13
平日なので、到着するゲストは少なかった。彼らのチェックインが終わり、外で夕食をとる逸見の送迎が済むと、瑠唯は早々に家へ引っこんだ。何かあれば、電話かインターホンでゲストが呼び出しに来る。だが、何かが起こりそうな気配はなかった。
今日はとりわけ、残暑が厳しかった。蚊取り線香を焚きながら、暮れなずむ畑地をぼんやりと眺める。壱岐は日の出も遅ければ、日没も遅い。九月も半ばになっても、七時ごろまで残照がある。
「たまには鶏の体になってみるのも、いいものだ」
鶏小屋の中から、ガロがスペイン語で言って寄越した。奈津が茶の間にいないのを確かめてから、瑠唯は言葉を返した。隣にはでうすが寝そべってまどろんでいる。
「鶏の丸焼きにも宿れるのに、何でうちの鶏に取り憑いたの」
「おお、俺の逸話を聞いたか。俺は悪魔なのだ、そのくらい簡単さ」
瑠唯は思わず眉をひそめた。マリアの話では、ありがたい幸運の象徴だったはずだ。
「どういうこと? ポルトガルでは、幸運のお守りにされてるんじゃなかったの」
「俺ほどの悪魔なら、幻を見せるくらい簡単だ。焼いた鶏が鳴く程度のまやかしは造作ない」
「でも、死刑になるところだった男を助けたんでしょう」
「あいつは無実じゃなかったのさ。だから面白いと思って生かしてやった。まあ、命が助かったあとで悔い改めたので、俺としては何も面白くなかったが」
あんぐりと口を開けた瑠唯は、同意を求めるようにでうすを見た。伸びをしていたでうすが、怪訝そうにこちらを見つめ返した。
「何だ」
「正体は悪魔なんだって。でうすが言ってた禍つ物って、やっぱりこの鶏じゃないの?」
「違うと言ってるだろう」
「ちゃんと見てよ」
でうすは目を細めて、瑠唯が指さしたガロをしげしげと見つめた。
「どう見ても、そんな大物じゃないぞ。というか、こいつの逸話のなかで悪さをしたのは人間だろう。それにこやつらは、キリスト教文化圏を離れて悪事をはたらくことはない」
確かに、鳴いた焼き鳥を見て窃盗犯を助命したのも、盗みを犯したのも人間であって、ガロではない。彼はただ幻を見せただけであって、その所業は大して大物とも言えないのかもしれない。だが、なぜ悪さをしないと言い切れるのか。
「何でわかるの?」
「縄張りというものがある」
そりゃ、キリスト教文化圏ではない日本は、ガロの縄張りではないかもしれない。でも、なぜそこまで断言できるのか。
「万が一ってことが――」
「ありえん。大丈夫だ」
でうすに訊くのは諦めて、瑠唯はふたたびガロを見やった。
「幻を見せる以外には、何ができるの?」
「悪夢を見せたり、いろいろだ。なぜそんな話をしなきゃならん」
悪夢と言われて、すぐさまゆうべの夢が脳裏に蘇った。雪の中で、戻るはずのない相手を待っていた夢。
「悪い夢、今日見た」
「は? 俺じゃないぞ」
「しらばっくれないで。――でうす、やっぱりガロは縄張りを犯してるよ。私に悪い夢見せたの、こいつだ」
日本語に切り替えてでうすに訴えるも、彼は眠そうにあくびをしただけだった。
「それほど露骨に縄張りを犯されたら、俺にはすぐにわかるぞ」
「何でよ。禍つ物すら見つけてないのに」
でうすの探し物は、いっこうに進捗が見られない。比登都柱酒造にいたあいだの捜索も、見事に空振りだったらしいから。
「ええい、
「ふうん」
半信半疑のまま、瑠唯は顰め面でガロを見つめた。本当に鶏小屋で過ごすだけで満足しているなら、これほど人畜無害な悪魔もないのだが。
「瑠唯ちゃん」
油断していたところに、奈津から声をかけられ、座ったまま飛び上がりそうになった。でうすやガロと話していたところを見られただろうか。
