手のひらの柔らかさ
祖母の葬儀から1年が過ぎていた。
入院していた病院から私は退院して、実家で療養しながら心と身体の調子を整えている。
葬儀からしばらくして仕事で大規模なプロジェクトを任された。頑張りところと時間を惜しむように邁進していたある日のこと、朝起きると身体を動かすことができなくなってしまった。熱を計れば39.8度と高熱であり妙に意識が朦朧とする中、私は119で救急車をコールしたところで気を失ってしまった。
次に目を覚ました時には、ビニールのカーテンに仕切られた部屋で沢山の医療機器に囲まれていた。やがて、防護服姿のフェイスシールドをした人が部屋に入ってくると、私が目を開けていることに気がついてくれた。
「絹子さん、分かる?」
酸素マスクをしている上に喉が痛くて声が出しにくい、息もし辛く苦しく、体も怠い。まるで平たい重しを布団のように被せられているようで動かすのもままならない。
「声は出さなくていいよ。わかったら頷けるかな?」
私はゆっくりと本当にゆっくりと頷く、それだけのことなのにしんどくてたまらなかった。
「よかった。私は看護師の松澤といいます。ここは吉沢記念病院です」
再び頷くと松澤看護師の目元が笑みを見せた。年齢は判断しにくいけど声からは年配のように感じる。
「先生に連絡しておきますね。まだ、動きにくいと思うけど、ゆっくり直していきましょうね」
そう言って松澤看護師は、機器の数値を確認していくと私に微笑むと部屋を出て行った。それと同時に新型感染症に罹患したのだと朧げな頭で理解した。
満足に動かせない体、苦しい、辛い、しんどい、1人のベッドで寝ているだけのことがこんなにも悲しくなるとは考えもしなかった。
ふと、手のひらに柔らかな感触があることに気がつく。ゆっくりゆっくり指先を動かしていきながら形状を確認していくと、それがやがて小さなぬいぐるみであることに気がついた。
「くーちゃん…」
丸い形をした愛着のあるぬいぐるみの感触に似ている。また、感覚は鈍いけれど20数年近く私と過ごしているのだから間違えることはないだろう。
眠気が瞼に蓋をし始めたので、その感触をできる限りの力で握ると安心できる温もりに癒されながら、私はゆっくりと眠りへと着いたのだった。
夢を見た。
くーちゃんとの出会いの夢だった。
幼馴染の陽介の家族と私の家族で旅行をした時のことだ。外宮と内宮を参拝して横丁でご飯を食べた私達は、少し走ると水族館があることを知って、互いの両親に行くことをせがんだ。やがて根負けした大人達は進路をそちらに向けてくれて願いは叶った。でも、着いて見れば大人達の方が興味津々で楽しそうだった。
陽介と2人で手を繋ぎながら素敵な水槽を見て回る。色とりどりの魚と絵本の中の水族館とは少し違ったけれど、普段見慣れない魚が泳いでいる姿は見ていて楽しい。
「きぬちゃん、人魚のモデルがいるらしいよ」
陽介が少し先にの看板を指差しながら楽しそうに笑った。
「人魚さん?」
絵本でみた綺麗な人魚を思い浮かべながら私は小走りにそちらへと駆け出してゆく、やがて、大きな水槽へとたどり着く。
「これが人魚?」
夢を打ち砕かれたような声を出していたような気がする。案内のパネルには「ジュゴン」と書かれ、水槽の中では白くぷにぷにとした胴長の体に、少し間延びしたような顔が特徴と言えるのかはわからないけれど、大きな海獣がゆったりと泳いでいた。
「不思議だね」
陽介がそう言って近くのベンチへ座ると、ゆったりと泳ぐジュゴンに興味津々といったようにじっくりと眺め始める。こうなってしまうと陽介はなにをしても動かなくなることを肌身で幼いながらに理解していた私は同じように隣へと腰を下ろした。
