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 斎の名前を出すと、朔はやや拗ねたような顔をした。


「兄貴、俺のことは瑠唯に喋りようのに、瑠唯のことは俺に教えてくれん」

「私の話はいいよ、別に」


 急いではぐらかし、瑠唯は話題を変えた。


「茄子、ありがとう。佐知ばあちゃんに、私からもよろしく言っといてね」


 朔が曖昧にうなずいたとき、瑠唯のスマートフォンから通知音が鳴った。画面を取り出して見てみると、オンライン予約が一件入ったようだ。


「大丈夫?」


 すぐにスマートフォンをしまった瑠唯に、朔が尋ねた。


「大丈夫。予約が入ったってお知らせ」

「忙しいんやね」

「普段の家事はおばあちゃんにおんぶにだっこだけど、仕事はひとり社長だからね。貧乏暇なし」


 肩をすくめてみせたが、朔の表情は微動だにしなかった。ただひたすら、瑠唯に目線を注いでいるだけだ。


 気まずい。


 思ったとき、朔が不意に沈黙を破った。


「忙しいところ、ごめんな」

「いや、そんなことないけど」


 歩き出した朔を、瑠唯は追った。休耕地のあいだを縫ってなだらかな斜面をくだってくる私道に、朔のものと思しき車が停まっている。


「ここ、入ってくる道狭かったでしょ。駐車場で転回していってね」


 狭い道では車を切り返すのが難しいので、瑠唯は言った。


「ありがとう。そうする」


 静かに言って運転席に乗り込むと、朔は車を出した。駐車場でゆっくりと転回し、走り去っていく車を見送ると、いつの間にか足もとにいたでうすが言った。


「あいつ、猫は嫌いなのか?」

「さあ。聞いたことない」


 名前も訊かれなかったことに憤慨したのか、不機嫌そうだ。でうすは美形の猫として称賛されることに、既に慣れすぎていた。自分のことを可愛いと誉めたり、名前を瑠唯に尋ねてこない人間に対し、不届きだと言わんばかりの態度をとることがある。


 でうすはふんと鼻を鳴らした。


「あれはどこのどいつなのだ?」

「月読さんの次男坊だよ。ふだんは郷ノ浦で働いてる」

「奈津の茶飲み友達の孫か」


 でうすは奈津が友人知人を呼んでいるとき、縁側や茶の間でくつろいでいることも多い。いつの間にか、島内の人脈を把握するようになっていた。


「猫に敬意を払わないとは、不届きな」


 でうすは壱岐に降臨する姿を選ぶとき、知り合いの神から「猫という獣は人間に人気らしい」と吹きこまれた。馬の姿で降臨しようとしていたでうすを宥めるためだったと思うが、本人はそれを深く信じたらしい。そして猫を依り代に登場した結果、人にちやほやされることに味を占めてしまったようだ。


「壱岐にいつから猫がいると思っている」


 彼の言うとおり、壱岐には古代から猫が住んでいた。島の中ほどで見つかったカラカミ遺跡からは、日本最古の家猫の骨が出土している。だが、だからといってすべての市民が猫をあがめるわけはない。瑠唯は踵を返し、ゲストハウスに戻った。




 その日の夕方の船で、博多から長期滞在の宿泊客が到着した。郷ノ浦港でレンタカーを借りたらしいその客は、慣れた様子で運転し、駐車場にすべりこんだ。


 だいたいの到着時間を聞いていた瑠唯は、玄関を開け放して彼女を待っていた。車の音を聞きつけて出て行くと、折しも運転席から人が降りてくる。半袖のシャツにジーンズ、スニーカーというカジュアルないでたちだ。ややくせのある黒髪を、後ろでひとつにまとめている。


「こんばんは」


 朗らかに日本語であいさつした彼女は、歩み寄った瑠唯に慣れたしぐさで礼をした。外見は完全な西洋人だが、振る舞いは日本人だ。予約時の情報によれば、歳は瑠唯より二歳下の二十五歳だった。化粧っ気の薄い顔に、人懐っこい笑みを浮かべていた。


「こんばんは。藤原と言います」


 そう挨拶すると、彼女も笑顔で名乗った。


「予約してたマリア・オリベイラです。――車、ここでいいですか?」

「大丈夫ですよ。荷物、お持ちします」


 マリアは二週間の予約をしている。日本学、とくに神道や日本神話の研究をしていて、壱岐滞在は現地調査と論文執筆のためと予約情報に書いていた。車の手配も自分でしていたから、これまで何度も日本に来ていて慣れているのだろう。


 瑠唯はトランクから出されたスーツケースを受け取ると、マリアをゲストハウス内へ案内した。


「青嵐って、素敵な名前ですね」


 玄関脇の檜の板に毛筆で書かれた宿名を、マリアは感心したように見上げた。褐色の目は穏やかな好奇心に溢れている。


「ありがとうございます」


 ドアを閉めながら礼を言う。存外に大きな音が出てしまい、玄関ホール隣のフリースペースで本を読んでいたソフィアが、びくりと肩を震わせた。少し大げさなくらいの動作だった。


「すみません、驚かせちゃって」


 瑠唯が言うと、ソフィアは上目遣いにこちらを見ながら、いえ、とかぶりを振った。すらりと背が高いのに、常に遠慮がちな様子から実寸より小さく見える。今も、音に驚いたというよりどこか怯えたような雰囲気だった。


 マリアは一足先に靴を脱ぎ、吹き抜けを見上げていた。白い壁と真新しいフローリング、天窓の採光のおかげで、玄関は明るい。

 瑠唯を振り返って、マリアが尋ねた。


「壱岐って、春一番発祥の地なんでしたっけ。青嵐って名前は、それと関係あります?」

「春一番は、まだ寒い頃に吹く風なんですよ。青嵐は五月とか六月の風なので、どちらかというと初夏の言葉です」

「へえー。ひとつ賢くなりました」


 嬉しそうに言うマリアを、二階にある女性用のドミトリールームに案内した。マリアの他には現在、三人の宿泊客がいる。ソフィアの他の二人は、各自自分のベッドでくつろいでいた。


「荷物はここに置かせていただきますね。設備をご案内します」

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