第49話 屋根の上のレイス

 ◆レイス◆


 ザーッ。


 ……文字にしてみればそれだけだが、それは延々と止むことが無い。


 言ってみれば、ザーーーーーーーーーー……といったところか。

 いや、そんな程度でも収まらないけれど。


 まるでの様な雨模様。

 レンドウを殺さず守ることを誓った、あの夜。


 いや、もっと酷いかもしれない。轟音が空を揺るがし、視界を裂く。雲の隙間から覗く稲妻が、地上の命を射抜かんと狙いを定めているかのよう。こんな風に三階建ての建物の屋根の上に立っているのは……かなり危険なんじゃ。


 雨脚が段々と強まるばかりか、風まで伴うようになり、その角度を変えていく。思わず、身をぶるりと震わせる。


 カン、と足を踏み出した先から堅い音が鳴る。赤い塗装が施された屋根を踏みしめ、ゆっくり体勢を起こしていく。ともすれば、滑って転んで落下までして、大怪我を負ってしまいそうだった。


 沢山の殺意をこの身に受け。

 幾度も人の死を目にした。


 四つんばいのような格好になりかける臆病な自分を叱咤し……歪む視界の中、眼前の人物を見据える。


≪ヴァリアー≫本館の周辺に展開された白い鎧の兵士たち……そしてそれに対抗するヴァリアーの隊員。それらを眺めていた人物が、僕の方へと向き直る。その漆黒の髪が風に煽られ、荒々しく舞い踊る。


憑依体ひょういたいからは脅威を感じませんし、部下に任せても問題ないと言う判断でしたが……別の意味で正解だったようですね」


 その黄色い瞳が、僕を射抜いてその場に釘付けにしようとする。彼の顔を覆い隠す髪が暴風によって避けられると、その顔は少年と言っても差支えない年齢に見えた。僕と変わらないような。


 ――ひょういたい、ってなんだろう?


「ここであなたを倒せば、私たちにとっての障害は何も無くなりそうだ」


 ……この人の服装、レンドウにさせてあげたら喜びそうな配色だなぁ。すらりとした肢体を包む紺色の衣装の上に、血で染めたような布を纏い、更にその上から漆黒のマントを羽織っているのか。首元でのみ留められ、横殴りに叩きつける雨風によってたなびくままになっているそれの下に、何やら鎖のようなものが覘いている。それに、投擲用だろうか、ナイフの類も。


 俗にいう、暗器使い……というやつかな。


 自信はないけど、恐らくそうだ。屈強な鎧の兵士たちを束ねるのがこの少年、しかも暗器使いだとすると……なんだか拍子抜けしてしまいそうになるけど、それは当てはまらないのだろう。いや、もしかしたら他の兵士たちも鎧の中身は存外に若いのかもしれないけど。ただ、部隊を率いるリーダーってだけ聞くと、大柄な剣豪みたいなのを想像しちゃいがちっていうか。細身の彼はいかにも学者然としていて、前線に立つことには違和感を覚える。


 それでも実際に部隊を指揮している以上、油断するべきではない。というか、そもそも油断しなくても、僕ごときの戦闘技術で勝てるかは怪しい。


 でも、戦う前から僕が諦めてしまっては、今も下で戦っている人たちに申し訳が立たないじゃないか。最近発現した僕の魔法――白い光の力――が、この吸血鬼に対しても効果が抜群だというのなら……適材適所だと割り切るしかない。


「えっと……障害? 僕ってそんなに強そうに見えるかな?」


 叫ぶほどの力は無かった。叩きつける雨風に負けぬように踏ん張りつつ、なんとか立ちあがって、屋根の縁に立つ少年へ声を掛けた。


 特徴的な長い黒髪の隙間から覗く、その長い耳がちゃんと僕の声を捉えたのか。そうなのだろう。


「いえ、全く」


 不思議とこちらへとすっと届いてくる声。随分と落ち着いている。少年の口から漏れ出るは、否定の言葉だった。それには続きがあった。


「――ですが、この局面でたった一人吸血鬼に向かってくる魔人が、タダモノだと油断する方が無理というものです」


 なるほど。自分の頭の角を軽く触る。吸血鬼……彼はいま、自分でそう認めた。

 それを証明するかのように……彼の背中へと集まり、翼を形作る黒い炎。

 ジュワッ、と彼の周りの雨粒が蒸発する音。


 レンドウによれば、それは緋翼ひよくと言う魔法物質らしい。


 ――どうしてって名前を冠するんだろう。

 黒いのになぁ……とは、以前から考えていた疑問だ。


 彼は、レンドウよりもその力の扱いに詳しいように見受けられる。

 その精神状態は安定そのもの、身体にも傷の一つもない状態で、しかし彼は緋翼を意のままに操ってみせる。

 この手の体内から沸き起こる光の魔法って、必ずしも宿主の危機に応じてのみ立ち上る能力という訳でもないのか。

 じゃあ、僕もいつかはそうなれる……?