水槽を泳ぐジュゴンは、いや、漂うといった方が良いのかもしれない。ゆっくりゆっくりとした動きは周りの小さな魚を驚かせることなく、つぶらな瞳は可愛らしく、全体から溢れるような優しさを纏っているようで、もし、目の前にいたなら抱きしめてしまいたくなるほどの可愛らしさだということに気がついた。
「きっと抱きしめたら気持ち良さそう…」
「うん、そうだ、よね…」
陽介の方を向いて話しかけてみるのだけれど、陽介はじっと水槽のジュゴンに見入ったまま、私には振り向きもしない。でも、その真剣な眼差しの横顔を見た途端、心臓の奥の方で何かがとくんと音を立てた。
水槽の輝きが陽介の横顔を照らして、その真剣に見つめる瞳をキラリと光らせている。それを見た私の体は熱を帯びてやがて頬が真っ赤に染まるのが分かった。
しばらく陽介はジュゴンを熱心に見つめて、私は陽介の横顔を眺め続けていた。
「次に行こう!」
じっくりと観察して満足した陽介が私に振り向くと視線が合った。とたんに私の顔は熱が溢れたようになってゆき、やがて触らなくても分かるほどに火照りを見せた。
「きぬちゃん?お熱があるの?」
陽介が心配そうな顔をして右手をおでこに当てる。私はさらに顔を赤くして、よく分からない恥ずかしさのあまり俯いてしまった。
「大丈夫?」
心配そうな声で陽介は言い私の頭をさすり始めた。ますます顔が熱を帯び、いつの間にか心臓の鼓動が高鳴りを見せる。
「だ、大丈夫だから、撫でないで…」
小声でそう伝えると彼の手が頭から離れていく。何故かそれがひどく寂しく感じた。
「うん、ならよかった!」
陽介はそう言ってベンチから勢いよく立ち上がると、そして俯いた私の右手を掴んで勢いよく引き寄せた。私の頭は引っ張られるようにして彼の胸元にこつんと当たった。思わず目を瞑る。そのまま頭を抱きしめるように陽介の腕が包み込むと右耳が柔らかい胸板に沈むとその心臓の鼓動がトクントクンと音を立てて私の耳に響いてきた。
「きぬちゃん、水槽見て!」
「え、えぇ…」
戸惑いを隠すことなく狼狽しながらの私が目を開けると、目の前にジュゴンの横顔があった。つぶらな瞳が私をじっくり見つめてくる。私は猛烈に恥ずかしくなり左手で陽介を弾き飛ばそうとした途端にジュゴンが瞬きをした。それはまるで、そのままでいいのよ、と優しく諭してくれているように思えて、恥ずかしさがスッと消えてゆく、そしてジュゴンの前鰭りょうてが両方パタパタと揺れる。まるで抱きしめなさいとでも言っているかのような動きに、自然と私は突き飛ばそうとした左手をゆっくりと陽介の腰へと回していた。
唐変木で幼かった陽介はキョトンとした顔をして、私の右手を離すと私の体を両手でギュッと抱きしめてくる。私も右手を回して互いに抱きしめ合いながら、ジュゴンをじっと見つめた。
再び、瞬きをしたジュゴンが微笑みを見せた気がするが、それは見間違いではないと思う。尾鰭を動かしてゆっくり泳ぎ始めたジュゴンは私達の側から離れていき、またね、と言いたげな尾鰭の動きをして去っていった。
「可愛かったね」
「うん…」
陽介の言葉にも私は小さな返事をするのが精一杯だった。抱きしめ合うのを解くと次の魚を見に行こうと陽介が言って右手をしっかりと握られる。恥ずかしさがまた溢れてきて俯く私を気にすることなく引っ張っる陽介だったけれど、しばらくすると不意に足を止めて手を解いた。私がその場で俯いたまま立ちすくんでいると、やがて柔らかな感触が小さな右手に触れた。
「ジュゴンだって!元気だして!きぬちゃんにプレゼント!」
丸い形状をした可愛らしいジュゴンのぬいぐるみがそこにいた。あの愛くるしい目をしてこちらをじっと見つめている。また恥ずかしがらなくても大丈夫と言ってくれている気がした。
「ありがとう。大事にするね」