「何?」
廊下と茶の間のあいだの戸口に、奈津が立っていた。
「ご飯にしていい?」
「あ、うん、もちろん」
奈津が標準語にしてくれることに、最近少しだけ違和感を覚えつつある。それもこれも、朔と話すことが多くなったからだ。彼が瑠唯に遠慮なく向けてくれる方言を、奈津は余所行きの言い回しに変えてしまう。もう何ヶ月も一緒に住んでいるのだから、素の言葉で話しかけてくれてもいいのに。
某黄色いハンカチの映画に出ていた、倍賞千恵子にインスパイアされたという奈津の標準語は、聞いていて心地よい。だけど少し寂しい。
その奈津は、手に何かを持っていた。飴色の、革製と思しき容れ物だ。
「おばあちゃん、それ何?」
年季の入った革は丁寧に手入れされているのか、なめらかで艶がある。
「おじいちゃんの形見。マキリっていうの」
「マキリ?」
「そう。魔を切るって書いて、魔切って言うんですって」
奈津が差しだした革のケースを手に取り、開いてみる。入っていたのは、木の鞘に収められた刃物だった。鞘から本体を引き抜いてみると、包丁などと違って、持ち手と同じ幅の短い刀身がそのまま突き出ている。柄のない短剣と言ったほうが近かった。
「こんなの、どこで買ったの?」
「昔、仲良くなったお客さんが贈ってくれたんだって。漁師さんだったかな」
抜き身の刃を見ていると、それも納得できる気がする。刃の縁がすべて切削に適した断面になっており、どこにも不用意に触れられない迫力があった。扱いなれた人間によって、厳しい環境で使われるべき道具ならではの。
「今でも時々手入れしてるのよ」
「そうなんだ。容れ物も綺麗だね」
瑠唯は刀身と革のケースとを見比べた。折にふれ手入れがされているから、祖父の死から三年経った今でも保存状態が良いのだろう。
「おじいちゃん、こんなの持ってたんだ」
奈津の顔を見ると、苦笑された。
「瑠唯ちゃんが漁師と結婚することになったら、その人にあげるんだって言ってた」
「はあ」
こうと思い込んだら突き進む、祖父らしい物言いだ。冗談なのか本気なのかわからない。当時東京にいた瑠唯が、漁師と結婚する可能性がどれだけあっただろう。
「飯か? 飯なのか?」
でうすが熱心に話しかけてきたが、奈津の前なので瑠唯は返事をしなかった。拗ねたでうすは瑠唯の視線を追って魔切を見やった。そして、感心したような声を出した。
「ほほう、いい刀だな。お前の氏神が喜びそうだ」
相変わらず、でうすが言うことの意味はさっぱりだ。さらりと聞き流した瑠唯は、奈津の方を向いて言った。
「かっこいいね。相手じゃなく私が、守り刀にもらえたら良かったのに」
光沢のある刀身をひっくり返して眺めた後、飾りのない木の鞘に収めた。ケースにしまい、奈津に返した。
「じゃあ、瑠唯ちゃんにあげようか」
あっさりと奈津が言って、瑠唯は慌ててかぶりを振った。
「いやいや、言ってみただけ。おじいちゃんの大事なものなんでしょ」
「今度の命日に、おじいちゃんに訊いてみればいいわ」
そういえば九月の末が、祖父の命日だった。カレンダーを見やると、三日後の二十八日に、奈津のつけた小さな丸印がある。
「訊いてみるって?」
「お仏壇に置いておくわ。二十八日になってもそのままだったら、瑠唯ちゃんがもらって」
もし祖父が賛同しないなら、二十八日までにあの世に持っていかれる、ということだろうか。そんなこと、起こらないと思うのだけれど――いや、神が猫になって現れる壱岐のことだから、ありうるのだろうか。
愚にもつかない考えを巡らせていると、奈津が捕捉するように言った。
「瑠唯ちゃんが相手なら、おじいちゃんはきっと反対しないけどね。お伺いは立てたいのよ」
