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「こんな空模様で鳴るのは、珍しいんですけどね」


 言い訳するように、瑠唯は呟いた。じっさい、晴れの日に雷が鳴ったのは初めてだ。


「はあ」


 逸見は瑠唯との距離を詰めていた先ほどと打って変わって、放心したようになっていた。早鐘のように鳴る心臓を抑えつつ、瑠唯は彼の脇を通ってキッチンから滑り出た。


「でも晴れてるから、もう鳴らないと思います!」


 取ってつけたような明るい口調で言って、瑠唯はダイニングを出ると小走りに玄関へ向かった。靴をつま先に引っかけると、扉を開けて家へと走る。急に走ったからだけではなく、息は弾んでいた。


「あら、おはよう」


 雨戸を開けていた祖母が、猛然と走ってくる瑠唯を見て、不思議そうに声をかけた。


「おはよう。――卵、もう採った?」

「まだだけど」

「じゃあ私、採ってくる」


 ほとんど立ち止まらずに、瑠唯は鶏小屋へ直行した。扉を開け放ちながら、寝起きの頭からスペイン語を絞り出し、構文を組み立てる。


「ガロ、ちょっと訊くけど」

「何だ、朝っぱらから。卵なら産んでおいたぞ」


 ガロがくちばしで示した先を見やると、言葉通り藁のうえに卵がひとつ横たわっていた。でうすといいガロといい、なぜ男性らしきジェンダーを有していながら雌の体に宿るのだろうか。


「ねえ、悪さしたでしょ」

「何だ、人聞きの悪い」

「さっきの雷、あんたでしょ」

「俺は知らんぞ。たまげたのはこっちだ」


 心外だと言いたげに、ガロは首をちまちま動かしながら瑠唯を見据えた。


「嘘。あんなのがこの季節に、自然に起こるわけない」

「違うと言ったら違う」


 明らかにむっとした語調で、ガロが反駁した。


「何の目的もなく、俺がつまらぬまやかしを見せるわけないだろう」


 にわかにガロの声音が低くなり、ただならぬ迫力を帯びた。相手が悪魔であることを思い出し、瑠唯はたじろいだ。


 次の刹那、鶏小屋の中の光景は掻き消えた。地面に敷かれた干し草も、金網も、木の壁も、低い天井も、途端に見えなくなった。雷撃が落ちた時と反対に、今度は視野が真っ黒に染められる。四方を見渡しても、何も見えない。鼻先にかざした手すら、輪郭が掴めなかった。


 役に立たなくなった視覚の代わりに、肌が何かをとらえた。小さな、ごく小さな手が靴に触れている。肌に直接触れてはいないのに、大人のものではないその手ざわりが、いやにはっきりと感じられた。


 息を詰めた瞬間、手はいくつも増えていく。足全体を覆い、腕や首にまで小さな手の感触が迫ってくる。


「やめて」


 手は、瑠唯に爪を立てたり、体を締めつけることはなかった。そもそも爪までもが柔らかい嬰児の手だ。瑠唯をどうこうする力はない。たぶん瑠唯が振り払えば、離れていくだろう。だからこそ、瑠唯の体を掴むしかない相手なのだ。


 そう考えた途端、この世のものではないと知っていても、嬰児の指を跳ねのけることができなくなった。手足が動かない。体を柔らかく掴んでいる手と、それにつながる体の重みで、瑠唯はどこかへ沈み込んでいった。地面――もはや見えないので、足が地についているのかすらわからない――より下の、深いどこかへ。


 温度も硬さもない闇が、すでに全身を覆っている。


「そこまでだ」


 恬淡とした声は、涙が出るほど聞き慣れたものだった。


 でうすだ。


 闇は途端に霧消し、いつもの鶏小屋の光景が立ち現れた。一度は収まった涙が溢れそうになり、かすかに震える気がする胸を撫でおろす。ガロは金網にくちばしを突きさすようにして、小屋の外に現れたでうすを注視していた。


「何だ、このくらいのことで」


 ガロが不満げな声を漏らした。でうすが猫の喉から、鋭い警戒音を発する。


「大八洲で、お前の好きに振る舞えると思うな。大人しくしていろ。言葉はわからんが、一応言っておく」

「――でうす、ありがとう」


 敷き藁から卵を回収すると、瑠唯はさっさと鶏小屋から出た。閉じた戸を、針金で念入りに巻いて固定する。

 金網の向こうから、ガロがなおも不服そうに抗弁した。


「ただのまやかしだろう」

「うるさい鶏だな。何と言っている?」


 でうすに問われて、瑠唯はすぐに伝えた。


「ただの幻だろう、って」

「しつこい奴だな。それでもいかんと言っているのだ」


 敵意を込めてでうすが吐き捨てると、ガロはふいとそっぽを向いた。言葉は通じないながらも、でうすの態度から敵意は明らかに見て取れたようだ。

 小さく息をついて、瑠唯はでうすに向き直った。


「来てくれたの? でうす」

「食事中だったが、妙な気配がしたのでな」


 瑠唯は屈んででうすを抱き上げた。躊躇いなく腕のなかに収まる彼を、半ば縋るように抱きしめた。白い身体は、温かかった。


「ありがとう。危機を感じた」

「じっさいは、あいつの言う通り何も起こっていないぞ。幻だからな。安心しろ」


 うん、と答えながら瑠唯は靴を脱ぎ、縁側に上がった。同時に深い息をつく。


「雷は落ちるし、幻は見せられるし、今日は朝から忙しいよ」

「雷は、あれの仕業ではない」


 断言するでうすの声を聞きながら、茶の間を横切った。どうやら雷は自然現象だったらしい。珍しいこともあるものだ。

 奈津はすでに雨戸を開け終え、家へ入っていた。台所から、朝食を用意している物音がする。


「そっか。勘違いして、ガロを問い詰めちゃったよ」


 でうすはふむ、と言っただけで、廊下に辿りつくと瑠唯の腕から床へと飛び降りた。まっすぐに食事用の器に歩み寄ると、食べかけだったキャットフードに顔を突っ込んでむさぼった。


「今日はどこへ行くのだ」


 残り少なかった食事をあっという間に平らげると、でうすは尋ねた。漆喰の壁に寄りかかり、瑠唯は半ばぼんやり答えた。


「月読神社と――」


 言ってから、朔のことを思い出してひとり気まずい思いをした。比登都柱酒造でのやりとりが蘇って、いたたまれない心地がする。相手にしてみれば何の気なしの質問に、妙に動揺してしまった。


一支国いきこく博物館かな」

「ふむ」

「朝のうちに、どこかもう一箇所くらい行く?」

「何だなんだ。今日は乗り気だな」

「今朝チェックアウトのお客さんがいないからね」


 土曜ということもあり、今日は夕方にゲストが到着するまで、大きな動きはなさそうだった。明日は日曜でチェックアウトが多いから、同じようにはいかないが。


「うむ。では島の東側でも見てみるか」

「芦辺港とか?」

「任せる」


 満足そうに顔を洗いはじめたでうすは、のびやかにあくびをした。

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