俯いた顔を上げて満遍の笑顔を浮かべて陽介にそう感謝を伝える。今度は陽介の顔が真っ赤になった。
「かわいい…」
ポツリと陽介が呟いたのを聞いて、私の笑顔はさらに輝いた。
これがぬいぐるみとの出会いで、常に大切に部屋に飾っていた。成長した陽介が遊びに来るたびに、見える位置にあるジュゴンに「恥ずかしいな…」と呟くのを聞くと「なにが?」とわざとらしく問い直すと「なんでもないよ」と言いながら耳は真っ赤になっているのを私は見逃さなかった。
夢が覚めてくる。
再び目を開けるとタブレットを持った松澤看護師がちょうど前回と同じ服装で部屋に入ってきた。そして、私の見える位置にタブレットを差し出してくれる。
「目を開けたらすぐに繋いで欲しいって言われている方がいて、ご両親からも承諾を得ていたから、繋いで持ってきたけどいいかしら?」
私は瞬きをして了承を告げると画面をタップする。
「絹子、目を覚ましてよかった…」
目を潤ませた陽介が画面越しにいた。
その安堵する表情を見た途端に、私も目が潤むと涙が頬を伝っていくのが分かる。
「声は出せないのは分かるから大丈夫だよ。顔を見るだけの約束だからあまり話すのは長くはダメみたい。僕が分かる?」
瞬きをして返事をすると、松澤さんが「分かりますよって言っておられます」と通訳をしてくれる。
「あ、ありがとうございます。無理を言ってすみません。絹子、右手に大切にしていたぬいぐるみを握らせてもらうようにお願いしたから、動けるようになったら見てみてね」
やはりあの感触は間違いなかった。
面会を終えた私は再び眠りにつく、右手にはあの温もりが力強く私を元気つけてくれていたのだった。
実家の玄関扉が閉まる音がして、私はゆっくりと立ち上がると少し覚束ない足取りで部屋を歩き、やがて廊下へと顔を出した。
「ただいま」
仕事が終わった陽介が帰宅したところで、私を見つけて少し疲れてはいるけれど、柔和な笑みを見せてくれる。玄関の閉まる音は両親と陽介では違うことに気がついて、それ以来、見送りと出迎えを欠かさずに行なっていた。
退院し実家へと帰ると何故か陽介がいた。両親は一緒に暮らしていけばいいじゃないかと、多分、陽介に何かしら説得されたらしい雰囲気を醸してそう言った。迷惑がっていないのをみると、乗り気であることは間違いないだろう。
仕事は辞めざるを得ず、落ち込んだ私を陽介が励ましてくれながら、傷跡の残った心と身体をゆっくりと焦らないようにしてリハビリ生活をこなす毎日だ。
病状はかなり酷かったらしく、私は生死の境を彷徨い続けて一時はエクモをつけざるを得ない状況まで悪化した。奇跡的になんとか回復を成し遂げることができ、ようやく退院にこぎつけたのだった。
寝る身支度を先に済ませてベッドに横になっていた私の隣に、ようやく寝る身支度を終えた陽介が入ってきた。
「大分、動けるようになってきたね」
陽介の嬉しそうに弾んだ声で言う。
「うん。この調子なら回復は早く進むでしょうって先生も言ってくれたよ」
私はそう返事をして右手を陽介の左手に絡めた。彼もまた優しく握り返してくれる。
「まあ、ゆっくりと無理しないようにしてね…」
「うん。ありがとう。あ、寝ていいよ?」
「ごめんね。先に寝るね。おやすみ」
「おやすみ」
そう言ったか言わないかのうちに陽介が寝息を立て始めた。寝つきの良さには毎度惚れ惚れしてしまう。
室内には常夜灯のオレンジの灯りが薄暗く室内を照らしていて、私は少し首を動かして部屋に置かれた書籍棚に飾ってあるぬいぐるみを見る。
つぶらな瞳のくーちゃんがこちらを優しく見つめていた。
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