8

 瑠唯の思案をよそに、でうすは意味ありげに虚空を見つめて言った。


「そろそろ、壱岐を守るにも本腰で行かねばな。俺にも島内を案内しろ」

「は?」


 思わず反感のこもった声が出た。逸見の案内でスケジュールが立て込んでいるのに、このうえ用事を増やすとはいい度胸だ。


「神に向かって何だその口の利き方は。言った通りの意味だぞ。あやつを案内するとき、俺も車に乗せていけ」


 それなら新たに時間を取られることはほぼないが、振り上げた拳をおろしかねた瑠唯は、語調を緩めず尋ねた。


「何でよ」

「島をあちこち見て回りたいからだ。決まっているだろう」

「何のために?」

「禍つ物を探すためだ。そやつが島に厄介を持ち込む」


 瑠唯は首を傾げるしかなかった。大体、ゲストとともに猫を連れて歩くのも抵抗がある。思っていると、心中を読んだかのようにでうすが言った。


「あやつなら、猫アレルギーはないぞ。朝に俺と遊んでいた」


 でうすはいつの間にか逸見に接触し、アレルギーがないか確認していたらしい。抜け目のない奴である。瑠唯は小さく息をついた。


「車の中ではじっとしてるなら、いいけど。でも必ず、助手席にいてね」

「うむ」


 満足げに白い顔を洗う猫を、瑠唯は膝をついたまましげしげと眺めた。最初に会った時から、でうすは壱岐を守るとか何とか言っていた。毎日たらふくキャットフードを食べ、昼寝している姿からは想像がつかず、普段は忘れてしまっているのだが。


「何から島を守るの?」

「言えん。言ったら俺の正体がわかってしまうかもしれないからな。それに、巻き込まれたらただではすまないぞ。お前に手伝えるのは、捜索くらいだ」


 目的が分からないのに助力を請われるのは、何だかすっきりしない。だが、でうすは言い出したら聞かない。


「いつまでやるの?」

「そんなもん、相手が見つかるまでだ」


 要領を得ない。


 瑠唯は立ち上がると、玄関脇の和室を横切って縁側へ出た。家の一角を縁取るようについた縁側の、畑のほうを向いた一辺に腰を下ろす。家と畑との間には、四畳もない小さな鶏小屋があった。祖母が手塩にかけて育てた牝鶏が、一羽で広々とした内部を歩き回っている。


 今朝は卵を産んでいなかった、と奈津が言っていた。だが今なら、卵があるかもしれない。瑠唯はサンダルを引っかけ、鶏小屋を覗き込んだ。床面に目を走らせ、残念ながらどこにも卵がないことを確かめた。


「ないか」


 この鶏の卵は、ゲストハウスでは出さずに家で食べている。産みたての卵は、とくに目玉焼きと卵かけご飯にするには絶品だ。昼食が先延ばしになって空腹なこともあり、残念そうな声が出た。


 息をついて立ち上がった時、誰かの声がした。


 声、としか言いようがない。意味は分からない、ただの音声の羅列だった。何かの意図や意味を持って発されていることは、どことなくわかる。ただそれが、日本語でないから瑠唯には理解できないだけだ。


「――は」


 思わず妙な声が出た。力が入らず、ひどく情けない発音になった。


 あたりを見回しても人はいない――人間は。奈津は帰っていないし、逸見は青嵐の中だ。でうすの姿もない。


 いったん途切れた声は、男のものだった。でうすのような壮年の声と違い、中年と思しき貫禄がある。だが一体、誰が発したのだろう。今ここで生きて動いているのは、瑠唯と、牝鶏一羽だけなのに。


 まさか。


 瑠唯はサンダルを脱ぎ散らかして、縁側に上がった。廊下に駆け込み、のんびり水を飲んでいたでうすを抱き上げる。


「な、な、何をする」

「ちょっと来て」


 でうすを抱えて縁側に戻り、サンダルを履くと鶏小屋の前に突き出した。


「この鶏、喋ったように思ったんだけど」


 金網越しにでうすと対面した牝鶏は、きゅっと首を後ろに引いた。そしてまた何か喋ったけれど、やはり中身は理解できない。理解できたのはでうすの日本語だけだった。


「おお、お前も気づいたか」

「どういうこと?」

「これは、南蛮の娘にくっついてきたものだ。よくわからんが、この鶏に取り憑くことにしたらしい」


 瑠唯は呆気に取られて、腕の中のでうすと鶏とを見比べた。


「ソフィアかマリアに? でも、どうして」

「旅先で、気分転換したくなったんじゃないか」


 まるで役に立たない回答だった。素直な気持ちが舌打ちになる。


「おいお前、神に向かってなんだその態度は」

「ちょっと、理由がわかんないなら直接訊いてみてよ」

「俺にもわからん。言葉が通じんのだ」


 ソフィアかマリアにくっついてきたということは、フランス語かポルトガル語を話すのだろうか。ならば瑠唯が、鶏の言うことを理解できなかったのも納得がいく。何とか意志の疎通を試みようと、瑠唯はためしに英語で話しかけてみた。


「英語話せる?」


 牝鶏は何も反応しなかった。


「スペイン語は?」


 今度は驚いたことに、鶏が大きく頷いた。


「珍しい日本人だな」


 驚いて思わず口を半開きにすると、相手は続けた。


「俺はガロだ。鶏の形をしたものになら、大体宿れる」


 マリアが教えてくれた、ポルトガルの伝説の鶏の名前だ。反射的に、エプロンのポケットに入れたマリアのスマートフォンを一瞥した。瑠唯の考えを読んだかのように、ガロは言った。


「勘が良いな。俺はその絵にくっついて、ここまで来た」


 だからって、ここで牝鶏に宿りなおす必要があるだろうか。


「何しに来たの。何でうちの鶏に取り憑いたの」

「そう警戒するな。物見遊山に来ただけだ」

「物見遊山なら、スマートフォンにくっついたまま、マリアと島を回ってればいいじゃない。うちの鶏から離れてよ」

「何を話してるんだ?」


 でうすが呑気に横槍を入れてきた。


「でうす、これが何言ってるかわかってないの?」

「俺に南蛮語がわかるわけ、ないだろう。あの女にくっついて来たのは気配でわかるが」

「じゃあ、どうやって島を守るのよ。島に来た禍つ物って、この鶏のことなんじゃないの?」


 思わず問い詰めるような口調になると、でうすは面倒くさそうに眼を瞬いた。


「そう怒るな。こいつは別に、厄介ごとを持ってきたわけではない。ただの物見遊山だ」


 本当か確かめるすべはないが、互いに言葉が通じないはずの二人――いや、一柱と一体の言い分が一致している。ならばひとまず信じておくべきか。信じなかったところで、瑠唯に打てる手はないのだけれど。


「でうすの言うとおり、ただの物見遊山だって主張してる」

「なら、放っておけ」

「何を話している?」


 今度はガロが口を挟んできた。


「あなたが、島に害をもたらすものじゃないって言われた」

「ふむ、間違いないな。そいつは何という奴なのだ」


 でうすに興味を持ったらしいガロが尋ねた。


「日本の神らしい。でうすって呼んでる」


 一拍の間のあと、ガロは呆れたように言った。


「猫にでうすか。奇妙な名前だな」


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