5
シャワーやキッチン、ランドリーを一通り案内してからフリースペースに戻り、宿泊費の精算をする。大抵の滞在は長くても数泊なので、クレジットカード精算機に表示される、稀に見る大きな金額に瑠唯は心が躍った。もちろん、おくびにも出さなかったが。
「ありがとうございます。ちょうど、いただきます」
ソフィアも六泊分を現金で支払ってくれたし、大口のゲストが続いてにやつきそうになる。
ひそかに喜びを噛み殺していたとき、ふとマリアが窓を注視しているのに気づいた。夕焼けをバックに、白い影がガラスに張り付いている。もちろん、でうすだ。
「すみません――あれ、うちの猫なんです」
慌てて言った。幸いマリアは驚いたり、不快に思ったりした様子はない。明るい声で言う。
「そうなんですか、良いなあ。研究旅行のために、実家に猫を残してきてるから、恋しくなっちゃいます。黒猫ですけど」
マリアは慈愛に満ちた視線をでうすに注いでいる。肉球と腹部をガラスに張り付け、獲物を狙うような目で睨んでくるでうすを、瑠唯は視野の外に追いやった。
「中に入りたがってるのかも?」
遠慮がちにマリアが言ったが、瑠唯は毅然と答えた。
「道の向かいの家で飼ってるので、こっちには入れてないんです。ところで夕ご飯は決まってますか?」
「郷ノ浦で食べてきたから、大丈夫」
「わかりました。飲みに行きたいときは、教えてください。送迎しますから」
玄界灘の海鮮は、身の締まりがよく美味だ。飲めるなら日本酒か、壱岐発祥の麦焼酎と一緒にたしなんでほしいところだ。ところが島内は車移動が基本なので、帰りの運転を心配せず酒が楽しめるよう、送迎も受け付けていた。
「ありがとう。明日にでも行ってみようかな」
「ぜひ。これで一通りの説明は以上なんですが、何かあったらいつでも訊いてください。二階の事務室にいますから」
「はい」
「それじゃ、ごゆっくり」
「どうもー」
和やかなマリアの笑顔に見送られ、瑠唯は玄関へ向かった。ドアを開けるなり、でうすが靴脱ぎ場に飛び込んできた。
「飯はまだか! 俺の飯を出せ!」
フェミニストが卒倒しそうな男尊女卑発言を吐き捨て、でうすは吼えた。よほど空腹だったらしい。八月にようやく発情期が終わり、機嫌が安定してきたと思いきや、たまにこういう日が訪れる。
スニーカーに爪を立てるでうすに、瑠唯は健全な独り言の範囲内で話しかけた。
「焦らないでよ。おばあちゃんがご飯用意してるでしょ」
「今日は出し忘れたまま、町内会に出かけた。腹が減って死にそうだ」
なるほど、それで半狂乱なのか。
「わかったから」
背後から、くすりと笑いが聞こえた。振り返るとマリアが玄関ホールに来ている。彼女がスマートフォンを取り出しているのに気づき、瑠唯はすばやくでうすを抱き上げた。
「写真撮ります?」
「やめろやめろ」
「ありがとう。綺麗なオッド・アイですね。珍しい」
空腹なのに足止めされたでうすは、ひどい仏頂面でスマートフォンを睨んでいた。しかし、撮影しているマリアは上機嫌なので問題ないだろう。
でうすが写真に撮られる間、瑠唯はスマートフォンケースの派手な柄に目を止めた。アイボリーを基調とし、藍色の縁取りがある。その真ん中に、真っ黒な羽と大きなとさかを持つ雄鶏が描かれていた。胴と大きな尾に赤いハートが描かれ、白や黄色の点々が鶏の身体を彩っている。
「かわいいケースですね」
「ありがとう。地元の民話に出てくる鶏で、ガロっていうの」
「へえ」
聞いたことがなかったが、目を引くデザインだ。
「よせ。こいつらに関わると、ろくなことがないぞ」
でうすが横槍を入れてきたが、瑠唯は無視した。マリアは余裕のある笑みを浮かべてみせると、瑠唯に尋ねた。
「猫ちゃんの名前は?」
「でうすと言います」
「
半ば呆気にとられたように、マリアがでうすと瑠唯の顔を見比べた。
そういえば、オリベイラというのはポルトガル語の苗字だ。でうすはポルトガル語なので、マリアには直球で意味が伝わってしまう。
