真夜中の一冊が僕を出会わせる
ここに来て何年目なのかを気にしなくなって数年が過ぎた。パパとママから親密さが増して、親父、母さんと呼び方は変化をした。幼い頃の記憶は嫌なことを思い出すこともあるけれど、それ以上に親父と母さんからは沢山の思い出を貰っている。与えられたと僕に感じさせることのない2人には正直に凄いと思う。
思春期真っ只中を生きている僕にとって1つだけ不満があるとすれば、2人の
でも、嫌悪することもなく、自然に受け入れることができているのだから良いことなのだろう。
2階の自室で高校の課題とタブレット教材を済ませて、お気に入りの漫画を読んでいるとご飯だよと呼ぶ声がドア越しの階段下から聞こえて来た。
「今行く!」
大声で返事をして、漫画を本棚に優しくしまうと僕はダイニングへと駆け降りていく。
ダイニングにはすでに料理が並んでいて、3年ほど前から一緒に暮らしている小学1年生の由美香も箸を並べるなどの手伝いをしていた。僕もコップを出したりお茶を入れたりとしながら準備を整えると、見計らったように親父が姿を現した。お手伝いを終えた由美香が親父の前に立つと両手を広げた。
「頑張ったね、由美香、偉い!」
しゃがみ込んだ親父が優しく由美香を抱き上げて撫でると席まで連れて座らせる。母さんと僕、親父が座り4人揃ってのご飯となる。普段なら祖父母も一緒に食べているけど、今は慎ましやかに溜めた年金で海外旅行へ出かけていた。世界一周をしていて帰ってきたら娘夫婦にパラサイトするから大丈夫と豪語して親父と母さんが引き攣った笑みで2人を送り出したのを思い出す。やりかねないのが怖いのだ。
食事が終わると1時間程度はみんなで揃って過ごすのが日課だ、もちろん、みんなでお喋りなんてことはない。スマホで遊んでいても、ゲームをしてもいい、リビングの隣は和室に繋がっていて、その先では母さんと由美香が2人、ぬいぐるみで遊びながら楽しそうに女子同士の話をしている。親父はリビングのソファーに寝そべりながらスマホゲームに興じ、僕は静かに単行本を読んでいた。
和室にある本棚にはたくさんの蔵書が置かれている。なんでも曽祖母が本屋さんだったそうで、その中でも曽祖母と母さんが読んで面白かった本達が残されているらしい。絵本もたくさんあるので母さんに甘えた由美香が読み聞かせて貰っているのをよく見る。小学生になっても絵本好きが変わらないところは可愛らしいと思うし、素直な感想は聞いていて羨ましくなる。
手元の一冊を読み終えてしまったので本棚に戻すと、ふと、その近くにあった古い背表紙に気がついた。
『ー こころ ー 夏目漱石』
教科書でも習うくらいの名作だから、読んでみようと手に取ると、母さんがそれに気がついて手を止めた。
「こーちゃん、それを読むの?」
「うん、読んでみようかなって・・・。駄目かな?」
きっと母さんの声色が違ったからだろうか、親父もこちらを一目見てゲームでだらけていた顔が引き締まった。
「浩平、大切に扱ってくれよ、それは我が家の宝物だからね」
「う、うん」
2人の声が少し揺れていた事が気になりながら僕は親父が座っている反対側のソファーに腰掛けて本を開いた。
『親愛なる陽子へ、これを君に送ります』
英文が綺麗な字体で描かれていた。
陽子は曾祖母の名前であることは両親から聞いて知っている。つまりこの本は曾祖母に誰かが送った本ということだろうか、2ページ目を捲ると英文が続いていて本の中身が全くの別物ということが理解できた。
「母さん、この本はなんなの?」
「そうね、それは読んでみたら分かるんじゃないかな?もし、その意味を理解できるのなら、浩平も大人の仲間入りね」
潤んだ瞳をきっと擦っているであろう母さんを心配そうに由美香が覗き込んでいる。前のソファーでは親父が鼻を啜る音が聞こえてきた。
「でもね、読むなら自室でゆっくり読むといいわ」
「持ち出していいの?」
あの本棚の本は持ち出してはならない決まりで、常に本棚に戻すようにと教育されている。もちろん、本を大切に扱うことの大切さもそこで身についている。
「いいのよ、でも、絶対に汚さないで。パパが言った通り、それは我が家にとってかけがえのない宝物なの、それだけは約束してね」
「う、うん。分かった」
必ず守らなければならない決まりを言い渡されたように感じてしまうほど、両親の言葉は気持ち籠っていたのが印象的だったけれど読んで理由は分かった。