 周囲の雨粒を蒸発させるような熱量は、レンドウのそれにはなかった性質だ。傷つけてしまいそうだからレンドウには言えないけど、もしかしてレンドウよりも格上の吸血鬼なんじゃ……。


 それをゆっくりと羽ばたかせるように波打たせると、彼は見るからに安定した様子でこちらへと歩みを進める。きっと翼のお蔭なんだ。


「ずっ、ずるい……」


 思わず、そう漏らしてしまう。なにそれ。すっごく安定してるじゃないか。僕は直立しているだけで精一杯。足も身体も、恐怖と寒さにガタガタと震えざるを得ないというのに。


「では」


 それが、攻撃開始の宣言だったのか。


 彼が左手を振るうと、何もなかったはずの空間に突如として現れた黒い塊――あれも緋翼なのだ、きっと――が、一瞬にしてこちらへと飛来する。


 ジュワァァッ!!


「うっ!?」


 それをショートソードを鞘走らせて、なんとか迎撃した。


 防げた、それを喜ぶにはまだ早い。相手は、きっとそれを放つことで体力をほとんど消耗しないんだ。それを、僕はすぐにこの身をもって知ることとなった。


「はっ、ふっ――」


 小気味いいとさえ言えるテンポで、吸血鬼は両手で代わる代わる、先ほどと同じものを投げ続ける。


「ひっ!?」


 背中で蠢く翼だけでなく、飛ばしてくるそれ自体もかなりの高熱なのか、雨を蒸発させながら飛来する黒い塊に、身体が竦む。


 だって、ジュワアア!! とか恐ろしげな音を立てる物体が立て続けに向かってくるんだよ!?


 剣が折れることを心配する程の熱量では無いにしても、無尽蔵に飛来するそれらを防ぎきることは不可能。腕や足、胴へいくつもの弾丸が命中する。


「ぐうっ!」


 思わず後退しようとする身体を押しとどめなければ、そう思った時にはもう、バランスを崩してしまっていた。一度転んでしまうと、僕の身体はたちまち屋根の傾斜に従って滑り出す。仰向けの状態のまま、なんとか身体を起こそうと膝を立てるが……。


 まずい、これは本当に……!!


 情けない格好のまま屋根の端も端、落下防止の出っ張りに足を掛けて、ようやく止まることができた。それでも首だけは巡らせて、吸血鬼から目を反らさないようにはしていた。


 彼は翼を高々と展開したまま、左右に向けて傾斜している屋根の頂上部で、服の下に巻きつけるように格納していた鎖を解き放つ。


 今まで緋翼を単体で飛ばしてきたのは、あくまで小手調べ。そう思わせる行動。彼の腕を伝って、その先端に刃が付いた暗器――鎖鎌くさりがまだ――に緋翼が絡みつき、自らの意思を持ったように立ち上る。まるで獲物を狙う蛇だ。


 ――そういう使い方もあるのか……!


 鎖鎌なんて、自分には一生上手く扱えないと思っていた。いや、鎖鎌に限らず、鞭もそうなんだけど。

 あの手の長くてしなる武器って、ともすれば自分自身を傷つけてしまいそうになるというか、自分の拳の延長線上にある剣や槍とは、次元が違うものだと思う。


 しかし、それに吸血鬼の支配する力を纏わせることによって……彼は腕が何メートルも伸びたかのような攻撃を繰り出せるようになるってことだ!


 彼がそれを横薙ぎに振るうと、放たれた矢のように漆黒のそれが僕へと向かって突き進んでくる。一直線だ。思うように動けない体勢ではあるが、これだけは手放さなかったショートソードを構えて、先端の刃を防ぐ……はずだったのに。


 その刃はぬるりとわずかに動いて僕の剣との衝突を避けると、あろうことかショートソードを起点として、その場で回転した。端的に言えば、ショートソードは鎖でぐるぐる巻きにされた。


 封じられた。


「なっ」


 しかもそれだけでは終わらない。僕がショートソードを捨てるという選択を取り、その柄から手を離そうとした時には既に。巻きついた剣の上にある刃が、僕へとその刀身を躍らせた。