「うん」
ああ、そうか、と瑠唯は内心でひとりごちだ。奈津は亡き夫と、まだ会話をしている。他の人間は手を触れられない方法によって。
「素敵なものだもんね。おじいちゃんに訊いてからじゃないと」
目を細めた奈津を、瑠唯はひそかな羨望をもって眺めた。
孫の瑠唯から見ても、奈津は祖父のことが大好きだった。もともと仲が良かったし、母たちが生まれるまで流産を繰り返した奈津に寄り添い、支えていたという話も聞いたことがある。七十代になったばかりの祖父が亡くなった時、親戚一同が心配になるほど奈津は気落ちしていた。
親戚が瑠唯の開業に賛成してくれたのは、そういういきさつもあった。少し落ち着いたとはいえ、ひとり暮らしの奈津が寂しくなくなるのはいい、と皆が思ったから。
瑠唯自身も、自分のことをいちばんわかってくれるのは、奈津だという気がしていた。じっさい、ここへ来て本当に良かったと思う。奈津は、瑠唯の語りたくないことに触れず、ただ瑠唯の開業を応援してくれた。
とりわけありがたかったのは、島内の人びとにあらかじめ事情を説明しておいてくれたことだ。瑠唯が重大な別れを経て、壱岐へ来ることになったこと。瑠唯自身はまだ、そのことについて語る準備がとてもできていないこと。
好きだった人と死別したのなら、と皆が理解してくれた。初対面のときの気づかわしげな、だけど好奇に満ちた視線にさえ耐えれば、あとはどうにかなった。誰もが訊かないでいてくれたから。
朔もきっと、事情は聞いたはずだ。それなのに、彼には瑠唯の内面に踏み込もうとする意志を感じる。ぶしつけに訊いてくるわけではないが、だからこそ焦りが強まるのだった。優しい相手を拒むのは、それはそれで勇気が要る。果たして必要な勇気なのかどうかは、わからないけれど。
奈津が茶の間を出て行くと、でうすがふむ、と感慨深げに鼻を鳴らした。
「内海でお前に会ったのも、偶然ではないかもしれぬな」
「どういう意味?」
「お前の氏神の計らいだったかもしれん」
でうすの顔は、どこか不敵な笑みを浮かべているように見えた。瑠唯の氏神がでうすを手助けすると、たしか彼は言っていた。
「私がでうすを助けるために、何かするの? その神様の氏子だから?」
「そうかもしれん。お前は興味がないだろうがな」
「やるよ。どうすればいいの?」
でうすは目を瞬いて、瑠唯を見つめた。今まで、車に乗るだけでも文句たらたらだった瑠唯に、どんな心境の変化があったのかと問いたげだった。
「うまくいかないと、壱岐が大変なことになるんでしょ」
ガロがやってきたことで、禍つ物が島に降り立つという警告が、真に迫って感じられたのは事実だ。加えて、奈津が長年暮らす島に災難が降りかかるのは避けたいと思い始めていた。できることなら、でうすを助けたいとも。理由は違うが、何も訊かずにそばにいてくれる点では、奈津もでうすも同じである。
それに、東京を離れた今、自分が暮らす唯一の場所は壱岐なのだ。
「まだ、禍つ物がどこにいるかもわかっていないからな。目下、捜索を続けるしかない」
「わかった」
禍つ物はガロじゃないか、と思うものの、でうすはあくまで違うと主張している。なんにせよ彼は神だから、一度は信じてみよう。島じゅうを探してみればでうすも、禍つ物はガロしかいないと思い至るかもしれない。
「あとは、あの刃物を常に持っておけ」
「わかった。でも、おじいちゃんの命日が終わったらね」
後ろ足で首をかいていたでうすが、一瞬動きを止めてから、呟いた。
「ああ」
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