12

「瑠唯さん!」


 資料館の出入り口から、満面に笑みをたたえた逸見が出てきた。軽やかな足取りと上機嫌な声から察するに、ほろ酔いのようだ。試飲が随分捗ったらしい。手には、購入したボトルの入った紙袋を提げている。


「いやー良かった。連れてきてもらってありがとうございます! 自分で運転してたら飲めないから」


 瑠唯はこれ幸いと彼に応えた。


「楽しんでいただけて、良かったです。戻りましょうか」

「ええ、もういつでも」


 助かった、と思いながら車のドアを開錠した。同時に、会話を切り上げることに一抹の後ろめたさを覚える。朔は何も、間違ったことは言っていない。なのに自分は、さっさと逃げようとしている。彼の方を向いて、短く言った。


「ごめん、またね」


 うん、と曖昧に頷いて、朔は車から離れた。逸見が乗り込んだのを確かめてから、瑠唯も運転席に着いた。窓の外で、朔は社屋へ向かっていった。


 黙ってエンジンを入れるとアクセルを踏み込み、青嵐へと急いだ。もうすぐチェックイン時刻になるので、今日宿泊予定のゲストが到着し始めるころだ。


 何か話さなければ、と思ったが、頭の中では紗英とのやりとりや、朔の問うような視線がちらつくばかりだった。逸見に気詰まりに感じてほしくないのに、気の利いたせりふが出てこない。何を話そう、と柄にもなく混乱していた。


 資料館の感想を訊こう、とやっと思い至ったとき、逸見のほうが先に口を開いた。


「さっきのお兄さん、どんな人ですか」

「比登都柱酒造の社員ですよ」


 逸見が訊きたいのは、おそらくもっと別のことだろう。瑠唯と彼がどんな人間関係にあるか、だ。でもそれは、はぐらかしておきたかった。


「こないだも、ゲストハウスに来てましたよね」


 訊かれて瑠唯はああ、と声を上げた。そういえば逸見は、あの時も朔を見たのだった。


「お客さんの落とし物を、届けに来てくれたんです」

「そのお客さんも、比登都柱酒造に行ったんですか」

「いえ、月読神社です。彼の実家がそこなので」

「はあ、なるほど。――大丈夫でした? 傍からは、怖い顔で瑠唯さんに迫ってるみたいに見えましたけど」


 瑠唯は思わず苦笑した。濃い顔立ちの上に、あまり表情の豊かでない朔は、確かに強面に見えるだろう。


「大丈夫ですよ。確かに顔は怖いですけど、幼馴染なんです。恐れるような相手じゃないです」


 理屈の上では、と内心で付け加える。そうだ。子供のころは、祖父母を抜きにすれば、壱岐で最も気軽に話せる相手だった。それが変わってしまったのは朔のせいではなく、瑠唯の状況が変わったからだ。


「でも瑠唯さん、困った顔してたから。何かあったんですか?」


 ただの酔っぱらいと見せかけて、逸見は状況を一瞬で見てとっていたようだ。まっすぐに視線を注がれ、はぐらかすのも躊躇われたので、瑠唯は事実を言った。


「本当に、何でもないですよ。東京の友達に会いに行かなくていいのか、って訊かれてただけで。年齢的に、結婚式挙げる友人が多いので、いろいろお誘いはあるんですよね」

「そっか。接客業だと、なかなか現場を離れられないですよね。事業主の瑠唯さんが言うんなら間違いない」


 逸見がそつのない文言で流してくれて、我知らず安堵する。言ったことを無条件に受け止めてもらえることが心地よかった。本質的には良くないことかもしれないが、でもまだ、深く追及を受けずに日々を過ごしていたい。


 青嵐に着くと、今日のチェックイン客はまだ訪れていなかった。逸見が笑顔で何度も礼を言って、部屋に帰っていく頃には、瑠唯の動揺はすっかり収まっていた。ふと何かを忘れているのではないか、と思う。運転席から降りようとして、はたと考え込んだ。


「でうす!」


 叫んだ瞬間、後部座席のさらに後ろから声がした。


「何だなんだ」

「あ、良かった――戻ってきてたんだ」

「あやつが扉を開けたときに滑り込んだのだ」


 逸見と瑠唯が車に乗り込んだとき、でうすも知らぬ間に乗車していたらしい。原の辻に忘れて帰ってきたかと一瞬焦ったが、ほっとした。大きく息をついた瑠唯に、でうすは顔を顰めた。


「お前、俺のことを忘れていたな」

「全然そんなことないよ」

「嘘をつけ、嘘を」


 遠隔キーで車を施錠するあいだ、でうすはぴょんぴょんと足もとで跳ねた。神とは言うが、やはり猫の姿は愛らしい。でうすがいない、と気づいた時の焦燥を思い返しながら、彼は既に自分の生活の一部になっていると実感する。家に帰れば祖母がいるとは言え、仕事中に何やかんやと話しかけてくれるでうすは、いわば同僚のような存在になっているのだろう。


「ごめんって。今後は忘れないようにするよ」


 地面に屈み喉を撫でてやると、途端に彼はごろごろと喉を鳴らした。神だか何だか知らないが、彼もいまは所詮、肉体の従属物なのである。

 と、同時にスマートフォンが鳴る。


「はい、ゲストハウス青嵐です」

「あの――」


 一瞬でこちらも身を固くしてしまうような、ひどく切羽詰まった男の声だった。ただ単に焦っているだけでなく、妙にこちらを威圧するような語調でもある。年齢は瑠唯とそれほど変わらないように思われた。


「――そっちに、フランス人の女性が泊まってませんか」


 途端にソフィアの顔が頭に浮かぶ。しかし、彼女の国籍を確かめたことはない。何よりゲストの情報を、名乗りもしない相手に伝える義理はなかった。


「いえ、把握しておりません。恐れ入りますが、どちら様でしょうか」

「リルって名前なんです。ブロンドで、背が高い奴なんですけど」


 内心で眉を顰めた。こちらの話を聞かず、個人情報取得を押し切ろうとするところに、反社会的な気配を感じる。いくら若い女が相手とは言え、簡単にゲストの情報など取れるわけがないのはわかるはずだ。


「申し訳ありませんが、ご対応いたしかねます」


 どちらにしろ、そう言った名前のゲストは泊まっていない――瑠唯の知る限りでは。何か言いたそうな、もっと言えば苛立ちをぶちまけたそうな沈黙がしばらくあった。数秒後、勢いよく通話は切れた。


 渋い顔をして、瑠唯はスマートフォンをしまった。不穏な電話だった。相手が何を考えているにしろ、まっとうな意図でリルを探しているとは思えなかった。

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