7
ふと瑠唯は、朔が乗ってきた比登都柱酒造の業務用車両に目を止めた。マリアが落とし物をしたのは神社だったのに、なぜ勤務中の朔が届けに来てくれたのだろう。神社にいるはずの彼の兄ではなく。
「誰が見つけてくれたの?」
「兄貴」
「でも朔ちゃんが届けてくれたんだ?」
不思議に思ったのが顔に出ていたのか、ああ、と朔は呟いた。
「配達で実家のあたりにおること、良くあるんよ。ちょうど近くにいたから、会社戻る途中に届けることになって」
「そうだったんだ。ありがとう」
合点がいって頷くと、別に、と朔はぶっきらぼうに呟いた。仕事中に引きとめては悪かったかと思い、瑠唯は会話を切り上げようとした。しかし、朔のほうがふたたび口を開いた。
「外国のお客さん、よく来よん?」
「うん、毎日とは言わないけど大抵いつも」
答えたとき、いつの間にか建物を回り込んできていたでうすが、瑠唯の足元に身を寄せた。
「おい、飯だ飯だ」
「でうす、ちょっと待って」
「でうす?」
今まで眉ひとつ動かさなかった朔が、その名を聞くとわずかに怪訝そうにした。
「えっと、この子の名前」
「何て意味?」
「――ポルトガル語で神」
ゆうべマリアに驚かれたのもあって、さらに相手の戸惑いように気まずさを感じる。いったい何を考えているんだと、朔も内心呆れていることだろう。
瑠唯の戸惑いを察してか、朔はきわめて何でもなさそうな口調で尋ねた。
「何で?」
「神社で拾ったから」
「そう」
名づけの理由は、すんなり信じてくれたようだった。そう思うことにする。実際は、ほとんど表情が変わらない朔の本心はうかがい知れないのだが。
そわそわする瑠唯に、でうすはお構いなしにせっついてくる。
「こやつは放っておけ。俺の飯のが大事だ」
「わかったから」
掃除の続きはあとにすることにして、瑠唯はにゃーにゃーと吠えるでうすを抱き上げた。こんな神でも人間に抱かれるのは心地いいらしく、腕にくるまれると少し大人しくなる。
「よく話しようね、この猫と」
やや当惑が感じられる低い声で、朔は言った。瑠唯は曖昧な笑みを返した。
「ひとりで仕事してると、独り言が増えちゃって」
「奈津ばあちゃんは? 一緒にやっとらんの?」
「畑やってるし、お付き合いとかで良く出かけるから。こっちは私が基本ぜんぶやってる」
ゲストハウスを目で示しながら、瑠唯は言った。じっさい、瑠唯の不在時にゲストが荷物を預けに来たときの対応以外、奈津に頼ることなく回せていると思う。
ただでさえ、逃げで壱岐にやってきたと思われても仕方ない境遇なのだ。辿り着いた先の自分の事業くらいは、ひとりで回してしかるべきだった。
「そうなん」
朔はまだ何か訊きたそうにしていたが、でうすが容赦なく沈黙を破る。
「腹が減った」
切々と空腹を訴えるでうすの喉を、瑠唯は撫でた。世間では皆が昼食をとる頃合いであるから、彼が腹を空かせるのも無理はない。昼休みの間にここへ立ち寄ってくれたであろう朔も、そろそろ会社に戻らねばならないだろう。
「落とし物、本当にありがとう。いっちゃんにもお礼言っといてね」
「うん」
たぶん瑠唯が会話を切り上げにかかっていると、朔は察した。そのうえで何か言いたそうにした。
「どうかした?」
朔が答えを口にする前に、背後から声がかかった。
「藤原さん」
逸見だった。読書していたのか、手にフリースペース備え付けの本を持ったままだ。上がり框に立って、遠慮がちにこちらを見ている。
「はい」
「すみませんけど出発、三十分遅らせてもらっても良いですか」
今日は昼時から、逸見に島内を案内することになっていた。青嵐では昼食を用意していないので、昼食を食べに行くところからツアーをスタートすると伝えていたのだ。
瑠唯はすぐさま頷いた。
「大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。新しい職場から、電話させてくれって連絡があって。ちょっと長くかかりそうなんです」
「どうぞどうぞ」
すみません、ともう一度言って、逸見はフリースペースに引っ込んだ。姿を消す前に、開け放したドアから見えた朔にも礼をしていった。小さく会釈を返した朔が、素っ気なく尋ねる。
「お客さん?」
「うん。お昼から、観光案内することになってるの」
「昼ごはんから? じゃあ、一緒に行けんね」
昼食に誘ってくれるつもりだったのだろうか。うん、と気の利かない返事を返したとき、朔は人差し指で鼻の横のあたりを掻いた。ふと、同じしぐさをどこかで見た気がした。きっと朔が小さなころに見せた動作だ。だが、朧な記憶が像を結びかけたところで、とうとうでうすが暴れ出した。
「ええい、話など後にしろ」
「落ち着いてよ」
何度目かにでうすを宥めたとき、朔はおもむろに車のキーを取り出した。
「俺行くわ」
「あ、うん、本当ありがとう――わっ」
腕から飛び降りたでうすは、激しい威嚇音を発した。空腹が限界に達したらしい。
「ごめん、またね」
軽く片手をあげると、朔は車へ向かって歩き出した。視野の端で彼を見送って、瑠唯は慌ててでうすを追いかけた。
家の玄関に上がり込み、キャットフードを器に注いだ時、朔の車が私道を通り抜けていく音がした。自然と小さなため息が出る。昔は気構えなく朔と話せていたのに、今は――でうすが場を引っ掻き回すのもあるとは言え――こうもぎこちないのはなぜだろう。
「あの新しい客は何だ」
わしわしとキャットフードをかっ喰らった後、でうすが突然尋ねた。
「何だとは何よ。東京からいらした逸見さん。出身は出雲らしいけど」
「出雲だと?」
急にでうすの口調が剣呑になった。
「出雲の神は、俺は好かん。俺が伊勢で大奮闘したときも、あやつらは全く助けてくれなかったからな」
「はあ」
でうすは時おり、昔話をすることがある。ただ、瑠唯に詳細を理解させる努力は完全に怠っている。
あの時はああだったとか、こんなことがあったとか断片的に語るものの、基準とする時間の縮尺が違い過ぎて、瑠唯にはいつ何が起こったのかさっぱりわからない。伊勢でどうのこうのと言うのも、百年前のことかもしれないし、千年前のことかもしれなかった。
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