第二章 猫びより
1
その夜、また悪夢を見た。
真っ暗な空間で寒さに震える夢だ。さんざん走り回ったあと不意に、こんな目に遭う心当たりはないと気づいた。そして、目が覚めた。
壱岐の朝は遅いから、まだ夜は明けきっていなかった。時計は五時半を指している。少し早いが、瑠唯は身を起こした。痛む肩をほぐしながら、事務室のソファで寝たりするからこんな夢を見たのだ、と自分に言い聞かせる。
事務室の扉を開けると、ゲストハウスじゅうが静まり返っていた。誰も起き出していない。早朝のチェックアウトや朝食を頼んだゲストもいなかったので、今日は朝のスケジュールに余裕がある。まだ寝ていても良いが、コーヒーが飲みたくて瑠唯は階下へと降りた。
キッチンでコーヒーパウダーをフィルターに入れ、湯を注ぐ。馥郁とした香りが漂って、ほっと胸の奥が緩んだ。凝縮されたコーヒーの香りが、朝の空気に散逸していく。福岡の店から、離島料金を払って毎月取り寄せているものだ。こだわっておいて良かった、と思う。
東京にいた頃、平日の疲れが取れないまま目ざめる土曜の朝、よくコーヒーを淹れてもらった。仕事中に飲むものを休日にまで摂らなくても、と最初は思っていた。でも、彼が選んだコーヒーを一杯ずつ淹れてもらうと、逡巡は氷解した。贅沢な香りが広がると、働いているあいだじゅう凝っていた筋肉が、ほぐれていく気がした。
シンクにもたれかかって、熱いコーヒーを少しずつ啜った。照明はつけず、窓から差す朝焼けのなかに、ひとり沈んでみる。
土曜に彼のコーヒーが飲めないのは、たった一週のことだと思っていた。けれどその週末、久しぶりに登山に出掛けた彼は、二度と帰ってこなかった。
天候の急変によって道に迷い、下山の途中で立ち往生した。そのまま、雪に降りこめられて凍死した。山岳事故のニュースとしては、どこかで聞いたようなパターンだ。でも、自分にとって唯一の人が亡くなった報せとなって耳に届いたとき、体の半分をもぎ取られたような感覚に陥った。
登山計画書には、彼の実家とともに瑠唯の連絡先が記載されていた。だから電話がかかってきて、すべての顛末を知らされた。一緒に下山していた友人の遺体を負った体勢だったことや、その友人が足にけがを負っていたことも。友人を助けようとして、彼まで命を落としたのだろう、と言われた。
基本的に、人は自分の命を守ろうとしてよい。彼が友人を見捨てて自分だけ下山しても、法律的には何ら非難される謂れはなかったはずだ。なのにどうして、彼が二人での下山にこだわったかは定かでない。
そのしばらく前に、結婚しようと言ってくれたのに。
本人から話を聞いていた彼の両親が、葬儀にも法事にも呼んでくれた。でも瑠唯はずっと、彼と本当の意味で別れることができなかったのかもしれない。あちこちで彼との思い出がよみがえる東京にいることすら、しまいに耐えられなくなった。
会社を辞めると言ったとき、同僚も友人も一様に心配した。自分が彼らの立場なら、同じ反応をしただろう。辛いのはわかるが、いずれは乗り越えなければならないことだ。何もかもから逃れて隠遁するのはいかがなものか、と。
至極まっとうな考えだと思う。だけど、まっとうであることがどうでも良くなるくらいには、その悲しみは大きすぎたのだ。
冷たい頬を、久々に涙が伝う。どうして彼は、帰って来てくれなかったのだろう。
ひとしきり涙を流せば痛みの波が引くことを、瑠唯は学習していた。だから頬が濡れるに任せた。問題は、この波がいつまで訪れ続けるのかということだ。
別れの痛みは、時間とともに少しずつ和らいでいた。いっぽうで、傷そのものはいつまでも胸に留まり続けている。いつ癒えるのか見通しは経たないし、とにかく触れないように暮らすしかなかった。
