「私に優しくしないで!」
嫌そうな顔を隠そうともせず、黒い長袖に腕を通した亜美さん。待ち合わせより2分遅れでこちらに歩み寄ってくる。
「亜美さん、こんにちわ」
「うん。あのさ、あの子と付き合ってるのにこういうの良いわけ?」
「許可もらってるんで大丈夫です。でも、申し訳ないんで早く仲直りして終わりましょう」
みゆりさんと電話した日から二週間とちょっと。まだ亜美さんが距離を置く理由も分かってないけれど、躊躇してちゃ距離は縮まらない。俺は早速握手を求める。
人が行き来する街中で握手を求める奇怪な絵。カフェで食事でも、と思ったが帰ってきた答えは突き放す言葉。
「別に喧嘩してるわけじゃないでしょ。それに、あの子の彼氏と仲良くすることは出来ないから」
半強制的に取り付けた亜美さんとの約束。ここで成果をあげられなければ打つ手が無くなってしまう。
「じゃあせめて冷たくする理由ぐらい教えてもらってもいいですか? 俺、亜美さんに何かしました?」
「君は何もしてないよ。私が変わっただけ。だから君は私なんかうざい奴って思いながらあの子と一緒に遊べばいい」
彼女の言葉で、俺を敵視する理由が分かった。亜美さんは俺に嫉妬してるのではないだろうか。亜美さんとみゆりさんは互いに信頼し合っている。それこそルームシェアするほどなのだから。
休日が重なれば二人でどこか出かけることだってあったはず。その楽しい時間が、ぽっと出の俺に奪われて嫌なのかもしれない。
となると、やってることは俺と
「ごめんなさい。俺のせいだったんですね。みゆりさんを独り占めするのはよくなかったです」
私が変わったっていうのは、やきもちを焼いてしまったってこと。そう考えれば、急に冷たくなった理由とも辻褄が合う。
「違う、違う。どう考えてそうなった? 何もないから、私に構わないでって意味。帰っていいかな?」
イライラを隠そうともしない亜美さんに狼狽える。俺が言えたことじゃないけれど、この人もそれなりに面倒臭い。俺に嫌われようとしているみたいでどうも感情が読み取れない。
「ちょっと待って下さいよ。話合ったら分かりますって」
「話すことなんて何もない。もう一回だけ言うよ。私に構わないで」
亜美さんはそう言って俺を睨む。彼女の目は細いけど、ここまで直感的に睨まれたと感じたことはなかった。一歩踏み出すのが億劫になるほど、視線の圧は強かった。
亜美さんは身を翻して歩き出す。でもいつものような男らしい歩き方じゃなく、フラフラしていて頼りない。俯きがちに歩いているからか、通りすがりの女性とぶつかってしまう。
「ハンカチ落としたよ」
ぶつかった女性は文句も言わずに亜美さんの落としたピンクの色褪せたハンカチを拾い上げた。そのハンカチはみゆりさんから貰ったものらしく、くたびれた姿は長年大切に使っているところが見て取れる。
「このハンカチって……
「ねぇ?」と、女性の後ろに控えていた二人に同意を求める。豚子って……人につけていいあだ名じゃないだろ。そうは思ったけど、彼女の睨みが脳裏をよぎって、足は動かない。亜美さんは怯えたように3人を見つめている。
「成人式でちょっと見かけたぶりじゃん。めっちゃ痩せたね」
「あー、
少し遠くて聞こえにくい話し声を、聞き耳を立てて逃さんとする。3人は枯れ果てた思い出話に花を咲かせている。
何も言い返さない亜美さんに違和感を覚える。怯えたようにハンカチを奪い取とる姿は、肉食動物に必死で抵抗する小動物のよう。
「そうだ、右腕見せてよ。治ったの?」
ぶつかった女性の一言に亜美さんは長袖の裾を押さえる。今思えば、亜美さんは出会った当初から常に長袖を来ていた。水着の時も足は見せていたのに、腕はジャケットで隠していた。今日も飽きもせずカジュアルなコーデ。夏が終わったとはいえジャケットは少しフライング。
「まだ治ってないんだ。じゃあ一生の傷モノだね」
嘲笑いながら亜美さんの腕を引っ張って、裾をあげようとする。気持ち悪い。亜美さんは声も出さずに抵抗している。気持ち悪い。後ろの二人も嘲笑しながら見下している。気持ち悪い。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
亜美さんが嫌がってるだろ。
やっと動いた俺の足は徐々にスピードを上げていく。4人の元に追いつくと、俺は掴まれている亜美さんの腕を取って、女性の手から引き離す。
「亜美さん。行きましょう」
急に乱入してきた俺に3人は呆気に取られて声も出せていない。
「ねぇ、ちょっと待って。いいから」
十歩ほど歩いたら、やっと亜美さんの声が聞こえてきた。それでも俺は足を止めない。亜美さんのためじゃなくて、視界にアイツらを入れたくない俺のため。俺たちは人のいない小さな公園に逃げ込んだ。
「何があったんですか?」
険悪な空気だった。それは間違いない。でも、亜美さんと3人の関係はわからない。助けなんて求められてない。けれど、俺の足が動いたのはあの瞬間だけ。
「君に言う必要ある? 本当に最悪。来なきゃ良かった。本当に……最悪……」
震えた声で、震えた手で、何かに怯えたように背中を丸める。わからない。亜美さんの気持ちがなに一つとして理解できない。あの状況から助けてあげたのに、なぜそんなこと言われなければならないのか。
「大丈夫ですか?」
「まだ分からない!? 私に優しくしないで! 私に構わないで! 何もないって言ってるのにどうして深掘りしてくるの? 大っ嫌い! ほっといて、大丈夫だから!」
怒鳴りと叫びが毛玉みたいに絡まり合って、亜美さんの口から吐き出される。どう見たって大丈夫じゃない。大丈夫な奴は、孤独で怯える瞳なんてしない。亜美さんの顔は、ハメ撮りを見た時の己の表情と同じだった。
どこを取って大丈夫なのか。嘘みたいに強がって、この期に及んで突き放す彼女に腹が立つ。
「何もないならなんで突き放すんですか。何もないなら優しくしたっていいでしょ。構わないでなんて言わないでくださいよ」
無意識に口調が強くなっている。けれど、強く言ったところで何かが分かるわけでもない。
「君とあの子は同じだね。優しさで人を傷つける」
彼女はそう言って右腕の袖をまくる。そこにあったのは、恐ろしいほどに大きな古傷。5センチほどの大きな切り傷が一本、見える限り、少なからず肘までは続いていた。
傷口は閉じているし、もちろん血だって出ていない。なのに、傷の大きさと血色の悪さが痛々しさを伝えてきて声が出せない。みゆりさんが電話で言っていた亜美さんの知られたくないこと。それはきっとこの傷だ。
「もう帰るね。君の言うとおり、私は大丈夫じゃない。でも、大丈夫だから」
なにも言わず、なにも語らない。けれど、俺を黙らせる。彼女の強さに屈服する。だが、俺の武器は優しさ一つ。去り行く彼女に一言だけ。
「いつでも呼んで下さい。絶対、力になりますから」
彼女から返事が来るまであと5時間。
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