 なすすべなく、歯を食いしばって僕の右胸に突き刺さった刃を見つめる。鋭い痛みを感じるより先に、まず体がびくっと震える。しゃっくりとした時のような感覚。


 だが、これはチャンスでもあるぞ、レイス。


 ……誰だよ、君。

 僕か。


 痛みに悶えるより先に、取るべき行動が解っていた。嘘。何も考えていなかった。反射的に僕は右胸に突き刺さる刃、それの付け根たる鎖を、両手でしっかりと握りしめていた。


 握りしめながら、遅れて思考する。なぜ自分がそんな行動に出たのか。

 相手からすれば、刃を抜いた瞬間より訪れる止めどない出血を抑えるための、時間稼ぎの行為に見えたかもしれない。


 でも、違う。違うんだ。

 これは反撃の一手。


 僕と吸血鬼の間に、今初めて一本のレールが通っているのだから。

 右胸から……鮮血よりも先に迸る白い光が見えたところで、僕は叫ぶ。


「いけええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!」


 純白の光が、右胸に突き刺さる凶刃を包んだ。それは一瞬で勢力を広げ、瞬く間にショートソードを飲み込み――鎖を伝い、吸血鬼の手元までを自らの色に染め上げていく!


「……なっ、これはっ!?」


 吸血鬼の元まで、空間を裂くかのように伸びていく光の線。それを何らかの脅威と捉えたか、吸血鬼はその場から勢いよく飛び立つ。飛び立ちながら、回転。身体に巻きつけていた長い鎖を、開放していく。


 その回転ショーが終わった時、純白の光はもう、吸血鬼の身体にうねる触手を伸ばし始めていた。僅か六、七秒程度で己へと到達したそれを振り払うかのように、吸血鬼は鎖を外し、脱ぎ捨てたのか。


 光はあくまで鎖に巻きついていただけ。吸血鬼の身体へは一歩届かず、悲しげ(そんなはずはないのだが、そんな印象を持った)に光の触手を納め、鎖と共に地面に叩きつけられる。そして、まるで空気に溶けるように霧散した……。


「うっ……はぁ」


 起き上がると、切れ味鋭い刃は右胸からするっと抜け落ち、屋根に突き刺さった。が、僕の右胸からは大した出血は無かった。既にほぼ塞がりきっている傷跡を眺め「うええ」と漏らしてから、空高く飛ぶ吸血鬼を見据える。


 我ながら、この治癒の速度はおかしいと思う……。

 レンドウと初めて戦った日、僕は一体何に目覚めたんだ。


 ……今ので感覚は掴んだ。レンドウの真似をして、両手を胸の前で組む。「フゥ」と息を吐きながら、内なる力がそこに集まるようイメージする。


 吸血鬼はこちらを警戒した様子で、その黒き翼をはためかせながら、少しずつ明るさを取り戻してきた空の手前で、逆光になって浮いている。あの曇天の向こうでは、太陽が輝いているのだろうけど。

 お願いだから……少しでもいいから差し込んでくれないかな、希望の光。


 そう思っていると、両手の中に温かい力を感じた。それは決して熱過ぎない、優しく包み込むような力の奔流。


 ――よし、これなら多分いける。


 この力を実験・訓練するはずだった日に、まさか実戦投入することになるだなんて想像もしていなかった。


 両手を開放すると、その中に湧きだす、光の塊。

 自分の身体を自分で傷つけなくても、意志だけで生成することができた。


 ――さっきのやつ、お返しするよ……!


 それを、相手の吸血鬼の真似をして、交互に投げつけた。


「――ッ!?」


 相手が狼狽するのを感じる。直ぐに翼を振り回して、斜めに上昇しようとする彼だけど、僕はその光の塊を“まるで手の中にあるように操れる”ことが解っていた。何故か……その力を振るいながら、それを理解していた。


 吸血鬼の少年も、恐らくそれを察したのだろう。両手に緋翼を纏わせて、自分を追尾するそれを打ち払わんとする。


 そして、漆黒と純白が交錯する。


 次の瞬間、吸血鬼の腕の先で何かが爆ぜた。それは黒とも白ともつかぬ、色で表せようもない爆発。しかし、不思議と音は無かった。その爆発を、僕の目が捉えたのかどうかも定かではない。


 ただ一つ言えることは……その爆発と共に、吸血鬼の背中にあった翼も、暴風に煽られるように呆気なく霧散したということだけ。

 僕の元まで吹き荒れた風が、髪の毛を右から左へと撫でつけた。濡れた髪が鬱陶しいことこの上ない。


 吸血鬼の緋翼が焼失した。


 ――すると、どうなるか。


 落下だ。世界に見捨てられたように、この星の意思に叩き潰されるように、彼の身体は重力に絡め取られる。


 驚愕の中、じたばたともがく彼に追い打ちをかけるように、背後の雲が裂ける。何故、このタイミングで。


 まさかとは思うが……僕が投げたもう一つの光、それが天へと吸い込まれたことに、関係があるのだろうか。考え過ぎかな……?


