Families ~こころと家族の交わりに~
鈴ノ木 鈴ノ子
本屋の一冊
最後の対面を終えた私は名残惜しい気持ちを抑えて後ろへと下がった。
やがて火葬場の職員が私達家族に一礼してすると棺の乗った台車を動かして火葬炉へと祖母を送り出していく。
花に囲まれ、家族に囲まれて幸せな見送りかもしれない。個人の好きだったものを家族が棺へと入れていく中、私は祖母が死ぬ間際まで読んでいた本を棺へと収めた。でも、私が手元に持っている一冊は祖母の棺に入れることはできなかった。
「それは絹子が持っていてね。きっと正孝さんの血が貴女には色濃く継がれているかもしれないからね」
病院のベッドに横たわる祖母はそう言って笑っていた。その笑顔を思いだし、そして先ほど作ってもらったばかりの掌サイズほどの遺影を本へと綴じたのだった。
待機室でその本を読みながら焼き上がりを待つ。やがて、松の間のご家族様お時間です。とご案内が入り先ほどの場所へと戻ると紙のように白い骨が台車の上にあった。差し出された金属の箸で白骨を拾いながら骨壷へと収めてゆく、そして祖母は祖父と再会できたのだろうかと思案した。
祖母の家は田舎の小さな本屋だった。
書店と言うにはおこがましい、書棚が数列と駄菓子なども扱っていたから、本屋と言った方がしっくりくるだろう。
戦前、戦中、戦後と生き残った歴史ある本屋で父がよく「昔は繁盛していたもんさ、俺も本屋の息子だからよ、勉強できないと馬鹿にされたもんだ」と祖母が入院して閉めざるをえなかった店内での片付け中に思い出したように言って昔を懐かしんでいた。まぁ、本人は東京大学に進学してそのまま居残っているのだから馬鹿にされることはないだろうと思う。
祖父は海軍軍人で戦中に戦死していた。この狭さの本屋でも切り盛りするのは大変だっただろう、でも、私が覚えている祖母の姿は穏やかだった。古ぼけて年季の入った開店当初から使っている木製レジカウンターの前に座りながら、来客なく沈黙が漂う店内で1人座って外を眺めたり本を読んだりして過ごしていた。私が行くと必ず絵本を読んでくれた、少し大きくなると漢字や算数の問題集をくれた、これには少し困ったけど、でも、1ページを済ませると喜んで褒めてくれるし、お菓子をくれるので頑張った。
問題集だけだったら私はやらなかったかもしれないけれど・・・。
やがて、高校生の夏休みに、お手伝いで私は祖母の代わりにカウンターに座っていた。アルバイトの代わりでもあったのだけれど、何もしない状態でお金を貰うのも忍びないと思い、祖母に掃除をしてもいいか聞いてみると答えはもちろんYESだ。
書棚から文庫本だったり、だいぶ昔のライトノベルだったり、はたまた重厚な事典や辞書を下ろして、書棚を拭き掃除をしてから戻していく、平積みの本の上には新聞紙をかけておき埃が落ちるのを防いでおいて、上が終われば下という感じで進めていく。全て終えて意気揚々とカウンターへと戻ろうとした矢先、片付けるの忘れていた塵取りを踏んで滑ってしまった。慌ててカウンターへ手をつくと、私の重さに耐えかねたのか、いや、私の滑った時の威力に耐えかねたに違いないと思うが、カウンターの天板が拍子にベキッと大きな音を立てながら割れた。
「だ、大丈夫かい?」
大きな音がしたから祖母が慌てて洗濯物を干していた2階から降りてきて私の元へと駆け寄ってくれる。私は手の痛みに耐えていたがしばらくすると痛みが引いてきたので、祖母に壊してしまってごめんなさいと平謝りした。
「いいんだよ、絹子に怪我がなくてよかった・・・」
笑ってそう言ってくれた優しい祖母に申し訳ない気持ちで一杯になる。私は床に散らばったものを拾いながら片付け始めていると、祖母が突然大声を上げた。
「き、絹子!手伝って!」
割れた天板を祖母が見たこともない形相で割れたところを必死に上に持ち上げようとしている。慌てて駆け寄った私も加わって天板を持ち上げるが、少し浮き上がるだけでびくともしない。そんな時、間の抜けた馬鹿な声が入口から聞こえてきた。
「おーい、絹子いる?」
