「私のこと、好きにしていいよ」

 彼女に振られ、みゆりさんと出会った翌日の金曜日。目を覚ますと一件のメールと電話が送られていることに気付いた。送り主は山内。俺から芽依花めいかを奪った人物。嫌な予感がするけど、見ないわけにもいかず、動画を再生した。


 その動画を見て俺の眠気は吹き飛ぶ。言ってしまえば叡智な行為のビデオ。芽依花の服は乱れていて、山内の太ももらしきものと男の急所が映っている。


 そして、芽依花は人様に見せられない顔をしながらカメラ目線で笑って、山内の汚物を触っている。


「なんだよこれ……」


 わざわざ俺に見せてくるという性格の悪さも腹が立つけど、俺と別れて初日ってことが酷く気持ち悪い。


 俺は半年付き合って、そういう空気にすらならなかった。それは俺の力不足だろうし、山内の凄い部分であるのは間違いない。だからこそ、俺の半年は彼の一日にも満たないのだと思い知らされる。


 自分の無力さが恥ずかしい。尚もループする地獄絵図が自己嫌悪にいざなう。芽依花も芽依花だ。イケメン相手なら一日で股を開くのか。


「いやいや、芽依花は悪くないだろ……」


 そう呟き、自分に言い聞かせる。山内が好きなんだ。断れるわけがない。そもそも山内だって悪いのか? 動画を送ってきたのは絶対悪だとしても、今時のイケてる奴なんて一日で成果を出すのが普通なのかも知れない。


 じゃあ、この怒りは一体どこに向けられたものなのか。そんなの、考えなくてもわかる。何も出来なくて、何も持ってない無力な自分へ向けられた侮蔑。


 学校には行きたくない。こんなの朝っぱらから見せられて学校に行きたいやつなんかいるか。


 けれど、親に言えるわけもなく、とりあえず制服に着替えて家を出た。「どこ行くの?」と言う母の問いには「学校に決まってるだろ」と頭の中で返事をしつつ扉を閉めた。


「…………どうしよ」


 悲しいわけじゃない。苦しいわけでも辛いわけでもない。ただ、自分がひどくちっぽけに思えてくる。昨日の今日だぞ。辞めてくれよ。思い返すだけで目頭が熱くなる。


 俺はクソみたいなプライドだけで涙を堪えた。泣いたら本当に何一つ勝てなくなる。みゆりさんのおかげで前を向けたじゃないか。


 下唇に歯を突き刺す。涙だけは流さまいと。それでも、無慈悲にも雫は頬を撫でた。


「違う、違う。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。悔しくなんかない。悔しくなんか……」


 ––––ないわけない。結局、俺には何も無かった。男としての魅力も強さも、人としてのプライドも。山内に限らずだけど、他の人と比べて劣っていると身に沁みて分かるのが悔しかった。


 トボトボと歩く。一歩が重いのに、体はやけにふわふわしてる。徹夜した日の感覚。「背負い込みすぎないでね、待ってるから」と、彼女の声が俺の体を引きつける。


 今日は平日。こんな時間から押しかけたら迷惑に決まってる。そもそも仕事だろ。分かってる、迷惑だってことぐらい。でも、今の俺には


 脱力しきった指でインターホンを押す。みゆりさんに迷惑をかけたくはないけど、このままじゃ自己嫌悪でおかしくなりそうだった。三十秒かそこら、返事は無かったけどドアが開いた。


「晴人くん、どうしたの? 何かあった?」


 出てきたのはみゆりさん。彼女は昨日よりもずっと俺を心配した目で見てくれている。みゆりさんの顔を見るだけで、少し心が楽になる。俺は「すみません」と一言、くたびれたように笑顔を向けた。みゆりさんは俺の手を引いて家の中まで入れてくれる。


「あの、仕事って……?」


「今日は祝日だよ。本当に大丈夫?」


 そっか、今日は祝日なのか。確かに次の日が学校なのに山内たちはあんなことしないか。母のどこ行くのって質問も筋が通る。祝日と言うことすら気づかないなんて、どこまで視野が狭まっていたのか。


「亜美さんは……?」


「大学は祝日も授業の時があるの。それより、どうかした?」


 何度も聞いてくるが、急かすってよりは心配が勝っているよう。この家でみゆりさんと二人きり。それなら、あの動画を見せてもいいんじゃないか?


 どうせ嫌がらせで送られてきたものだ。好きに使わせてもらう。俺は何も言わずに動画を見せた。見たくもなかったけど、見たところで何も変わらない。


「これ、俺の元カノなんです」


 何言ってんだ。だから何だよ。何がしたいんだ。つくろって、無理やり口角を上げる。本当にダサい。こんなことしか出来ないのかよ。


 自嘲する俺を、みゆりさんがギュッと抱きしめる。やっぱり見透かされてる。俺が欲しいのは言葉なんかじゃなくて、だけど行動ってわけでもなくて。ぐちゃぐちゃで無茶苦茶なそれごと、みゆりさんは包み込んでくれる。


「私のこと、好きにしていいよ」


 甘い言葉が鼓膜を溶かす。そんなこと言われて、性欲を抑えるなんて出来っこない。俺はみゆりさんをソファに押し倒してしまった。


 ミントの匂いがより一層近くなって、驚くほど近くに彼女の顔がある。それでもみゆりさんは嫌な顔一つせず、全てを受け止めるみたいに笑ってる。


 けれど、その目は悲しげで、昨日と同じような底知れない悲痛の目をしていた。おかげで我にかえる。今、みゆりさんとそういうことをして一体何になる?


