七十五話 狂化と討伐と


 一面を白に覆われた大地。

 足を動かすたびに、シャリシャリと子気味良い音が鳴る。

 

 エステルとブルーと出会ってから数日後。

 シトラスは智勇の勇者に連れられて、ポトム王国とフロス公国の国境にいた。


 太陽がその姿を覗かせ始めた頃。

 シトラスたちは馬車の車中泊の後片付けを済ませる。


 分厚い雲に覆われた空は、その色を塗りつぶすように大地を灰色に染め上げている。

 

 シトラスがキャビンから出て、白い地面を踏みしめる。

 馬の下へ向かうと、御者の男がウオックたちに掛けた馬衣を取り、飼葉と人肌に温められた水を与えているところであった。


 御者の男と挨拶を交わす。


 御者はバラクラバとも呼ばれる顔全体を覆い隠す目出し帽をいつも被っている。

 その碧眼以外に彼の容姿を知る術はない。


 勇者の馬車を操る御者も只者ではない。

 馬術に長けた戦士が代々その任についていた。


 御者はテントと寝袋を使って、馬車のすぐそばで野営をする。

 テントと寝袋は魔具であり、勇者の馬を操る御者のもつそれらは最高級品である。


 勇者の馬車の御者は激務であるが、そのぶん高給取りであった。


 桶に首を突っ込んでいるウオックの首を撫で、

「今日も一日よろしくね」


 ウオックは任せろとばかりに小さくいなないた。


 キャビンの室内の片付けが終わったようで、キャビンから顔を覗かせたミュールがシトラスを呼ぶ。

 声を出すたびに、白い息が風に乗って流れていく。


 キャビンに戻ったシトラスは入口の扉を閉めると、ミュールの隣に座った。


 それを待って智勇の勇者が口を開く。

「さて、今日の行動をおさらいしよう。シトちん、私たちの目標は?」


 シトラスがそれに元気よく答える。

「国境付近で王国軍に被害を与えている魔物の討伐!」


 満足そうに頷く智勇の勇者は、

「ちゃんと覚えているね。えらいえらい。じゃあミュールちん。討伐にあたって気をつけることは?」


 話を振られたミュールは、

「魔物が狂化バーサーカしている可能性があるっていうこと。狂化した魔物は通常の個体とは違った行動をとる可能性が高い」


 狂化した魔物ははそれ以外にも狂暴性が増す為、通常の個体よりも討伐が困難であることが多い。

 理性を失った彼らは引くことをしらないのだ。


 胸に手を当てて鼻高々な智勇の勇者は、

「すばらッ! いやー、これも教えた先生が優秀なおかげかな」

 ご機嫌である。


 ミュールはそれに乾いた笑みを零した。


 ガタンと一度だけ馬車が小さく揺れた。

 

 窓の外を見るとゆっくりと景色が後ろへと流れていく。

 御者が馬車を動かし始めたようだ。 


 代り映えのない景色が延々と続く。


 アップルトン公爵の治める都市ガヤから南は何もない。

 国境まで荒れ地が続いている。


 元は見晴らしのよい荒野であったが、度重なる国家間の戦争でその姿は変わった。

 荒野のいたるところにある歪にえぐられた凹凸。

 未だ残る魔法での傷痕が、過去の戦争の激しさを物語っていた。


 馬車は平坦な地を駆けて、南へ南へと進む。


 ガヤが豆粒ほどの大きさに見え始めた頃。

 反対に馬車の進行方向に、砦とそこから立ち込める煙が見え始めた。


 それは立派な砦であった。

 機能性だけを追求した外観には装飾の類は一切ない。

 見上げるほど高い壁と、重厚そうな門が招かざる者を拒む。


 智勇の勇者は、進行方向に取り付けられたガラスの小さな窓を覗くと、

「――なにかおかしい」

 ポツリと呟いた。


 ミュールは車窓から顔を剥がして、

「何がですか?」

 智勇の勇者を見る。


 それには言葉を返さず、御者とキャビンを繋ぐ小窓を開ける。

 冷たい風が室内の気温を奪うかのようになだれ込む。


 目を凝らして肉眼で砦に視線を送る。


「おい」

 御者の男の後頭部に声を掛けると、

「はい。間違いありません。炊事にしては色も数も異常です。それに風に微かに火薬の匂いが混じっています」 


 御者の淡々とした声に、大きく舌打ちをすると乱暴に小窓を閉じた。


 ドカッと座り、対面に座る二人を見つめると、

「どうやら砦は何某からか奇襲を受けているようだ」


 ミュールが唾を呑みこみ、

「狂化した魔物でしょうか?」


 智勇の勇者は首を振り、

「それは今の私にはわからない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」


 言葉を一度区切る。


 一つ息をついて、

「ただ、私たちのやることは一つだ――王国に仇を為す奴らをコロす。そのためだけに、私たち勇者はいるんだ」


 その孔雀色の瞳は昏く燃えていた。

 室内にピリッとした空気が流れる。


「帰りのことを考えて馬車は砦の前につける。私たちはそこから徒歩で乗り込み、騒ぎの元凶を取り除く」


 智勇の勇者の指示に二人は神妙な顔で頷いた。


 