生きてきた中でこれほど自然体でいて美しい文章にであったことはなかった。
言い表すなら、水が流れるように、風が吹くように、火が燃えるように、花が咲くように、当たり前の想いなのに、それがひしひしとまるで岩を砕く水滴のように伝わってくる。曾祖父は戦地で死んだと聞いたことがある、だから、これはきっと未来の愛しささえも思いに込めたのだろう。1文字、1文字にすら何か深い意味が込められているのではないかと思えてくるほどに。
泣き尽くして涙と震えで固まった体を溶かすために僕は久しぶりに深夜のコンビニまで歩いていく、深夜の散歩に出ると親父に伝えると「ああ、ゆっくりと味わうといいよ」と気の利いた返事をくれた。
星は少ししか出ていないけれど、その代わりに満月がその白い光を道路に落として、静まり返った町を優しく包み込んでいるかのようだった。歩くたびに本を反芻しながら物思いに耽っていると、公園にたどり着く。コンビニに抜けるには一番の近道だからと足を進めていくと、ふと、暗がりのベンチに人影があることに気が付いた。不審者かと警戒しながら進んでいくと、それは金髪の着崩した制服姿の女子だった。
1学年上の有名な先輩、もちろん悪い意味でだ。喧嘩っ早くてガサツ、パパ活なんだかをして居るという噂もあったような気がするが、まぁ、噂には事欠かない先輩であることは確かだろう。
「何見てんだよ」
低く威嚇する声が聞こえた。無視しようかと思ったのだけれど、それはあいにくと出来なかった。彼女の右頬は腫れあがっていて唇は切れているのが月明りの元でも良く分かったから。
「あっちいけよ!」
大声でそう言われて僕は足早にコンビニへと駆け込んだ。財布には入ったばかりの小遣いがあるからと、お菓子などのついでに消毒液やガーゼなどを買い込むと、僕は来た道を戻った。彼女はベンチに寝っ転がって風に震えるように薄手のパーカーに包まって動かずにいる。
「先輩、なにしてるんですか?」
「あ?」
ふらふらと起き上がった先輩は傷のついた顔でこちらを睨みつけてきた。僕はそんな顔をされても怖いとは思わない、耐性があるからだ、親父の祖母はヤクザ映画顔負けの怒り方を親父に見せる時があるから、そんな小物のような怒り方でははっきり言うとチョロい。
「帰らないんですか?ああ、それよりも動かないでくださいね」
「なんだよ!なにす・・・」
「けがの手当てですよ、傷が残ったら大変でしょ」
払いのけようとする腕を振り払って消毒液をつけたガーゼで周りから拭いていく。傷は深く無さそうだけど腫れはすぐには引かないだろう。傷口にガーゼを張ってあげて、買ってきたペットボトルの水をハンカチでくるんで腫れたところに当てるまで、先輩は何とも言えない表情のまま呆けたようにこちらを見つめていた。
「こんな感じかな、染みて痛かったですよね、ごめんなさい」
「いや・・・、こっちこそ・・・ありがとう・・・」
自らの手で冷やすペットボトルを頬に当てた彼女が小さくそう呟いた。
「気にしないでください、あ、これ飲みます?」
買ってきた紅茶の蓋を問答無用に開けて彼女に差し出す。きっと断られるだろうからあえて蓋を取って文句を言わせないようにした。
「ありがと・・・」
受け取った彼女がそれに口をつけるのを見てから、僕も隣に座って買ってきた炭酸水を開けて一口飲んだ。公園は人っ子一人いなくて、風の音だけがたまに聞こえるだけ、昼間はきっと遊ばれていた遊具達は眠りについて、静寂が自由気ままに遊びまわっているのが分かるほどだ。
「お前、あたしのこと知ってるのか?」
「鳳来寺高校の2年生の先輩ですよね、僕はそこの1年生なんです」
「じゃぁ、噂ぐらい知ってんだろ?」
強がっていても言い回しは寂しげな言い方だった。
「もちろん、知ってますよ。先輩、噂がありますもんね」
「じゃぁ、よく声をかけたな。普通ならほっとくだろ」
寂しげな言い方に怒気が現れる。
「だって、噂は噂でしょ」
「え?」
きっと地の声なのだろう、素敵な声があっけにとられたようにそう言った。
「噂ほど当てにならないものはないですよ、少なくとも僕は先輩と今日初めて話しているのですし、なんでも額面通りに信じたってつまらないじゃないですか」
「お前、変わってるって言われない?」