「ええい、腹が減った」
我慢の限界に達したでうすが、肉球でパンチを繰り出してきた。さすがに焦った瑠唯は、いそいそとマリアに頭を下げた。
「あ、お腹空いてるみたいなので、すみませんが失礼します」
「ええ、どうぞどうぞ」
うなずいたマリアに会釈して、瑠唯は玄関扉を開き、外へ出た。自動点灯の外明かりが灯る。同時にでうすが、瑠唯の腕からするりと抜けて地上におりた。先に立って、速足に家へと歩き出す。
「俺を待たせるな」
「ごめんって」
「まったく、ああいう輩は
「そういうこと言わないの」
壱岐は神道の洲である。対して、長崎県本土をはさんで西の五島列島は、隠れキリシタンの信仰が何百年と続くクリスチャンの地だ。島の中に数十もの教会があり、今でも信仰を持って暮らしている人がいる。
生きている年月が長いだけに、でうすの歴史的知見はまあまあ深かった。だが、現代的な価値観がアップデートされていないので、時おりとんでもなくポリコレに反したことを言う。彼の言葉がわかるのが自分だけでよかった、とよく思う。
施錠されていない玄関を開け、照明をつけた。玄関から奥へのびる古びた廊下に、でうすの食事用の器と食料がある。板張りの床に膝をつき、白い器にキャットフードを入れると、でうすは破竹の勢いで食事を始めた。
「うむ、たまらん」
「発情期が過ぎたら、今度は食欲が爆発するの?」
夏のあいだ発情期だったでうすは、食欲が減退し、気分の上下も激しかった。最近はそれがましになっていたが、代わりに少しでも食事が遅れると、空腹に耐えられなくなる。
「そのようだ。まったく体を持った途端、魂はその付属物になりさがってしまうものだな」
妙に哲学的なことを言って、でうすは隣の器から水を飲んだ。
「夏の間はまともに食べられなかったが、飯がこんなに旨かったとは」
気持ちはわからなくもない。身体の調子が悪ければ、情動も行動も、否応なくそれに引きずられる。普段できていたことができなくなり、思いもよらないことを考えたりする。
思案に沈んでいた瑠唯を現実に引き戻したのは、通知音だった。スマートフォンをポケットから取り出すと、新たに一件の予約が入っていた。
「――あ」
「何だ」
「明日一件、予約が入った」
予約者は瑠唯と同い年の男性で、マリアと同じく二週間の長期滞在だ。これは丁重に迎えねば、と気を引き締める。
備考欄に『芦辺港でピックアップをお願いします』とあり、博多から夕方に到着すると書いている。レンタカーを手配していないのだろうか。ソフィアと言い、車なしで観光する客が続くのは珍しかった。
「バスで観光するつもりなのかなあ。車なしで到着するみたい」
「愚かだな。モータリゼーションの進んだ田舎の恐ろしさを知らんのか」
でうすは夕食をぺろりと平らげ、満足そうに小さな舌で口の周りをなめていた。
ごくたまに、公共交通で観光するつもりで島へ来てしまう人はいる。まだ青嵐に迎えたことはないが、もしそうなら島内事情を説明しなければなるまい。
運転ができるならレンタカーを借りることになるが、難しければ瑠唯が観光ガイド兼運転手をすることになる。毎日の清掃や事務の合間を縫ってしか対応できないので、二週間もてなしきれるかどうかは心許ないが。
瑠唯は、満足げに顔を洗うでうすを見ながら立ち上がった。こういう他愛ない話の相手になってくれるあたり、彼にありがたみを感じるときもある。
「もしペーパードライバーだったら、私による観光ツアーかな」
「ふむ。別料金の徴集がはかどるな」
彼の言う通りだった。いちおうサービスとして、瑠唯が添乗する手作り感あふれるガイドツアーを用意している。ただ青嵐は、お手頃な値段で宿泊したいゲストが多いので、需要は高くない。
二週間泊まる彼が何度も利用してくれれば、経営者としては嬉しい。他の予定をやりくりしてでも対応するべきだった。
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