 智勇の勇者を先頭に、見上げる程大きな正門の隣。

 歩行者用の通路に小走りで足を踏み入れる。


 通路の扉は開け放たれており、通常いるはずの検問の兵士の姿もない。


 足を踏み入れた先。

 砦の中は、怒号と悲鳴で埋め尽くされていた。


 足を踏み入れた先で周囲を見渡すと、あちらこちらで火の手が上がっていた。


 すぐそばには正門の内側へと持たれかかるように血を流している兵士。

 彼にはまだ息があった。


 智勇の勇者が膝をついて、

「おい、何があったの」

 そう問いただすと、

「ま、魔物、だ……魔物が、二体……空と、地面……協力、して」

 渾身の力でそれだけ言うと、その瞳からは光が永久に失われた。


 天幕が破壊されたのだろうか。

 木々が砕ける破壊音が、砦の内部に重く木霊した。


 ひと際大きな怒号が上がった。


 立ち上がった智勇の勇者は、

「狂化した魔物のようね」

 そう言ってわらった。


「指示を出すわ。相手の魔物はおそらく二体。どちらも狂化している。暴食土虫サンドワーム飛竜ワイバーンね」


 ミュールが首を傾げ、

「飛竜がこんな寒い場所に?」

 曇天の空を見上げた。


「悪いけど細かいことを説明している暇はないわ。ただ見ればわかるから」


 そう言ってた傍から、先ほどとは違う方角から今度は悲鳴が上がった。


「私は左に行く。シトちんたちは右」


 智勇の勇者は二人の反応をまたずに、怒号が上がった方角へ駆け出した。


 残された二人は、互いを見つめ、頷き合う。

 強化魔法で身体を強化すると、悲鳴が上がった方角へと向かった。


 倒壊した建物。燃え上がる火の手。放置されている遺体。

 放置されている体はどれも損傷が激しく、確認するまでもなく死んでいた。

 

 道を塞ぐように倒壊した天幕を踏み越えると、その姿が見えてきた。


 青白く鱗。金色の瞳の中には縦に長い瞳孔。

 その一つ一つが成人男性の顔ほどありそうな白く大きな牙。

 折れ曲がった形の二翼と一緒になった鋭い爪を持つ手。

 太く逞しい尾翼がついた尻尾。動くたびに天幕が形を変える。


 飛竜は砦の兵士たちに囲まれていた。


 一人の兵士が音頭を取っている。


「勇気を振り絞れッ! ここで食い止めるのだッ!」


 これまでに少なくない犠牲を払ったのだろう。

 飛竜の口元から真新しい赤い雫がしたたり落ちた。


 長槍をもって牽制する兵士たちの穂先を嫌がって、飛竜は身じろぎをする。

 飛竜の鱗は比較的頑丈ではあるが、それでも必ずしも刃が通らないほどではない。


 崩れた天幕の上に立って、二人は状況を把握する。

「いけそうか?」

 ミュールが尋ねると、

「どうだろう?」

 シトラスは自信なさげに首を傾げた。


 二人の視線先では、指揮をとっていた兵士の穂先が、鱗の薄い内側の皮膚へと突き刺さった。

 悲鳴を上げる飛竜に兵士たちの士気が高まる。


 それを見ていたミュールも 

「よしッ!」

 拳を握りしめた。


 ただシトラスは、

「だめだッ! くるッ! ミュール、全力で魔力抵抗レジスト!」


 シトラスは全身に魔力を循環、放出させた。

 魔力抵抗とは、体外に放出した自身の魔力によって、他の魔力からの干渉を防ぐ技術である。

 精神攻撃魔法を始め、デバフや魔力のみを用いた間接魔法には効果が強い。

 その反面で指向性のある魔法や、物理的な魔法攻撃には効果が薄い。


 <飛竜の咆哮ハウル


 それは以前、地下世界で対峙した八足の足を持つ魔物より、遙かに強力な魔法であった。

 かろうじて耐えたが、その反動で体が痺れて動けない。


 取り囲んでいた兵士たちのほとんどは抵抗する術を持たず、腰を抜かすか気を失った。


 飛竜は結果に満足そうに鼻を鳴らすと、のっそりと動いた。


 肌へと穂先を立てた兵士に鼻を近づける。

 鼻息が兵士の被る兜を吹き飛ばした。

 