「そう言う先輩だって変わってるんじゃないですか?」
「違いない・・・かな」
声のトーンが落ち込んだので先輩は噂通りの人間でないことが良く分かった。単純と言われるかもしれないけど、過去があった分、人間を見る癖は人並み以上に備わっているのは否定できない、親父と母さんを疑ってかかったあの頃のように。
「てか、先輩、家には帰らないの?」
一番当たり前のことを聞いてみる、これが重要だ、ここから話の進め方が変わってくるのだから。
「家なんて、ねぇよ」
「え?家がない?」
そこからは身の上話を聞くこととなった。
きっと傷ついていたから話すのも早かったのかもしれない、情に付け込んだようで心苦しかったけれど彼女の話に真剣に聞き入る。
中学校3年の夏休みに彼女は家族を交通事故で失ったそうだ。彼女だけが助かり、そして祖母の元へと預けられたけれど、祖母も冬休みに他界してしまい、それ以来、叔父と名乗る男がやってきて彼女の後見人に勝手になってしまった。家は売り払われ、保険金も取り上げられて、あとはお決まりの不幸の道という感じだ。あまり、深く書かないのは彼女の名誉のためでもある。人間誰しも知られたくない秘密の一つや二つあるのだから。
「なんで、お前にこんな事話しちゃうんだろうな」
「先輩、お前じゃないですよ、あ、浩平と言います」
「私は
「どうして?素敵な名前じゃないですか?」
「素敵?浩平は頭おかしいのかな?キラキラネームだぞ」
「外から見たらキラキラネームですけど、でも、両親は真剣に考えて名付けたと思いますよ?」
僕が真剣な顔で言ったので先輩が驚愕の表情を浮かべた。
「きららって、平仮名で書いても優しいじゃないですか」
「雲母って知ってるか?それを、きらら、とも言うんだよ。それでどれだけ馬鹿に・・・」
「なるほど、そうとも取れますけど、雲母って美術工芸品によく使われてるって知ってます?」
「は?なにいってんだ」
「きらきら光るんですよ」
「それとこれとは・・・」
「違わないですよ?愛しいわが子にそんな馬鹿な意味の名前を付けることなんてないんですから」
身に覚えがあった。
浩平という名前が嫌いだと言った時、きちんと怒られたことがある。それは一番最初に授かる愛のある名前なのだから、今はまだわからなくてもいいから、簡単に否定してはダメと、自分自身を貶めることになるから絶対に言わないでねと両親に泣きながら怒られた。
「うちの親なら・・・」
「先輩んちは一緒に暮らしてたんでしょ、なら、大丈夫。僕は両親と血がつながってないんです」
「え?」
「里子なんですよ、だから、血のつながりはありません。だからと言って、それを卑下することもないですけど、大切じゃなかったらほっておかれますよ。でも、今の先輩はそうですかね、その叔父とかいうやつにひどい目にあわされてる」
思わず伸ばした手が先輩の頬に触れてその違和感に気が付いた。
「先輩、熱ありません?」
おでこに頬の手を移動すると驚くほどに熱かった。思わず手を放してしまうほどに酷くて、でも、それをおくびにも出さない先輩の強さに驚嘆してしまう。
「今から家に来ませんか?、いや、来てください」
「いや、それは・・・。やっぱりおかしいよ、お前!」
「いいから、さ、ね」
強引に手を引きふらふらと立ち上がった先輩に手を貸して多少強引に我が家へと帰り着く。
着いた頃には先輩はかなり辛そうで、親父と母さんに事情を説明すると快く迎え入れてくれた。話を最初から否定しない、しっかりと聞いた上で判断してくれる2人に感謝しながら、客用の布団を押し入れから出して引き、母さんが水を飲んで落ち着いた先輩に服を出して着替えさせたりしている。着替えているときは部屋の外で待っていたけど、母さんの「この子、私より胸大きい!」とか「あ、私のほうが派手ね!」と笑っている声を聞いて、親父と2人で顔を真っ赤にしながら俯いた。こういう話は親父も苦手なんだという共通点もさらに1つ見つけることができた。
翌日、僕を担当してくれたという相談員さんに親父が連絡を取ってくれて、そこから色々な手続きが始まった。結局、警察も介入して先輩の叔父は逮捕され、先輩の不幸な生活は終わりを告げたのだった。
「浩平、お皿」
「先輩、危ないから!」
突然、目の前に料理の乗った皿が差し出される。慌てて受け取りながら差し出してきた先輩に文句を言った。
