9
逸見を島北部の神社や無人島に案内したあと、青嵐のフリースペースで本を読んでいると、マリアが帰ってきた。瑠唯は戸口まで行って、玄関ホールにいた彼女を呼び止めた。
「マリア」
彼女はやや固い面持ちでこちらを振り返った。だが、瑠唯が手に持ったスマートフォンを目にすると、文字通り歓喜した。
「よかった! 本当に、途方に暮れてたの」
「やっぱりマリアのだよね?」
「そう! 見つけてくれたの? ありがとう!」
マリアは瑠唯を拝み倒さんばかりの勢いで感謝した。
「月読神社の人が拾って、届けてくれたんだ」
「本当に良かった。ありがたいありがたい」
今日到着のゲストのチェックインはすべて終わり、時間があったので、瑠唯はガロについて聞いてみることにした。
「ケースに描いてある、ガロっていう鶏のことなんだけど」
「ああ、これ」
「伝説があるんだよね。どんなお話なの?」
マリアは理由を訝ることなく、すんなりと語ってくれた。
巡礼の地サンティアゴ・デ・コンポステラへ至る道ぞいに、バルセロスという町があった。ある一人の男が、巡礼に向かう途中ここに滞在したのだが、当時は治安が悪く盗みが横行していた。彼は一件の窃盗について嫌疑をかけられてしまい、無実にもかかわらず絞首刑を言い渡される。
男は刑を言い渡した裁判官の家に行き、晩餐の席で無実を訴えたが、判決は変わらなかった。そこで彼は、食卓にあった雄鶏の丸焼きを指さすと宣言した。明日自分が処刑されるとき、無実の証としてこの鶏が鳴くはずだ、と。
周りの者は誰も信じなかったが、念のため鶏の丸焼きは取っておくことにした。明くる朝、男が首をくくられる時刻になると、果たして鶏は起き上がって大声で鳴いた。驚いた裁判官は刑場まで遣いを出し、慌てて刑の執行をやめさせたという。
最後まで聞いてから瑠唯は、申し訳なく思いながらも尋ねた。
「その話、本当?」
あのガロがそんなかたちで人命を救ったとは、にわかに信じがたい。何しろマリアにくっついて、日本に物見遊山に来るような奴だ。
マリアは肩を竦め、微笑した。瑠唯の言葉を単純に、現実とは信じられないという意味に取ったらしい。
「さあ。でも、バルセロスの公爵邸跡に、ガロに救われた男が建てたっていう石の十字架があるの」
「なるほど。それはちょっと信じたくなるね」
鶏の丸焼きが生き返ったくだりが、どのくらい本当かは不明だ。でも、その男が建てた石碑が残っているなら、話のどこかに真実が含まれる気もしてくる。
「そういう言い伝えだから、ガロは幸運のモチーフになってるんだよ。だから旅のお守りってことで、家族が持たせてくれたんだよね」
言いながらマリアは、スマートフォンケースを大事そうに撫でた。
「プレゼント失くしちゃったら切ないから、戻ってきてくれて本当に良かった。ガロのおかげかも」
嬉しそうなマリアを前に、瑠唯は曖昧に笑った。どうやらガロは、ポルトガルではありがたがられる存在らしい。ならば、でうすが彼を厄介者ではないと言ったのも頷けるかもしれない。人語を話す以外、奇妙なところもない。昼間、もっと美味な餌を用意しろとか騒いでいたが、特に実害もない。
「そうかもね。無事見つかって良かったよ」
「本当にありがとう。――瑠唯は、何読んでたの?」
先程まで瑠唯のいたテーブルに本があるのを見て、マリアが尋ねた。福岡の古書店で大量買いした本に入っていた、芥川龍之介の短編集である。
「芥川龍之介、知ってる?」
「もちろん。ちょっと見ていい?」
瑠唯が頷くと、マリアはテーブルに近寄って本を手に取った。
「昔、日本語の練習で短編を読んだことがある気がする。でも、この話じゃないな」
ぱらぱらとページを繰りながら、マリアの手がはたと止まる。
「これは――」
横から覗きこむと、開いていたのは『煙草と悪魔』のページだった。
「読んだことある?」
