10
翌日、でうすは朝早くからどこかへ出かけていた。昼前、逸見のガイドに出発する頃になると戻ってきたが、瑠唯が昼食に壱岐牛のハンバーグを選んだと知ると卒倒しそうになっていた。
「俺が今朝、どこへ行ったと思っている」
「知らないよ。どこにいたの?」
バスルームの掃除をしながら、窓の網戸の向こうに陣取ったでうすに尋ねる。
「壱岐牛の放牧場だ。あんなに優しい奴らなのに」
「でうすさあ」
半ば呆れながら、瑠唯は言った。しかしでうすは、嘆かわしいと言わんばかりに俯いて首を振った。
「今日微笑んでいた牛も、明日には人に食われていく。諸行無常を感じる。神の俺が、仏道の概念を悟るほどに」
でうすは遠い目をして、畑の方を見やった。瑠唯は聞き流しながら、こすり洗いしたばかりのバスタブをシャワーで流した。昨日はゲストが少なく、かつほとんどが島内の日帰り温泉を利用していたので、掃除は楽だった。
学生時代、海外でも国内でもよく一人旅をした。泊まるのは大抵ユースホステルや、青嵐のような安価なゲストハウスだった。大部屋に泊まることに抵抗はなかったし、国内旅行の場合は、高級宿の日帰り温泉をよく併用していた。そうすれば、ホステルのシャワーで温水がきちんと出るかどうか、不安に思う必要もない。
思えば最後に旅行をしたのは、一年ほども前だ。退職直前は土日定休の部署にいたから、旅行もしやすかった。青嵐を始めてからはもちろん、週末や観光シーズンは繁忙期なので遠出していないが。
ひとり社長を続ける限り、今後も旅行に行くことはない。昔あれほど好きだった旅行だが、別に良かった。もっとベースの集客が増えれば、人を雇えるかもしれない。そうなれば、短期間切り盛りを任せて外泊することもできるだろう。だが、いずれにしてもずいぶん先の話だ。
手を動かしつつ思案に耽っている間も、でうすは牛たちとの思い出に浸っていた。
「奴らの背中で日向ぼっこするのは快適だぞ。太陽だけでなく、あれらの温もりも感じることができる」
黒い牛の上にでうすがうずくまり、あくびしている様子を思い浮かべた。牧草地を風が渡り、背景には青い海が見える。まさしく牧歌的な光景だ。いつも攻撃的なでうすですら、何だか愛らしいものに思えてくる。
「でうすは牛と話せるの?」
昨日ガロと言葉が通じなかったが、日本の動物とは話せるのだろうか。人間相手だと、瑠唯以外とは話ができないらしいが。
「いや、話は無理だ。何を考えているか、何となくわかる程度でな。通訳でもなければ、神と意思疎通できるものなどそうそういない」
「ふうん」
でうすが自分とだけ会話できることが、つくづく不思議に思えた。
そのでうすの抗議を尻目に、昼食に壱岐牛を食した後、逸見を
だだっ広い田畑のなかに茅葺の住居や、太い丸太で建てられた物見櫓が立ち並ぶ遺跡の光景は、実にのどかだ。古代人も――もしかしたらでうすのような存在を祀っていた人々も、同じ遠い山並みを見ていたのだろうか、とときどき思う。
「資料館と復元集落がちょっと離れてるので、またお送りします。歩けない距離ではないですけど、車の方が速いですから」
車道から一段高いところにある集落を示しながら、瑠唯は説明した。
「ありがとうございます」
「この辺にいますから、資料館見終わったら戻ってらしてください」
言いながら、資料館の駐車場に車を入れた。ハンドルを切りながら、妙に間が空いたのに違和感を覚える。
「瑠唯さんは行かないんですか?」
「ええと――ここは、解説はしてなくて」
出発前にさらっと伝えたはずだった。目ぼしい神社や古墳などは、瑠唯が解説をしている。復元集落もそうだ。展示による説明や、見学に対応している人員がない場所では、あるていど瑠唯自身が案内できるよう準備していた。だが、資料館は学芸員が詰めていることもあり、ゲストを送り届けるだけにしていた。
「そっか、そうでしたね」
残念そうな口調に、思わず微笑んだ。逸見は、これまであまり一人旅はしたことがないと言っていた。一人での時間が手持ちぶさたなのかもしれない。
「復元集落のほうは、ご案内しますので」
「はい。じゃあ、また」
爽やかに会釈して、逸見は車を降りた。いつの間にか彼は、後部座席でなく助手席に座るようになっていた。資料館に入って行く彼を見送ったあと、瑠唯は駐車した。
「あやつ、妙にお前といたがるな」
でうすが後部座席からのっそりと顔を出した。
「そう?」
「何だ、お前鈍感か」
「失礼な」
確かに逸見が、折にふれ距離を詰めてくる気はしていた。気のせいと思うことにしていたが、でうすの目から見てもそうだったらしい。
不思議なのは、彼との距離が縮まっても不快に感じないことだった。逸見の容姿が端麗だからというのもあるが、穏やかな物腰が心地良いのだ。強い態度を取って人を拒絶したり、値踏みしたりしないだろうという安心感がある。それに何より、瑠唯の知られたくないことに決して踏み込んでこない。
しかし彼はゲストで、慣れない一人旅の最中だ。歳が近くて、壱岐の勝手をわかっている瑠唯を頼っているだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
「そういえばでうす、探し物は見つかったの?」
「まだだ。島にいるのは、分かっているんだが」
「牛と遊んでるからだよ」
「失敬な」
探し物が何なのかは、何度聞いても教えてくれなかった。利益相反にならないよう、瑠唯に与える情報は極力絞っているらしいのだ。しかしこの日は珍しく、新しい事実が聞けた。
「お前のところの氏神が、手伝ってくれればいいのだがな」
「氏神って?」
「誰かは教えんぞ。俺が助けを求めても、
高天原とは、神々の住む天上の世界だったか。
「でうすが壱岐に降りてきても、その人は空にいるってこと?」
「人ではない、神だ。――まあ、そういうことだ。だが、高天原から助けを寄越すと言っていた」
断片的に聞いても、さっぱりわけがわからない。首を傾げたとき、でうすが不意に顰め面をした。
「氏神があやつだから、俺はお前と話ができるのか?」
「わからない。氏神なんて、気にしたこともないから」
やれやれと息をついたでうすを、ハンドルに頬杖をついて眺めた。
「今は呑気にしているが、俺が守ってやらねば壱岐は大変なことになるのだからな。探し物には付き合ってもらう」
「はいはい」
しばらくして戻ってきた逸見を連れ、瑠唯は復元集落へ向かった。でうすはその間、原の辻界隈に探し物へ出かけた。
復元集落には名前の通り、古代の状態に復元されたという建屋や倉、櫓が立ち並んでいる。平日ということもあり、ほとんど人気はなかった。建屋は、大陸からの使節団の宿舎、その従者の宿舎、番小屋など、いくつも種類がある。
棟数が多いので、簡単な解説をして順繰りに歩いていくだけでも、結構な時間が掛かった。車に戻るころには、探し物を終えたらしいでうすが、車体の屋根であくびをしていた。
「どこにもおらん。牛たちも怯えていたから、早く手を打ちたいのだが」
またも捜索は不首尾に終わったらしい。瑠唯は逸見とでうすとを車に収めると、
敷地内の蔵の横には資料館があって、壱岐と麦焼酎の歴史を辿ることができる。逸見に促され、入場無料ということもあり瑠唯も一緒に入った。スマートフォンが鳴ったのは、スタッフの解説のもと、逸見が試飲を楽しんでいる時のことだった。
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