幼馴染の陽介の声だった。
1時間ほど離れた私達の住む町から電車で遊びに来くると、くだらない話をして盛り上がり、そして、2人で店内の本を読んで過ごしている仲だった。
「陽介!手伝って!」
「どうした!?」
私の甲高い声に驚いた陽介が店の入り口からあっという間に私達の元へ来ると、何をしているか理解して天板を一緒に持ち上げてくれた。驚いたのはその力の強さで私達ではびくともしなかったのに、彼は安易と上へと持ち上げてゆく。
「陽介くん、そのまま持っておいて!」
いつもの聞き慣れた祖母とは違う声に陽介も驚きながらもしっかりと踏ん張って下がろうとする天板を支えると、横並びについていた引き出しを全て床へと放り投げるように荒々しく取り払って、その奥へと手を突っ込むと何かを割る音が響くと、やがてゆっくりと手を引き出してきた。
「ようやく見つけられた」
祖母のその声は若い私と変わらないくらいの素敵なものだった。取り出したものを胸に抱くようにしてしゃがみ込むと、祖母は肩を揺らし声を抑えるようにして泣き、私達2人は戸惑いながらも、その姿をただ見つめることしか出来なかった。
やがて落ち着いた祖母が涙目を擦りながら、私と陽介にお礼を言って店先にある駄菓子用の冷蔵庫から瓶ジュースを2本取り出して渡してきた。
「おばあちゃん、それなにか聞いてもいい?」
「あ、ああ、これはね」
そう言って大切そうに持っていた文庫本より大きめの本を愛おしそうに撫でた。やがて、それを私に差し出したので私も優しく受け取ると自分の膝の上に置いた。隣から陽介も覗き込んでくる。
「夏目漱石、こゝろ?」
表題はそう書かれている。こゝろは読んだことがあるから内容は知っているし、どこにでも販売されている本だ。疑問を抱きながらゆっくりと表紙を捲るとそこには英文が綺麗な字体で書き記されていた。
「親愛なる陽子へ、これを君に贈ります」
陽介がペラペラと日本語へ翻訳していく。英文学科に進学したい彼は語学だけなら堪能だった。もう一枚を捲ると、日付が書かれてその下には同じように英文が並んでいる。
「親愛なる陽子へ…」
本の中身は全くの別物であることが理解できた。
少し読み上げたところで陽介はチラリと祖母を見た。目を潤ませながら頷いた祖母に彼は再び英文を翻訳して読み上げていく。その声は徐々に徐々に涙声になっていき、私と祖母も涙を流しながら聞き入っていた。祖父の祖母に宛てた毎日のラブレターだったのだ。どんなにかき集めても足らぬほどの祖母への愛おしさが痛いほど伝わってくる。
あれから1時間は経ただろうか、最後の一行を読み終えると陽介は鼻を啜り涙を袖で拭いていた。私も祖母もハンカチで顔をおさえて涙を拭って嗚咽した。やがて3人が落ち着きを取り戻した頃には、時刻は夕刻を迎えて、静まり返った室内に時を知らせる音楽がもの悲しげに流れているが聞こえてきた。
「これはね、正孝さんがアメリカにいた時に、私に宛てて書き溜めていてくれたものなんだよ」
祖母がポツリと寂しそうに呟いて、私から返された本を優しく握っていた。
祖父は祖母より一回り以上年上で、器量良しであった祖母を一目惚れした祖父が必死になって口説き落とした。結婚式を終えて1週間もしないうちにアメリカの駐在武官の1人として渡米していき、それ以降、祖父は外国を転々とする日々を過ごした後に開戦間近に帰国した。
祖母は司令部があった横須賀まで汽車を乗り継ぎ向かい、町でひとときの逢瀬を過ごすと、内地勤務予定であった祖父は語学堪能とのことで艦隊勤務となり、戦地で戦いに明け暮れた末、レイテ沖海戦で名誉の戦死を遂げた。
一度も内地を踏むことなく遠い海の雫と消えたのだった。
「これを渡しておく。全て手書きの英文だから、馬鹿な憲兵に見られればいらぬ心配をせねばかならないだろう、だから、こうしておいた」
横須賀の旅籠の一室で恥ずかしそうに顔を赤らめた祖父が、そういって言って差し出したのが、この、「こゝろ」だ。アメリカに駐在している傍ら英語の勉強のため、そして愛する妻へ募る思いを綴ったそうだ。