「うん、そんな気がする。懐かしいな。天文十八年か」
妙にしみじみとするマリアの横顔を、瑠唯は不思議な気分で眺めた。何年か前に短編を読んだ記憶というより、天文十八年を懐かしむように聞こえたからだ。
しかし、ふと目が合ったマリアは、大きな黒目を瞬くと、まったく違う話題を出した。
「そういえば、ドミトリールームのお客さんだと思うけど、今日海で見かけたよ」
「へえ、誰だろ」
現在、男女ともにドミトリールームには数名のゲストがいる。主だった観光地は限られているので、彼らが島内を回る間に、どこかで会っていても不思議ではなかった。
「金髪のお姉さん。ずっと海沿いを歩いてるみたいだったけど」
間違いなくソフィアだ。他の女性ゲストは、福岡から来ている日本の学生しかいない。
「散歩してたのかな」
神社巡りをしたいと言っていたが、海沿いのウォーキングに変えたのだろうか。七日も島にいるから、一日くらいそういう日があっても良いとは思うが。
「何かストイックな顔して歩いてたよ。車なくて困ってるのかなって、心配になって」
同じ心配を頭に浮かべつつも、瑠唯はひとまず当たり障りなく言った。
「もともと歩いて観光するつもりで来たみたいだよ。細かいことは聞いてないけど」
「そっか。いや、困ってるんじゃなければいいんだけどね」
マリアは微笑して肩を竦めると、フリースペースを出て行った。スーパーで買い物をしてきたようだったから、今日はキッチンで夕食を作るのだろう。
入れ替わりに入ってきたのは、逸見だった。白いシャツが眩しいが、それに伴って彼自身の肌も輝きを増している。
「瑠唯さん」
ガイドツアーの途中から、彼はいつの間にか瑠唯を下の名前で呼んでいた。年齢が近いこともあり、不自然な感じはしない。
「明日なんですけど、麦焼酎の酒蔵って行けますか?」
比登都柱酒造だ。思わずぎょっとしたのを、懸命に押し隠した。不意に朔の顔が浮かんで、一瞬躊躇ってしまう。しかし、もちろん快諾した。
「大丈夫ですよ。ここから近いですから、明日最後に寄りましょうか」
「やった、ありがとうございます」
逸見は朗らかな笑みを浮かべた。あまりに明るい笑顔に、ふと胸に湧き上がった不安もどこかへ押しやられてしまう。
日中案内している間も、彼は見聞きするものすべてを全肯定してくれた。でうすが車に乗り込んでいても、嫌な顔一つしない。天候が良く、気持ちのいい陽気だったのもあるが、素晴らしい島だとさかんに褒めちぎっていた。
そういうわけで夜は、満ち足りた気分で床に就いたはずだった。なのに、見た夢はすこぶる瑠唯の気持ちを重くするものだった。
どこもかしこも、視野一面が白く覆われた場所にいた。最初は靄かと思ったが、やがて雪だと気づく。夢なので温度はない。冷たさを持たないその雪に、瑠唯は前後左右を降りこめられていた。
足は膠に塗り固められたように動かなかった。どれだけ試みても、体は微動だにしない。瑠唯はすぐにでも走り出したかった。ここで探さなければならない人がいるのを、知っていたから。
焦燥と絶望ばかりが募るなか、あるとき突然、瑠唯は悟った。どれだけ焦っても、もう意味はない。探すべき相手はすでに手の届かない所へ行ってしまった。だからどうやっても取り戻せない。夢のなかだから、まだ間に合うかのような幻を見ただけだ。
夢だと気づくと、意識は覚醒に向かった。まぶたを開けると、自分の居室だった。小さく息をついたが、それが安堵のため息なのか、嘆息なのか判断がつかない。
夢が覚めると、焦りからは解放された。でも絶望は存在を確定されてしまった。あの雪の中ではまだ、絶望的に焦っていただけだったのに。
一面の白い世界のどこかに、彼が生きているような気がしていた。実際は、もう二度と会えない相手だった。
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