第1話 緊急事態
エマージェンシーコールで目が覚めた。
がばっと飛び起きた。もう慣れたものだ。飛び起きるのには慣れているが、この沈み込み。低反発すぎてあまり居心地のいいソファじゃないな、これ。自分の体重のせいで沈み過ぎているだけとは思いたくない。
――ところで、どれくらい眠っていたのだろうか。関係ないか。どれだけまだ寝足りなくたって、二度寝するわけにもいかないんだろうし。
「レイスさん!」
僕をそう呼びながら部屋に入ってきたのは、年の頃十四、十五といった具合の少女。澄んだ水色の長い髪が特徴の少女だ。名前はリバイアという。緊迫した様子だ。
汗でおでこにへばりついた髪をかきあげ、壁に掛かっていた白いロングコートに袖を通しながら、「状況は?」と問う。状況が分からなくても、とりあえず外出準備はしておく。どうせ出ることになるだろうと思ったから。で、ほとんどの場合それが正しい。
「平和記念公園に、吸血鬼が出没しています!」
「吸、血鬼……」
レイスは呻いた。最悪の相手だ。
夜の眷属、支配者、使役者。数多の文献で人間たちを苦しめてきた、超種族だ。
ついにこの時が来てしまったのか。できるのか、僕に。
「和解するのは大変そうな相手だなぁ」
そんなことを呟くレイスに、何か言いたそうな顔をしたリバイアだが、どうやらそれは飲み込んだようで、事務的な報告を続ける。「現在、対策班四番隊が現場に急行しています。通報者とは既に連絡が取れない状況です。対策班番外隊員A≪レイス≫さん、出撃してください」
「了解!」
コートの裾を翻しながら研究室を飛び出し、走り出したレイス。
向かう先は地上へのエレベーター。面倒な移動だ、とレイスは今日も思う。レイスとしては即座に出動できるように基地の入り口近くに駐屯したいのだが、自分を取り巻く環境は複雑ゆえに贅沢は言えない。
不平不満を零すより、周りからの信頼を勝ち得ることが先決だ。
エレベーターに乗り込み、二十階上へと行先を決定する。研究室の主に書置きでも残しておいたほうが良かったか、などと考えていると、ドアが閉まる前にパタパタという足音と共にリバイアが駆けてきたので、開けるボタンを押して待つ。「あれ」とだけ言って待つと、息を切らしながら駆け込んだ彼女は言う。
「遅ればせながら、対策班番外隊員B、≪リバイア≫、出撃します!」
「出撃許可、出てるの?」
と問いかけると、
「いえ」
しれっと答える少女。
「駄目じゃないか……」
レイスは後ろ頭を掻いた。
リバイアはつーんとそっぽを向いた。
「いいんです。どうせ懲罰なんて口だけで怖くないし、いつもよりちょっと多めに血を抜かれるくらいどうってことないですよ」
少女の健気な様子に、レイスは胸が痛くなった。
痛々しくて見ていられなくなるんだよ。今も彼女の袖の奥には、癒えるよりも早く増えていく注射の跡があるんだ。
この場所で生きていく上でそれは仕方のないことだ。そう思って心を落ち着かせるしかない。何故なら、今日の相手は余計なことを考えながら戦える相手ではないから。
「私、何が起ころうともついていきますからね!」
こうなったリバイアはとても頑固だ。説得は難しいだろうし、とにかく時間が惜しい。レイスはどうしようか考えつつ、とりあえずエレベーターを発進させた。
――お気楽すぎたのかもしれない。
この先起こることへの覚悟が。心構えが。
少々どころでなく足りなかったと、後々後悔することになるとも知らずに。
* * *
レイスとリバイアが≪ヴァリアー≫魔物対策班四番隊が向かったという場所……≪無統治王国第二国立平和記念公園≫――有って無いような国家に、国立などとは笑わせるが――に到着した頃、事態は一見、既に沈静化しかかっているように見えた。
「……シッ!!」
全身黒服。暗殺部隊の一員かと思わせる風貌だが唯一、その髪色が目を引く。
金髪の少年……
ダクトは極端な前傾姿勢で果敢に突っ込んでいく。黒光りするナイフを素早く突き出す。相手はこれを避けようとしたがかなわず、脇腹の肉を削ぎ落とされ、動きが鈍くなる。
そこで、少し離れた場所で静観しているようにすら見えた、ひょろりとした灰色の男が……突如として動きを見せる。数秒前までは怖気づいて棒になっているか、むしろ「あ、いたんだ」と思われそうなほど無そのものであった男だが、一度行動に移せば、存外に俊敏だった。動きに無駄がない。
男は両手の腕を、指を蠢かす。その全ての指から細く青い光線が放たれた。
細いが、甘く見てはいけないらしい。黒いローブの吸血鬼は、体中をその光線に当てられ、その場に頽れた。
しかし、灰色の方の人物は構えを解かない。
ダクトはそれを見ると、警戒を緩めずに倒れた吸血鬼へと近づく。ゆっくりと。
「こいつは――大丈夫、もう気絶してる」
倒れた吸血鬼のフードをあげて、顔を確認するとダクトは言った。
「来てくれたんだな、レイス。それに、リバイアも!」
「……感謝する……」と灰色男。
礼を言うダクトと灰色男に、いや、ごめん来るの遅かったよね、と言いながら、レイスも吸血鬼に近づく。
「で、どうすんだこいつ」
ダクトがレイスに質問した。
「どうするって?」
「……だぁからよ、こいつもアンタお得意の話術でこっちに引き込むのか、って訊いてんだけど?」
間延びした東部訛りのある口調で、少しだけ苛立ちを滲ませつつダクトは言った。
レイスは驚愕の面持ちになる。
――まさかそれが、君の口から出るとはね……。
「君は人間じゃないか。君こそ、いいの? 仮に僕がこの吸血鬼の子を勧誘したとして、君は吸血鬼に背中を任せて仕事が出来るの?」
う、とダクトは言葉を詰まらせる。
「そりゃあ、いつ裏切られるとも分かったもんじゃねぇ化け物に背中を任せるのは嫌だけどよぉ」
吸血鬼を化け物、とダクトが評したところで、レイスは表情を暗くした。
「でもよ」
しかし、ダクトの言葉はそれで終わりではなかった。
「俺は自分の目の前で死人を出したくねぇんだよ」
――え、あ、じゃあつまり?