「きちんと隠しておくんだよ、決して見られないようにね。君の為だけに綴ったのだからね」
駅での別れ際に祖父は祖母を抱きしめてそう言った。
横須賀での日々の最後を飾るこの言葉は祖母の心を強く打ち、熱い想いはやがてお腹の中で結晶となって実りを結んで父へと繋がった。
戦中は言論統制もあったので書籍などは検閲などのやり玉にも上がった。
1人で切り盛りしている本屋には何回か憲兵が確認にきたりしたが、一度だけ唐突に現れたことがあった。威張り散らす年老いた憲兵と若い将校の憲兵2人は店や各室内を物色し、やがて、将校が引き出しの奥からこゝろを見つけてしまった。破り捨てられて連行されると思いきや、将校に命令された年老いた憲兵が祖母を外に連れ出して店先の確認をさせていると、やがて件の将校が出てきて、異常なし、と告げた。
2人を頭を下げて見送りながら地面を鬼の形相で見つめていた祖母は、2人の姿が見えなくなった頃合いに大慌てで室内へと戻ると、一枚の便箋がカウンターの上に置かれていることに気がついた。
将校からの手紙だった。
『あれほどの愛しさの募る本を読んだことはありませんでした。しかし、私達もお国のために尽くさねばなりません。店内のある場所に隠させて頂きました。知らねば気になりませんし、それに憲兵でもしっかりとした捜索でない限りは探せぬ場所にです。勝利の暁には私がお伺いしてお返しさせて頂きます。あの素晴らしい本を私ごときが処分をするなど烏滸がましいことです。ご婦人には心苦しいですがお許しください。』
そう書かれた便箋に鬼の形相であった祖母の表情は消え失せて、再び外へと出て憲兵が去っていた方向へと深々と頭を下げたのだった。
破り捨てられたり、晒されたり、なによりそれによって自分が連行されてしまっては、もうすぐ産まれてくるお腹の祖父の大切な子供を守ることができない。少し悔しかったがそれを受け入れざるを得なかった。
「戦争が終わってあの時の将校さんを探したのだけど、大陸で戦死されてしまっていて、店内を必死に探してみたのだけど結局見つからなくてね。もしかしたら、あの時に破棄されてしまったのかもしれないとあきらめていたのに・・・。あの将校さんは本当に守ってくれたんだね」
優しく本の表紙を撫でている祖母が最後のページをめくると、白黒の和紙に包まれた写真が出てきた。軍服姿の若い祖父が正面を向いて座っている。凛々しい顔つきなのに、どこか寂しそうに見えるのは気のせいではないのかもしれない。祖母は愛おしそうにその写真を潤んだ眼で見続けていて、私は孫ではなく、1人の女として、愛し愛される想い人を持つことができることに心底羨ましいと思ったのだった。
「絹子、大丈夫か?」
あれから遠距離恋愛などをしながらも関係が続いている陽介の声が、本をじっと見つめて懐かしい記憶に沈んでいた私を呼び戻した。いつも通りの能天気な声でそういうと、喪服のネクタイを緩めて隣へと座りこんだ。祖母は久しぶりに自宅へと帰宅を果たし、白木の祭壇の上に骨壺袋に入って休んでいる。その隣には笑顔の祖母の遺影が置かれていた。
「それ、あの時の本だろ」
「うん」
「ちょっと貸してくれるか?」
「いいけど・・・」
陽介が大きな手で本を受け取ると、仏壇の手前に敷かれた座布団に座り、本をゆっくりと開くと最初の一ページから流暢な英語で、それでいて優しく語り掛けるようにして声に出して読み始めた。聞いていると世界一愛おしさの募るお経のようだと思える。やがてあの時と同じように涙声になってゆき、私も泣きながらそれに聞き入った。
そして同じような時間をかけて読み終えると最後に小さな声でこう言った。
「ご主人さんに負けないくらい、お孫さんを大切にします。どうか、安心してください」
私は聞こえないふりをした。陽介はこちらをちらっと見てから聞こえなかったことにホッとしたように胸を撫でおろしていた。
祖母の本屋は今もここで生き続けている。
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