 先ほどまで唸りを上げていた雷鳴がまるで黙らせられたかのように、雲の裂け目は次々と広がりを見せ、世界に陽光を伝える。


 その輝く光の中、吸血鬼は地面に激突した。

 僕は、吸血鬼に太陽が別段効果的ではないことを知っている。族長さんから直接、その秘密を聞いたんだ。……彼はどうなのだろう。


 屋根の縁に足を掛け、排水パイプを伝って下の階へと滑り降りていく。足が土を踏みしめた時も、未だに吸血鬼が立ち上がる様子は無かった。


 それに近づいて行くと、苦悶の……それに加えて驚愕の表情を浮かべた吸血鬼が、僕を睨みつけていた。


「こ、こんなこ、とが……」


 彼は今も、緋翼に呼びかけているのかもしれない。

 きっとそうなのだろう。


「治癒が……き……ない……。……なぜ……」


 自らが絶対の信頼を置いている力が突然封じられたら、どうなるか。

 百戦錬磨の吸血鬼と言えども、まだ子供に見える。


 驚愕に身が竦んでいる間に、レンドウの時のように気絶させてしまいたかった。

 しかし、彼に近よって急所を叩こうと、速足になった僕の足を止める声。


「――ジェノ様をお守りしろっ!!」


 振り返ると、その言葉と共に僕を取り囲むように駆けてくる白い鎧の群れ。

 その数、六名。


 ――しまった、もう敵が!


 先ほどまでの僕らの戦いは、やはり注目の的だったのか。

 敵も味方も、こちらの様子を窺っていた。そういうことなのだろう。


 まずい。僕は吸血鬼に対して謎の特効薬とも言える力を持っている訳だけど、それ以外の相手に対しては並みの戦力でしかない。しいて言えば、謎の力のお蔭で死ににくいくらいだろう。


 ぬかるんだ地面を踏みしめ、泥を跳ねながら僕へ肉迫する鎧の兵士。

 その手に持った槍が僕を貫く……!


 ――ことは無かった。


「オっ……!?」


 血を吐き出すような声。


「――うわあああああああああああああああああああああああああ!!」

「らっ、ラルフゥゥゥゥッ!!」

「……ラルフ……」


 そして、悲鳴。

 白い鎧の兵士たちの……仲間を呼ぶ、悲痛に満ちた声。


 僕の手前で止まった槍。その先を目で追えば、鎧の眼だし穴、そして首元の継ぎ目から鮮血を溢れ出させる兵士が見えた。その体がくずおれると、背後に立ち尽くす、赤い髪の少年が現れる。


 本当に、立ち尽くす、と表現するしかない出で立ちだった。

 力なく垂れ下がる左腕。緊張している様子は一切見受けられない。

 右腕だけが、眼前に立っていた鎧の兵士を何らかの手段で屠った、そう思わせるように、宙を切り裂いたような位置で固定されていた。


 その人物の名を、僕は震える声で呼ぶ。


「レ、レンドウ……?」


 どうして、僕の声は震えたのか。

 彼が顔を上げた時、その理由の一端が見えた気がした。


 ――黒い。


 ただひたすらに、黒いと感じた。おかしい。彼の髪は真っ赤に染め上げられ、その防刃コートのどこにも、暗い色など含まれてはいないのに。


 太陽をあれだけ嫌っていた彼が、それを意識すらしていない様子で、白日の下にその面を晒す。それを見た鎧たちは、皆一様に恐慌状態に陥った。


「ヒ……ヒィィ!!」

「なんなんだっコイツっ……」


 何も言えずに、ただ尻もちを着く者もいた。


「……レンドウ、ですって……………………?」


 その中で、背後で吸血鬼が漏らした一言が……頭にこびり付いて離れない。

 君は……知っているのか。レンドウという名前を。彼を。


 だけど、その当人。赤い髪の少年は、自らに向けられる様々な感情に拘泥こうでいする様子は無く、ただ。


 獲物を前にした猛禽類のように、無感情に、そこに在るだけ。

 ぎちり、とその牙が打ち鳴らされる。


 僕は、彼が彼であることを確認したい一心で、今一度その名を呼ぶ。


「レンドウ……?」


 ――答えは無かった。

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