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 翌日、芦辺港で瑠唯を待っていたのは、尋常でなく優雅な青年だった。


 薄青色のシャツにカーキ色のチノパンという、シンプルな着こなしが良く似合う。暮れかかった空の色合いが、少し長めだが彼によく似合う黒髪ににぶく反射していた。整った顔立ちだが表情は妙に爽やかで、擦れたところがない。


「こんにちは。青嵐の藤原と言います」


 瑠唯が声をかけると、彼は少しあどけないくらいの笑顔を見せた。ゲストでなかったら、くらっと来てしまいそうだ。挨拶を返してくれた声も、容貌と同様爽やかだった。


「初めまして。逸見へみと言います」


 車に案内する間に探りを入れると、やはり彼はバスで観光するつもりだった。車がないと観光が難しいと伝えると、困った顔をした。


「そうなんですか。免許は持ってるけど、ほとんど運転したことないんだよなあ」


 逸見の現住所は、予約情報によれば東京だった。公共交通で移動することに慣れていて、車が必須の田舎が存在することなど想像もつかないのだろう。


「別料金で良ければ、私がガイドツアーすることもできますよ。一人でやってるゲストハウスなので、一日中っていうのは難しいんですけど」

「よければぜひ、お願いしたいです」


 後部座席に力なく背中を預けていた彼は、身を起こしながら言った。


「わかりました。朝は手が離せないので、午後からになりますが」


 宿泊施設がもっとも慌ただしいのは朝だ。朝食の提供や、チェックアウトの手続きでてんてこ舞いになる。チェックイン時に前精算をしているのも、少しでも朝の業務がスムーズに回るようにするためだ。


「全く問題ないです。午前中は本読むか、勉強でもしてゆっくり過ごします」


 安堵したように息をついて、逸見はふたたびシートに体をうずめた。


「もともと、のんびり過ごしたくて長めに日数を取ってますから。ずっと忙しく観光したいっていうことじゃないので」


 青嵐までの道すがら話を聞くと、彼は新卒で勤めた会社を退社したばかりだと言う。次の仕事は決まっているが、有休消化期間を利用して旅に出たらしい。


「いいですね。働いてると、なかなか一か所に長く滞在する旅行って、できませんから」

「本当に。――藤原さんは、学校を出てすぐにゲストハウスを始められたんですか?」


 来た、と瑠唯は内心で身構えた。二十代で起業したというのは、大抵の人からは奇妙に見られる。興味を持って背景を聞きたがる人は、一定数いた。


「いいえ。大学を卒業してから数年、旅行会社で働いてました」

「福岡とか、長崎で?」

「わたし、出身は東京なんです。大学も会社もあちらで通ってました。ここへ来たのは、昔祖父母がやっていた民宿を継ぐようなかたちで」


 最後は曖昧な言い方をしたが、逸見はさいわい気にしなかった。


「僕は田舎出身なんですけど、地元でゲストハウス開いた友達がいました、そういえば」

「どちらご出身なんですか?」

「出雲です」


 直感的に思ったのは、マリアが興味を持ちそうだ、ということだった。日本神話が研究対象の彼女なら、すでに出雲を訪れているかもしれない。瑠唯自身はまだ、出雲どころか島根県に足を踏み入れたことがないが。


 逸見はそんな心中を察したかのように苦笑した。


「反応に困りますよね。出雲大社以外、何があるのって感じで」

「いえ、そんな。でも残念ながら、まだ行ったことがなくて」

「東京からは遠いですから、それが普通ですよ。よほどのきっかけがないと」


 そうかもしれません、と答えつつ、瑠唯は微かな違和感を覚えた。学生時代、島根出身の知り合いがいた。出雲ではなく松江出身だったが、やはり車は必須だと言っていた気がする。なのに逸見は、壱岐で車が要るとは思わなかったのだろうか。


「そうだ。現地のお酒が飲んでみたいと思ってたんですけど、おすすめはありますか?」


 逸見から新たな質問が飛んできて、思考はそちらに移った。


「日本酒はありませんけど、焼酎があります。壱岐は麦焼酎発祥の地なので。お好きですか?」

「好きです。そっか、九州といえばやっぱ焼酎ですよね」


 キッチンにある麦焼酎のストックが、そろそろ切れそうなのを思い出した。明日にでも、比登都柱酒造に寄って買ってこよう。


 できれば朔がいない時が良い、と思う。寡黙な彼の目線に見つめられるのが、瑠唯は落ち着かなかった。朔の問うような目は、なぜ壱岐に来たのか、無言のうちに瑠唯に訊いている気がする。そして、曖昧な答えではとても納得してくれそうになかった。




 翌朝、ゲストたちがチェックアウトしたり、観光に出かけたりと青嵐を去った後、瑠唯は掃除に没頭した。インターホンが鳴ったのは、無我夢中でシンクを洗っていたときだった。


 午前中到着予定のゲストはいない。清掃も、リネン類の手入れも自分でしているので、業者が訪ねてくるような用事もない。


「誰だ誰だ?」


 窓の外、枠についた出っ張りの上でくつろいでいたでうすが、妙な合いの手を入れた。


「お客さんはいないはずなんだけどな」


 洗剤のついた手を洗って拭き、エプロンをしたまま玄関に向かい、三和土におりた。


「はい――」


 言いながら玄関を開けた瑠唯は、目の前に立ちはだかる長身の男――すなわち朔をみとめてぎょっとした。ドアを開けた瑠唯の、文字通り目と鼻の先に立っていた。


「――おはよう」


 半ば呆けたように呟くと、おはよう、と朔も返した。先日は神職の装束だったが、今日は襟のついた半袖のシャツを着ている。平日なので、会社に出る格好なのだと気づくまで数秒かかった。


 比登都柱酒造から来訪を受ける用事が、果たしてあっただろうか。今日の夕方あたり、焼酎を仕入れようと思ってはいたけれど。


「おばあちゃんに用事?」


 奈津の不在を思い出して、とっさに沈黙を埋めた。しばらく前に、奈津は買い物へ出たばかりだった。


「ううん。今日、うちが瑠唯から御朱印頼まれとったけど」

「ああ、うん」


 月読神社の御朱印が欲しい、とマリアが今朝言った。なので瑠唯が朔の実家に電話して、用意してもらえるよう頼んだのだ。


「もしかして、まだ来てない?」


 今日ここを出るとき、真っ先に月読神社に行くと宣言していたが、何かあったのだろうか。


「いや、すぐ来よったみたい。でも、これ忘れていったらしい」


 朔が差しだしたのは、あの雄鶏のケースに入ったスマートフォンだった。瑠唯はすぐさま手を伸ばして、スマートフォンを掴んだ。


「ありがとう――これ、マリアのだ」

「マリア?」

「ポルトガルから来てるお客さんなの。なくして参ってるだろうなあ。見つけてもらえて、よかった」


 落とし物がここにある、とすぐにでもマリアに伝えたいところだが、あいにく手段がない。何しろスマートフォンがここにあるのだから。彼女は月読神社のあと、どこへ行くか話していなかった。本人が夕方に戻ってくるのを待って渡すのが良いだろう。

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