままに歩を進め、事を為すだけの存在に成り果てていた。其の事に疑問を差し挟む事も無く、寧ろそうする事に、此れ以上無い程の喜びを覚えるだけの、血に飢えるだけの獣に。兄がこの姿を見ていたら、さぞや喜んだだろうな、ふとそんな事を考えて、口元が皮肉気に歪むのを感じるのだった。

 

 すっかり気配の消えた屋敷の階段をゆっくりと昇って行く。未だ此の屋敷に人の気配の絶えなかった頃から、誰もが敢えて近付こうとしなかった部屋。其処は私達の弟の、生まれ落ちてより此の方この部屋に幽閉されて、文字通り日の目を見る事なかった弟の部屋。生まれた直後には、血族の証を余す事無く表し、嘗ての栄光の歴史を再び、と将来を嘱望された弟。しかし、全ての可能性を体現すると云う事、それは同時に何事も為せず、何物にも成り得ない、と云う事を皆が理解するのに然程時間は掛からなかった。産後の衰弱と精神に受けた強い衝撃により、母はその後間も無く身罷り、父も直ぐその後を追う様に亡くなった。為に、ある意味で弟は、此の家に終焉を齎す兆しとして見做される様になり、より一層遠ざけられる様になって仕舞った。勝手な話だ。そんな事情など弟自身には何の関係も無い話だと云うのに。この家に本当の意味で終焉を齎す者は外でもない、此の私だったと云うのに。知らぬ事とは言え、私は弟に不当な不名誉を負わせて来た事になる。と言って、今となっては其の事を責める者はもう誰も居ない。当の弟は、其の事を理解出来る状態にそもそも無かった。

 

 弟の姿を一目でも見た者は皆、その心に今後決して消える事の無い深い傷跡を残す事となっただろう。締め切りになったカーテンの隙間から洩れる、僅かな光の中に浮かび上がる、部屋の真中に小山の様に盛り上がり蠢く肉の塊。其れは間を置かず姿を変え続け、内から絶えず湧き続ける泡の様な音を立てながら、次々と新たな肉芽を生み出し、其れ等は各々様々に無秩序な分岐を繰り返し、凡そこの地上に現われたありとあらゆる生物の姿を模倣するのだった。

 生まれたばかりの桃色の肉芽を細かい鱗が覆い尽したかと見ると、忽ち其れは雛鳥の和毛に生え変わる、と云った風に取り留め無く、先程迄部屋一杯にはち切れんばかりに膨れ上がったと見れば、次の瞬間には、生まれたばかりの子鼠みたいに小さく縮んで部屋の片隅で細かく震えている。思いもしない箇所から見開かれる目は悉く血走り、大きく開かれた口からは、例外無く苦悶の声が洩れ、弟が自身の血の力に振り廻され、絶えざる苦痛に苛まれいる事は歴然としていた。

 この世に生まれ落ちてから此の方、弟は今の今迄余人には想像も付かない苦痛と共に生きて来たのだ。全ての可能性と云えば聞こえは良いが、それ故に遂に一つの人格を得る事が出来ずに、今に至る迄何者にも成り得なかった。千々に分かたれたまま、生きている限り苦しみを覚えるだけの生。弟とは呼んでいるが、便宜上そう呼んでいるだけで、実際は弟でも妹でもない。其のどちらになる事も無い、身体は在りはするが、未だ生まれていない赤子以前の存在だったのだ。

 嘗て兄は、其の姿を、一族の血を見せ付ける、言ってみれば一種の象徴として、彼の言葉を借りれば〝居るだけで価値の有る存在″と見做し、其の存在に大いに満足していた節がある。尤も其れは其れとして弟の部屋には決して近付こうとはしなかったけれど。

 妹は、只々弟を恐れていた。夜な夜な洩れ聞こえる、人とも獣とも付かない声に身を震わせ、私の寝室に逃げ込んで来たのも、一度や二度ではなかった。其の恐れは、自身の内に流れる一族の血に対する強い忌避感に繋がっていた。何れ自身もあの様に内に流れる血に翻弄され、望まぬ結末を迎えて仕舞うのではないか、と云う恐れ。残念な事に、其れは現実の物となって仕舞った。

 

 私はそんな弟の世話を任されていた。誰もがやりたがらない役目を負わされるのが、私の昔からの立ち位置ではあったが、其れを別にしても、私が側に行くと、何故か弟は比較的大人しく、他の者がするよりもずっと危なげ無く済ませられる、と云う当時説明の付かない事情も私が弟を世話し続ける理由だった。今ならば分かる。弟は恐れていた。自身を消し去る可能性を秘めていた私、と云う存在を本能的に感じ取っていたのだろう。其れが現実の物となった今、弟の私に対する恐怖の感情、同時に拒絶も、さぞや激しい物になるのだろう。その様が頭を掠めると、先程迄血に浮かされていた熱が急速に冷めて行き、扉を開く、たった其れだけの事が躊躇われて、私は扉の前で息を潜め、佇んでいる事しか出来なかったのだ。

 しかし、扉を挟んで向こう側からは何の音も聞こえては来ず、何時もなら近付くだけで聞こえて来る呻き声、叫び声、重たい体躯を引き摺る音と云った、否応無く聞こえて来る筈の音が何一つ無く、今迄に無い静寂が辺りを支配していた。

 不思議に思いながら扉を開けると、其処には僅かに漏れ入る月の光に浮かび上がる、何時に無く穏やかに、身動ぎ一つしないで、眠る様に幾つもの目を閉じて、生まれて此の方ずっと苛まれ続けて来た苦痛から解放された様に安らいだ弟の姿があるのだった


〝どうしたの、眠っているの?″


 そんな言葉を掛けた処で伝わる筈も無いのに、其の事を忘れて仕舞う程に弟の姿は常とは違っていたのだった。更に驚いた事には、其の声に応えたかの様に、ゆっくりと目を開いて、キョトンとした、生まれたばかりの様な眼差しを向け、其ればかりか、甘える様な仕草で此方に擦り寄って来て、直ぐ側にじっと身を横たえ、薄目を開けて見上げる様は、此方を完全に信頼し切った幼子の其れだった。

 つい先程迄飢えた獣よろしく、舌なめずりでもする様にこの部屋に向かっていた時の、あの抑え難い衝動は今ではすっかり鳴りを潜め、代わって、私は弟の仕草に釣られる形で、傍らに座り込んで、赤子をあやす様にゆっくりと手を伸ばして、その身体を撫で続けるのだった。

 分かっていた。徐々に手を通して伝わって来る温もりの抜けて行く身体。重たげに閉じられて行く瞼。少しずつ掠れて行く身体。最期迄満足そうに喉を鳴らしながら、弟の身体は少しずつ力を失って行き、夜が深まり、部屋に射し込む月明かりが目に慣れて、部屋全体を覗う事が出来る様になった頃、私は一人部屋の中に座り込んで、ぼんやりと何時迄も宙を見詰めていた。やがて空が白み始め、色々有り過ぎて疲労の極みに達した私が、意識を失い、其の儘寝入って仕舞う迄。


 こうして私は、家族を一夜にして全て失う事になったのだった。他の誰でも無い、此の私自身の手に依って。



         (エピローグに続きます。)

 

 

 

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