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「お客さんが猫アレルギーだったらどうするの?」
無事にソフィアのチェックインが終わったあと――長期宿泊者にしては珍しく現金払いだった――、瑠唯は裏の物干し場でシーツを干しながら尋ねた。久しぶりに気持ちよく晴れたので、今日は洗い物を天日干しすることにしたのだ。港への行き帰りも爽快な気分で臨めると思ったのに、思わぬところで横やりを入れられた。
瑠唯の説諭も虚しく、猫の態度は非常にふてぶてしい。座った姿勢で器用に後ろ足で首を掻きながら、あくびをした。
「細かいことを言うな」
「でうすは人間アレルギーがないからわからないだろうけど、人間には猫アレルギーってもんがあるの」
「はあ」
「旅行を楽しんでるところに、急に猛烈なかゆみに襲われたら嫌でしょ?」
猫のことは、でうすと名付けた。ポルトガル語で神という意味だ。直球なネーミングになったのには、わけがある。彼が意地でも名乗らなかったからだ。
「俺が誰かは、人には明かせん」
棲みついた最初の日に、彼は宣言した。人の家で面倒を見てもらおうというのに、名乗りもしないとは良い度胸である。
「なんで?」
「色々あるが――」
縁側で小さな籐のかごに身を沈めながら、でうすは答えた。外には畑が広がるばかりで民家はない。奈津もいなかったので、瑠唯は人目を気にせず話しかけた。
「利益相反になる」
急に法律家か投資アドバイザーのような言い回しをした猫を、瑠唯は凝視した。やはりこの動物は神でも何でもなくて、自分はたちの悪い手品に引っかかってしまっただけなのではないか。
「俺は神だ。特定の人間に、偏った利益を授けるわけにはいかん。だが、俺が何の神か明かしてしまった時点で、それを防ぐことは難しくなるからな」
「役所みたいなこと言う」
「それはそうかもしれん」
認めて彼は、小さなかごの中で身動きをした。ふちから白い体がはみ出しそうなくらい体がめり込んでおり、動くとみしみし音がする。猫は自分より小さい容器に収まるのが好き、と友人が言っていたのを、瑠唯は思い出した。
「まあ、あまねく民に資する存在だから、役人みたいなものかも知れんな」
瑠唯は息をついた。特定の民に利益は与えないのに、特定の民に依存して暮らすというのは、解せない。
しかし奈津は、この猫を飼うと早々に決めてしまった。近所に聞き込みをしても、外見の似た猫の行方不明情報は出ていなかったらしい――当たり前だが。ならばということで、猫の飼育に必要な道具をそろえにさっそく出かけてしまった。名前は瑠唯ちゃんがつけたら、と笑顔で言い残して。
「じゃあ、でうすって呼ぶね」
何の神かはわからないし、外見の特徴をとらえようとすると、浮かんでくるのはありきたりな名前ばかりだ。だったら、属性にちなんだ呼び名にしようと思う。
でうす本人はしかし、怪訝そうな顔をした。
「何だそれは。
「ポルトガル語で神って意味だよ」
瑠唯は大学在学中、教養科目としてスペイン語を学んでいた。まあまあ使えるレベルまで習得できたので、卒業旅行や業務でも役に立った。卒業旅行でスペインに行き、隣のポルトガルにも足をのばしたとき、デウスという単語を目にした。長崎県の隠れキリシタンが神をでうすと呼んでいたことと結びつき、妙に記憶に残っていたのだ。
「なぜだ。なぜ南蛮語にする」
妙なこだわりがあるらしく、でうすは急に鋭い目つきをした。だが、相手は猫なので瑠唯は動じない。
「日本語で神、って呼ぶのも変だし」
「日本語の、もっと違う名前にしろ。何かあるだろう、何か」
確かに、あるだろう。しかしその日瑠唯の頭は、ゲストハウスに初めての客を迎え入れることでいっぱいになっていた。猫の名前を考えている暇はない。
「今日は忙しいの。今日来たでうすが悪い」
瑠唯は立ち上がり、ゲストハウスに向かって歩き出した。
でうすはまだにゃーにゃー言っていたが、かごから出てこなかった。小さな空間に収まるのが、よほど心地よかったらしい。
ちょうど奈津の運転する車が戻ってきたので、瑠唯はすぐさま、でうすの名を伝えた。
「でうす?」
奈津は首を傾げていたが、まあ良いんじゃないかな、とあっさり受け入れた。昔猫を飼っていたこともあり、奈津は手際よく、でうすを飼う体制を整えていった。
畑仕事以外にすることを見つけて楽しそうな様子を見ていると、ゲストハウス業の補助を断っていることが心苦しくなってくる。ただ、ひとりで切り盛りするという実感を得ることが、今の瑠唯には必要なのだ。のっけから奈津に頼り切って、そのペースを乱したくはなかった。
でうすが動物病院に連れて行かれるときに抵抗した以外、万事は順調に進んだ。しつけがほとんど要らない、と奈津は喜んでいた。瑠唯が陰で口酸っぱく家のルールを言い聞かせているので、そりゃそうなのだが。
島を守るとか何とか言っていたわりに、でうすは日がな一日のんびりしているだけだ。時おりゲストハウスにくっついてきては茶々を入れる。ゲストが猫アレルギーを持っていないと確認できた時だけにしてくれ、と厳しく伝えていたのに、車へはすっかり忘れて忍び込んだようだ。出発前に換気のため、ドアを開け放していたときに乗り込んだのだろう。
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