「ごめん、なさい……取り乱しました」


 俺はソファから降りようと足に力を入れる。でも、みゆりさんはそれを阻止するみたいに俺の首に腕を巻き付けて、そっと抱きしめた。顔が胸部に埋まり、ゆっくりと刻む心音が聞こえてくる。


「みゆりさん……」


「晴人くんは本当に優しいんだね。甘えていいんだよ」


 背中をさすって、頭を撫でてくれる。ここまでしてくれる人、傷つけられるわけがない。撫でる手は赤子をあやすように優しくて、子猫を愛でるような温もりがあった。


 1人が寝転ぶので精一杯のソファで、みゆりさんと重なり合っている。彼女の優しさが余計に自分の弱さを引き立てる。泣きついて、慰められて、抱きしめられて。


 ずっと、ずっと、こうしていたい。ぬるま湯のような、冬場のこたつのような安心感。だけど、その何倍も心地いい。


「みゆりさん……俺、ずっとみゆりさんといたいです」


 涙を堪え、鼻声で願望が漏れ出る。きっと、自分でも分からないぐらい、みゆりさんを信頼しているのだ。


「そっか。大丈夫、私はここにいるよ。明日、一緒にどこか遊びに行こっか。明後日も、来週も、大丈夫。私がいるから」


 「大丈夫」と繰り返す声は宥めるように柔らかい。俺にはみゆりさんがいてくれる。芽依花めいかとか、山内とか心底どうでもいい。だって、俺には彼女がいるのだから。


「どこ行こっか? 遊園地でもいいけど、近くの公園もいいなー。映画も見てみたいしスポーツテーマパークも面白そう。一緒に楽しいことしよ」


 落ち着いた声音で、頭を撫でながらあやしてくれる。みゆりさんがいるだけで辛くない。胸のぐちゃぐちゃも、とうに過ぎた話になっていた。


「いいんですか?」


「私がそうしたいだけだから。それに、私も晴人くんと一緒にいたいの」


 なぜここまで言ってくれるのか。ただ俺みたいなやつを恋に落として楽しんでいるって感じじゃない。それぐらいわかる。


 でも、彼女の優しさは余りにも過剰。やっぱり過去に何かあるのかも知れない。


「明日の朝、またここに来て。きっと、辛いことなんて全部吹っ飛ぶから」


 俺を抱えたまま、みゆりさんは幸せそうな顔で笑っている。彼女の笑顔を見ていて気づく。俺は何も失っちゃいない。


 ダメだな。こんなに優しくされたら、惚れないなんて不可能だ。完全に立ち直った。もうあんな動画ぐらい何回でも見れる。


 俺とみゆりさんが寝転がっていると、女性の声が飛んでくる。


「嘘でしょ……押し倒すまでが早すぎる」


 2人して声の元に目を向けると、そこには大学から帰ってきたであろう亜美あみさんが立っていた。俺の様子がおかしかったせいで、みゆりさんは鍵を閉め忘れたんだ。


「違っ……これは……」


 否定しようとするが、押し倒したのは事実。なら、その罰は受けるべきだろう。みゆりさんだって傷ついていないって訳でもないはずだし。


「すいません。俺がやりました……」


「はぁー、わざわざ忠告したのに。ちょっとこっち来て」


 亜美さんは俺の手を取ると、自分の部屋らしきところに連れ込まれた。みゆりさんは何か言いたげだったけど、口にすることはなかった。


「何があったの?」


 亜美さんはみゆりさんとは違い語尾が強い。諭すのではなく問い詰めるみたい。俺は逃げたい気持ちにかられながらもここで起きたことを話した。


「へー、で、みゆりが好きになったわけ?」


 亜美さんの鋭い目つきに嘘をつく気も無くなって、首を縦に振る。


「明日、時間取れる?」


「明日はみゆりさんがどこかに連れて行ってくれるみたいで」


「はぁー、分かった。じゃあ日曜日。駅前のカフェに二時集合。来た方がいいよ。後悔することになるから」


 ここで言わないってことは、近くにみゆりさんがいる状況では言いにくいってこと。ぼかす言い方にも薄寒さを感じる。結局、「分かりました」とだけ返事してその場を去った。


 その後は亜美さんの提案で少しだけお茶することになった。亜美さんのトゲトゲしい言い方から2人は仲が悪いと思っていたが、そうではないようで、大学の話や上司の愚痴を笑いながら話していた。


 お暇させてもらうと、祝日特有の活気に溢れた街の雑音が耳を打つ。包み隠さず言おう。明日が楽しみだ。俺は昼下がりの空を見ながら、制服のネクタイをそっと緩めた。

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