「俺は……んん……あぁ――なんつぅかな。こいつらはどう見てもバケモンなのによ、何故か死んでほしくないって思っちまうんだよ。綺麗事だってのは解ってるけどよ。大体、俺達の仕事は守ることであって、殺す事じゃねぇだろ」
ダクトの演説には確かな力が籠っていた。
レイスはにやけ面になりそうな自分を認識し自戒を試みつつ、
「そう――安心したよ、ダクト君がいつまでも良い子で」とだけ言った。
「ハァ!? ちがっ……よ馬鹿じゃねぇーのか! 仕事だよ仕事! いや、仕事めんどいんだよ! 任務で守れっつってんだからわざわざ相手を殺さなくてもいいだろ!? 俺は守るもん守ったんだ、これ以上働くのはめんどいんだよ、そうっ、つまりはそういうことだ!」
――照れ隠しで口数多くなるって大変だね。
そこで、リバイアが灰色男に話しかけているのが聞こえた。
「他の二人はどうしたんですか? 確か、四人の分隊でしたよね?」
「奴らは……そいつに倒されたのだと思う。死んではいないだろうが」
その言葉に、レイスが反応する。
「まさかとは思うけど、噛まれてはいないよね」
噛む、とは吸血鬼による吸血行為のことである。
吸血鬼は生命維持の為に、人間を捕食する。とても鮮やかな手口で、辺りを汚すことなく、静かに食事を終える。彼らは人間の首の付け根あたりに噛みつくと、巨大な犬歯の先から獲物の血液を吸い取り、また、自らの体内にある血液を獲物の体内に入れると言われている。
――血液の取り換えだ。
吸血鬼はそうして、全身に新しい血を手に入れる。
血を吸われた人間は吸血鬼になる……なんて伝承がある国もあるらしいが、なっていたとしたら、とっくにこの世は吸血鬼だらけだろうとレイスは考えている。
血を入れ替えられた人間は死に至り、その死因は酸欠である。吸血鬼の体内で変質した血液は、酸素に干渉することができない。吸血鬼は、酸素を吸って二酸化炭素を排出する生物ではないからだ……とされている。この説は百年以上昔に提唱されたものであり、現代においては眉唾物だと考える者も多い。
人類は吸血鬼という生物について、あまりにも無知であった。
「いや、噛まれちゃいねぇ。どっちかっつーと、ビビって逃げたんじゃねえかっていう。あいつらの今後の身が心配だぜ」
首を横に振ってから、クビ切りのジェスチャーをしながらのダクトの台詞だ。
――ていうか、吸血鬼相手に四人はないでしょ。僕的には十人いても足りないくらいだと思う。
とレイスは思うが、口には出さない。
二人には失礼かもしれないが……いや、やっぱり失礼じゃないかもしれない。吸血鬼という存在に二人で打ち勝つことができるなど、通常であれば「当たり前に不可能」なはずだ。
「君達はなんで逃げなかったの?」呆れ半分に問うと、
「……勿論、民間人を守るためだ」と灰色男。
灰色男の言葉に胸を打たれたレイスは、即座に幼稚な自分を恥じた。
「ごめん!! 「当然、仕事だからだ」とか言われるかと思ってた……!」
レイスの灰色男のモノマネは無駄に似ていた。それを聞いていたリバイアが噴き出した。
「……別に……いいがな」
灰色男は無口という訳では無いが、あまり長い文章は喋らない。
だが、彼の“人間性”は、目を見張るものがあった。
他人の為に動くことのできる人。それこそ、レイスが求めている人材であった。
でも、とレイスは思う。
――自分が好きだとか求めているとか、そんな理想で、全てを解決していい訳じゃない。
――この倒れている吸血鬼にだって、僕は人間の良さ、魔人の良さを説いてみせる!
レイスは決意を新たに、仲間達を見渡す。
「じゃあ、とりあえずこの吸血鬼さんをもっと広い場所に寝かせておこう」
と、吸血鬼を肩に担ぐ。
――思いの他、軽いなぁ。
「連れて帰るわけにもいかないですしね」
とリバイアも同意する。
吸血鬼を拘束しようが、人間の技術で牢屋に入れようが、簡単に抜け出されることは解りきっている。
だからレイスは、武器を収めて、吸血鬼と対等な立場で話をしてみようと考えたのだ。
だが。
「――何やってやがんだ、ゴミども」
新たなる声の出現に、ダクトは素早く武器を構えた。灰色男は素手……いや、夜の闇で分かりにくかったが、黒い手袋のようなものを身に着けてはいた。得物を使わないのではなく、彼にとってはそれこそが武器なのだ。
公園は暗く、街灯の僅かな明かりを頼りに声の主を探すが、とても見つからない。
「なにもんだ?」
と、ナイフを構えたダクトが言うのを待っていたかのように。
「バケモンだ」
声の主の姿は、やはり見えない。
が、カランカラン、と。
黒銀のナイフが地面に落ちて、乾いた音を立てた。
「ダクト君!」
レイスの叫び声も虚しく、ダクトは突然の闖入者によって蹴り倒されていた。
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