コーヒーを飲み干した瑠唯は、マグをシンクに置こうとした。逸見の姿が目に入ったのは、その時だった。
「あ――」
両手で慌てて顔を拭うと、マグが手を離れてシンクに落ち、大きな物音を立てた。ますます焦るものの、逸見は構わず瑠唯に近づいてきた。
「瑠唯さん」
「いや、あの、すみません」
「泣いてたんですか?」
直球で訊かれて、一瞬言葉に詰まった。
「いえ、大したことじゃ」
否定のような肯定のようなことを言って後ずさる。逸見はさらに距離を詰めてきた。
「変な夢を見ただけで」
「夢?」
ゲストから露骨に距離をとるのも躊躇われて、瑠唯は距離の近さに戸惑いつつも動かなかった。逸見は瑠唯の顔を覗きこむようにする。
「何があったんですか」
あくまで引き下がらない逸見に、瑠唯は根負けした。
「東京であったことを、夢で思い出しただけです。本当に」
逸見は一瞬考え込むようにした後、慎重な口ぶりで言った。
「そういえば、東京からこっちに来た理由、濁されてましたよね。辛いことがあったんですか?」
ずばり言い当てられて逡巡したものの、嘘をつくには苦しすぎる状況だった。
「婚約した人が、亡くなったんです」
ため息が自然と漏れた。言葉にしてしまえば、何と短いのだろうと思う。遠い他人の人生であれば、聞き流してしまいそうな一節だ。なのに、自分のなかに抱えて生きていくには、これほど重い。
「そうだったんですか」
驚いた様子だったが、逸見は目を逸らさず、深刻な表情で瑠唯を見据えたままだった。いつもは穏やかな顔が、今は緊張を帯びている。
「もう一年近く前なんですけどね」
「一年じゃ、立ち直るには早すぎますよ」
思いがけずかけられた言葉に、収まった涙がまた零れた。慌てて拭おうとする前に、逸見の指が頬に触れてどきりとした。温かい指が、流れたばかりの涙を拭う。
「東京に帰らないのも、同じ理由ですか?」
逸見は瑠唯が甘えていい相手ではない。わかっていても、顔に触れた肌の温かさと柔和な問いに、どうしようもなく心が解かれていく。
「ええ」
「そっか。どうか、無理はしないで」
言いながら逸見は、さらに一歩を瑠唯へと踏み出した。引き締まった腕が、瑠唯に回されようとしていた。彼の体温が感じ取れるほど、肌と肌が肉迫した。
耳をつんざく大音響が轟いたのは、そのときだった。
窓から突如差し込んだ光は、視野一面を白く塗りつぶすほどに強く、眩かった。同時に、空を裂くような雷鳴が鳴り響く。あまりの大音量と激烈な音に、最初は雷の音とわからなかったほどだ。
反射的に耳に手をやった瑠唯だったが、指が耳を塞ぐころには音は途絶えていた。あとには元どおり朝焼けに照らされるキッチンに、かすかな残響がたゆたうだけだった。
突然の白い閃光と音に、棒立ちになった逸見が目の前にいた。我に返った瑠唯は、慌てて彼から一歩後ずさった。
「今のは――」
「冬季雷です」
「冬季――?」
「ここは夏より、冬の雷の方が強いんです」
説明しながら自分でも、何を言っているんだ、と思う。今は九月で、冬にはほど遠い。しかし今聞いた激しい物音は、夏にごろごろ唸る雷と明らかに違っている。数は少ないがすさまじい雷鳴を伴う、冬季雷としか思えない。
瑠唯はキッチンの壁に歩み寄ると、窓から空を見上げた。切れ切れに雲が棚引く赤い空は、至極穏やかだ。果たして冬季雷とは、これほど雲がなくても激しく鳴るものだったろうか。しかも、たった一度だけ大音響で。
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