3

「今日はたまたま大丈夫だったけど、本当にやめてよね」

「ええい、何だかそわそわしたから仕方ないのだ。そろそろ島に禍つ物が近づいているのかもしれん」

「また適当言って」


 苦言を呈しながらシーツを拡げ、物干し竿にかけたとき、背後から足音がした。


 息を詰めて振り返ると、段ボール箱を抱えた幼馴染の山口さくが立っていた。春の陽光のもと、白と浅黄の神職の装束が眩しいくらいの明るさで目に飛び込んでくる。浅黒く彫りの深い顔立ちにはやや困ったような、驚いたような表情が浮かんでいた。


 そりゃそうだ。はた目には、二十代後半の女が大声で独り言を言っているようにしか見えないのだから。


「――おはよう」


 妙に力の入らない声で、どうにか言った。


「おはよう」


 朔も返した。男性の中でも、低い声だと思う。声変わり前の可愛らしい声のほうが聞いた回数が多いので、少し違和感を覚える――本人には言わないけれど。


「聞いてた?」

「うん。猫と話しよった?」


 そよぐシーツの下で寝そべっているでうすを、朔が視線で示した。独り言よりは、猫との会話のほうが外聞が良いだろう。瑠唯はあわててうなずいた。


「そう。ごめん」

「別に良いけど」


 大人になってから妙に落ち着いた朔は、しかし少しだけ居心地悪そうにした。そりゃ、そうだろう。猫に大声で話しかける女など、正気と思えない。


「ばあちゃん、おる?」


 瑠唯はすぐさまかぶりを振った。奈津は茶飲み友達のところへ出かけたばかりだった。


「今いない」

「じゃあこれ、預かっとってもらえる?」


 朔が手に持った段ボール箱を一瞥して言った。


「うん」


 瑠唯が箱を受け取ろうとすると、朔はいい、と静かに制止した。


「縁側でいい? 運ぶけえ」

「うん――ありがと」


 シーツを洗濯ばさみで留めてから、瑠唯は朔を追って歩き出した。雪駄がアスファルトを擦る足音が妙にゆっくりと響いた。


 一歳年上の朔は、日本最古と言われる月読神社の次男坊だ。今日は神職の装束を着ているが、ふだんは島の酒造で働いている。神社とここは島内では決して近くないのだが、祖母同士の仲が良かったため、小さなころは時々遊んでいた。


 とはいえ中学に上がって以降、瑠唯の帰省はひどく間遠になった。大学を卒業する間際、久々に会ったときは、まったく別人に向き合っている気がしたものだ。記憶のなかの華奢で快活な少年と、目の前の静かで大柄な青年が、どこかつながらなかった。


 社会人になってからはより忙しく、瑠唯は島にほとんど来なかった。三十間際になった朔は、いよいよ何を考えているかわからない。青嵐を開業するため戻ってきてから、会うのは初めてだ。島に引っ越してきたとき、彼の祖母や兄にはあいさつしたものの、朔はその場にいなかった。


 一緒に外遊びをしていた少年が、いつの間に荷物を女性に持たせない紳士になったか、まったく不可思議だ。


「ここでよか?」


 縁側に段ボール箱を下ろして、朔が尋ねた。瑠唯はうなずいた。箱には丸々とした茄子がいくつも入っている。


「ありがとう。佐知ばあちゃんの畑の?」

「うん。こないだ奈津ばあちゃんから、ショウガもらったお返しだって」


 ふむ、と瑠唯はふたたび頷いた。もらい物を預かったときは誰から、何に対しての贈り物なのかを控えておく必要がある。奈津の人脈のたゆまぬメンテナンスに不可欠な情報だ。


 茄子から顔を上げると、こちらを凝視する朔と目線がぶつかった。顔の濃い彼と正面から目が合うと、本人にそのつもりはなくても妙に威圧感がある。どぎまぎして目を逸らすと、ふいに彼が口を開いた。


「瑠唯、帰って来とったんだ」


 帰って来た、という言い回しが不思議だった。瑠唯が壱岐に住むのは今回が初めてなのに。そう思いつつも、頷いて口を開いた。


「今年の始めに引っ越してきたの。もともとゲストハウスやりたかったんだけど、ここならおじいちゃんの遺した建物があるし、ってことで」


 我ながら落ち着きのない語調で、瑠唯は一気に説明した。話している間にも、朔の視線がじっと顔に注がれている。


「へえ」


 平坦な口調は納得したようにも、していないようにも聞こえた。瑠唯は居心地の悪さを振り払うように、慌てて言葉を継いだ。


「引っ越しのあいさつで、いっちゃんとか佐知ばあちゃんに会ったんだけど、聞いてなかった?」


 ああ、と思い出したように朔が自身の装束を見下ろした。


「今日はこの格好だけど、ふだんはこっちで働いてるんよ。最近あんまり、実家に顔出してなかった」

比登都柱ひとつばしら酒造だっけ。いっちゃんから聞いた」


 朔の兄のいつきも、瑠唯は小さなころから知っていた。朗らかで、笑顔でいるときのほうが多いタイプの人間だ。朔とは好対照である。歳が少し離れているので、朔と比べると昔も今も接点はそれほどない。ただ、とにかく気さくなので、いつ会っても久しぶりの気がしない。


 瑠唯が挨拶に訪れた時も、斎は満面の笑みで対応してくれたのだった。


「へえーあの! ちっちゃかった瑠唯が! 朔と探検しては転んで泣いてた瑠唯が!」


 家じゅうに響き渡る大声で、斎はしきりに感心した。家の奥から呼ばれて出てきた彼の四歳の長男が、ひどくうるさそうな顔をしていたのが印象的だった。おそらくは似たようなことを、他の人間にも言っているのだろう。


「奈津ばあちゃんもこれで寂しくないし、じいちゃんも浮かばれるやろ」

「そうだと良いんだけど」

「泣き虫瑠唯が社長なあ。おまえも頑張ったら社長になれるかもしれんよ? 社長なら、比登都柱酒造に雇われて、奴隷のように働きよう朔とは大違いやけえなあ」


 そう言いながら斎は、長男の頭をガシガシと撫でていた。うざっ、と彼が呟いた声は、斎に聞こえているのかいないのかわからない。


「あいつは昔っから、頭がいいのに度胸がないんよなあ。好きな女の子を飯ひとつ誘えん。夜はハードル高いけえ、まずはランチから! って俺が伝授しとうのに」


 同意するのも憚られ、苦笑いを返すしかなかったのを覚えている。朔の静かな目には、自分が壱岐に来た背景も見透かされてしまいそうで、心から会いたいとは思えなかったことも。

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