「あの女を好きになっちゃダメだよ」
みゆりさんに連れられること30分。俺は新築の一軒家の前で立ち尽くした。これを社会人一年目で? 恐ろしい……。
「ひひっ、賃貸だよ。しかもルームシェアしてる」
俺の心を見透かしたように説明してくれる。そりゃそうだよな。みゆりさんは扉を開けてそそくさと上がってゆく。ルームシェアってことは他にも人がいるのか。
「お邪魔しまーす……」
玄関は湖のように綺麗で、白い靴やブーツが一列に並んでいる。香水もみゆりさんと同じミントの匂いがして肩がこわばる。
「んー? また誰か連れてきたの?」
奥から、またまた男っ気のある女性の声が聞こえてきた。早歩きでみゆりさんについていくと、リビングのテーブルに腰掛ける女性が一人。
「紹介しよう。こちら晴人くん」
「よろしくお願いします」
「へー、男子高校生は久しぶりだね……。私は
黒色のジャンバーに包まれた細い腕が差しのべられる。今時、握手って悪手だろ。なんて思いながらも手を握る。
黒髪ロングのぱっつんお姫様カット。微かに緑がかったカラコンと美しくも細い目は、どこか蛇を感じさせる。睨むような目つきで分かるが、絶対歓迎されてない。握手を終えると、机の上にあった財布をポケットに突っ込む。
「私、コンビニ行ってくる。それまでね」
なんの合図か、亜美さんはそう言って出ていってしまった。二人きりになると急に緊張してくる。俺、なんで家呼ばれたんだ。そんで、なんで着いて来たし。
「誰かを家に呼ぶことって多いんですか?」
「あー、少なくはないかな。困ってる人がいるとどうしてもね」
みゆりさんが席に着いたので、俺も近くにあった椅子に座らせていただく。連れてこられたからには亜美さんが帰ってくるまでは帰してもらえないだろう。
「本当にお優しいんですね」
俺が選ばれたたった一人だと自惚れていたわけじゃないが、数いる一人だと思うとほんのちょっと悲しい。でも、裏を返せばみゆりさんの優しさのたわもの。
純粋に尊敬したのだけれど、彼女は眉を下げて悲しそうに笑う。褒め言葉のはずなのに、傷ついているみたいに下唇を噛んでいる。
「どうしたんですか?」
「私はさ、優しくなんてないんだよ、きっと。みんな、最後には私から離れてく。気付かぬうちに傷つけてる。そんな私が嫌いなの」
相談に乗ってくれていた時にくらべ、自分に自信がなさそうに見える。二重人格を疑うほどに、悲観的で、頼りなくて、守ってあげたくなる。
イタズラの仕返しはしたけど、コーヒーと励まし分の恩返しはまだしていない。なら、善は急げ。
「そのみんながどうかは知りませんが、少なからず俺はみゆりさんに救われましたよ」
笑顔という名のリップサービスもつけて彼女を認めてあげる。
「晴人くん、結構イケメンだ」
「急ですね……」
哀の表情はまだあるものの、コロっと表情を変えて唐突に褒めてくる。すっごい照れるし、苦笑いするしかないんだけど。
「違う違う、内面の話ね。外見もだけど」
みゆりさんは俺に向かって可愛くウィンク。なんだろう、この人と喋っているとすごく心地いい。俺を分かってくれている気がする。
「そんなこと言ったらみゆりさんなんてもう……一言で表せないですよ」
芸能人の中に混ざっていても遜色ない顔立ちで、性格は身近な女神。身長も高く、出るべきところは出ていて、引っ込むべきところは引っ込んでいる器用な体。完璧というのはこの人のことを言うのだろう。
「ありがとっ。また悩んだらいつでもここに来てね。待ってるから」
「はい、今日は色々ありがとうございました」
亜美さんが出て行ってから二十分弱。もうそろそろお暇させていただこう。礼をして、玄関に向かう。
靴を履くために段差に腰掛けた時だった。首に白く柔らかい腕が巻かれた。バックハグのような体勢だと瞬時に悟る。右耳からみゆりさんの吐息が聞こえてくる。やばい、刺激が強すぎる。
「背負い込みすぎないでね」
その甘い一言に、返事が出来なくて慌てて家を出た。一瞬だけ、恐怖を感じた。どこまでも堕ちていけそうな、そんな感覚。
けれど、どこまでも彼女の優しさが温かい。あれだけ泣いた後とは思えないほど落ち着いている。少し歩くと、亜美さんと
「晴人くん、今時間いい?」
「はい、大丈夫ですけど」
亜美さんに呼び止められる。この人ちょっと怖いんだよな。面と向かって立つと、焼酎の匂いが鼻を刺す。
「みゆりはどう?」
「どう、ですか。優しいですし、美人ですし、言うこと無いですよね。ちょっと思い詰めているところも健気というか」
気づけば早口になっていて、少し恥ずかしくなって口を閉じる。謙虚で誠実で、人に寄り添ってくれていて……あと原稿用紙三枚は余裕。
亜美さんの顔は真剣な顔をしていて、何を言うのか不安で構えてしまう。
「みゆりと一緒にいるの、心地いいでしょ、保護欲くすぐられるでしょ。あの子、男の子が好きになる要素全部持ってるからね。でも、やめておいた方がいい」
亜美さんは真っ直ぐ俺を見つめている。その視線は、獲物を狙う蛇のような、我が子に厳しく当たる鷲のような、そんな目。
「あの女を好きになっちゃダメだよ」
俺の返事も聞かないまま、亜美さんはビニール袋が擦れる音だけを残して去って行った。
帰り道、亜美さんの言葉だけを咀嚼できずに繰り返し考えていた。口調と彼女の目は意味ありげで恐ろしく、不安を積もらせる。確かに、家でのみゆりさんを見ていると、何かしら奥の部分で闇を感じた。だから、亜美さんの意見も一理あるようにも思える。
しかし、彼女の温かさは本物。夏の訪れを告げる最後の春風が、俺には少しばかり冷たく感じられた。
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