「先輩じゃない、きらら」
少し膨れっ面で怒る先輩、きららがいる。
あれからずっときららは我が家で暮らしている。後見人制度をNGOが担当してくれることになり、面談で住処を我が家にしたいと言ったのだそうだ。もちろん、人柄を知っている我が家は反対する人などいないから結果はこの通りだ。
「きらら姉ちゃんの箸!」
由美香が箸を差し出すと頭を撫でて嬉しそうに受け取ったきららは、由美香の髪の毛を優しくなでて、柔らかそうな唇でおでこにキスをする。
「ありがと、可愛い由美香ちゃん」
そして軽く抱きしめる。抱きしめられた由美香が万遍の笑みを浮かべて喜んでいる。我が妹は本当に可愛らしい。
食卓に全員が揃って夕食を囲む、きららは僕の横で綺麗な所作で鯵の塩焼きを崩しては器用に食べてゆく。噂なんて本当に当てにならないものだ。ご両親の教育が良かったのだろう、生活のほとんどをこなすことができる立派な女性だ。その魅力に内緒だけど僕はどんどんと惹きつけられている。
食後のみんなで過ごす時間もきららは隣に居て、スマホでゲームをしたり、ネットサーフィンで面白い商品や動画を見つけては僕に見せてくる、それを見ながら2人で笑っていると由美香が寄ってきて、母さんや親父も引き寄せられて新しい団らんの形ができてゆくようになった。
お風呂上りに水を飲みながらリビングに居るときららが入ってきた。手には少し古びた財布を持っていて大切そうに扱っている。それはきららのお母さんが使っていたもので宝物だそうだ。
「ちょっと一緒にコンビニ行かない?」
「ん?いいよ」
時間は深夜に近く出会った時と変わらない月明りの下を互いに並びながら歩いていく。ふいにきららが手を握ってきた。
「なに?」
「いや、別に何でもない」
少しムスッとしたきららを不思議に思いながら、公園を避けて少し遠回りする道を選んできららが手を引きながら先を歩いていく。
「月が綺麗ですね」
きららが唐突にそんなことを言った。
「え?」
僕は一瞬なにを言っているのか分からずに月を見上げた。確かに月光が輝く美しい満月だった。
「なんでもない、聞いてないならいいや」
少し寂しそうにそう言ったきららに僕も言葉を返す。
「綺麗な月は好きですよ。それがどんな月でも・・・。どうかな?」
振り返ったきららがじっと僕を見てくる。
「どんな月でも?」
「うん、どんな月でも、月の魅力に十分に引き寄せられてるよ」
あの出会いから過ごしていけば、どんな人かなんてすぐに分かってしまうものだ。きららは立派な女性であることに嘘偽りはない。ちょっと過ちがあったとしても、それが何だというのだ。親父の祖母が言っていた、「花は枯れたら汚くなるの、中身が良ければそれでいいのよ。それがいい女の秘訣ね」と。
「私でいい?」
「きららがいい」
「ありがと!」
ふわりと優しい洗剤の香りと共にきららが僕を抱きしめる。僕もきららをゆっくりと抱きしめる。
互いに鼓動が分かってしまうくらいに。
そこから手をつないでコンビニまでの往復を時間をかけて楽しんだ。帰ると親父には小言を言われたけど、玄関先で手をつないでいるのを目ざとく見つけた親父は、短めのお小言で済ませてくれた。
翌朝、朝のハグを全員で済ませる。もちろん、きららと僕もする。
「きららちゃん、おにいちゃんと仲いいね」
由美香がそんなことを言ったので二人で顔を真っ赤にして俯いた。当の由美香は嬉しそうに天使の微笑みを浮かべている。
「さ、そろそろ学校よ、行ってらっしゃい」
母さんに急かされて玄関で靴を履き終え、ハイタッチをしてから家を出る。通学団の班へと向かっていった由美香が居なくなると、きららが手を絡めてきた。
「少しだけ、ダメかな?」
「別に気にしなくていいんじゃないの?」
しっかりと握り返して二人で手をつなぎながら歩いていく。
少し変わった組み合わせのカップルに鳳来寺高校ではしばらく噂になり、そして同居していることが分かると、あっという間にきららの悪い噂は吹き飛んでしまった。
一つ困ったこともある、きららが友達と下ネタで盛り上がっていた時に、アイツが寝かしてくれないと言ったらしく、しばらく僕のあだ名は「絶倫」になった。
ほら、噂なんていい加減だ、まだ、したことないのに!
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