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった青年の顔が見えた。


 飛竜は舌を使って、兵士を頭上へと跳ね上げた。

 その舌には、後ろ向きに生えた鉤状こうじょう糸状乳頭しじょうにゅうとう

 後ろ向きに生えた肉食動物のそれは、獲物の肉を引き裂くだけの硬度を誇っていた。


 それが飛竜のものともなれば押して知るべし。


 飛竜の舌は、器用にも兵士の鎧だけを切り裂いた。

 宙でバラバラに飛び散る兵士の鎧。


 衝撃と共に兵士は、大口を開けて待っていた飛竜の口に収まる。

 仰向けの市井で白く尖った牙に挟まった兵士。


 状況が理解できたのか、狂ったように喚き、牙から逃れようとする。

 しかし、牙にのめり込んだ体は、その意に反して動かない。


 その牙に挟まっている兵士が、反転した世界で周囲に助けを乞う。

 涙と鼻水が混じった濁声だみごえで生への執着を必死に叫ぶ。


 ようやく体の痺れが収まったシトラスが、一歩を踏み出す。

 気持ちが先走り過ぎたのか。

 足がもつれて転びそうになり、天幕の残骸を支えに立ち止まった。


 顔を上げる。

 恐怖に染まった兵士と視線が重なった。

 

 兵士が震える手をシトラスへと差し伸べ、

「た、たすけ――」

 

 断頭台は落とされた。


 肉と骨の咀嚼音。

 そしてむせ返るような血の匂い。


 立ち込めた死の匂いに吐きそうになる。

 口元を抑え、せり上がる胃液を抑え込む。


 遅れて復帰したミュールが

「シトッ!」

 駆け寄ってきた。


 さめざめと見せつけられた指揮官の捕食の瞬間。

 この絶望を前に取り囲んでいた兵士たちは恐慌状態に陥った。


 指揮官の仇討ちとばかりに、腰に帯びた剣を抜いて迫る兵士。


 それにたったの一度、飛竜が尻尾を振る。

 その抵抗は命ごと刈り取られた


 今度は尻尾で兵士を持ち上げた。

 鎧の留め具を壊すように跳ね上げられた死体。

 宙で分解される鎧。

 

 兵士の体は飛竜の口へと収まった。


 その光景にギリっと歯を食いしばる。

 腰に差した"王道の剣"を抜き、魔力を流した。


 ――仇は討つ、と誓って。

 

 ミュールにそう言葉を掛けると、

「いくよッ」

 飛竜へと駆け出した。


 追い越すように雷魔法が飛竜へと飛来する。


 食事を楽しんでいた飛竜は、これをまともに受けた。

 つんざく悲鳴と共に、飛竜の上体が反るように無防備に上がった。


 首か、腹か、頭か。

 どこを狙うべきか


 駆け寄りながら逡巡するシトラスに背後から声が飛ぶ。 

「シトッ! まずは翼だッ! 飛ばれたら俺たちはおしまいだッ!」


 シトラスは左の翼の方と上腕骨の間に、力の限りを込めた一撃を見舞った。

 

 綺麗に筋に入ったようで、抵抗もなく剣は振り切られた。

 青い血潮が勢いよく溢れ出す。

 先ほどよりさらに騒々しい絶叫が、砦の内部に木霊した。


 飛竜の左の翼が鈍い音と共に地につく。

 これでもう空へと帰ることは叶わない。


 続けて一撃をいれようとするシトラスを、飛竜の金の瞳が捉えた。

 凄まじい勢いで、噛み殺そうとその首が動く。


 それを後方に飛ぶことにより、寸でのところで回避した。


「よくやったシト!」

「ミュールも援護ありとう!」


 距離を取ったシトラスに対して、飛竜が再度その大口を開けた。


 シトラスの目には――魔力視の魔眼には、青色の魔力が喉元へ収縮するのが見えた。


「ミュール! 息吹ブレスがくる!」


 二人は弾かれたように、左右に分かれて跳んだ。


 <飛竜の息吹ブレス


 直前まで二人が立っていたところを吹雪が駆け抜けた。

 その直線状にあるものを全て凍てつかせて。


 ミュールの額を汗がつたう。

「なるほど、見ればわかるね。水属性と風属性の混合した氷属性の飛竜。そりゃ、冬でも元気なわけだ」


 最もよく知られている飛竜は火属性の飛竜である。

 しかし、飛竜にも属性ごとに色も生息地域も違う。


 飛竜は種として、意図的に人を襲う事例は非常に少ない。

 そもそも飛竜という種族の頭は悪くない。

 可食部が少ない上に、服や装備を着込んでおり、組織だって抵抗する。

 狩りに成功しても、今度は集団でねぐらに攻め込んでくる。

 見返りが少なくて襲う利点が少ないことを理解しているのだ。

 人族から手を出さない限りは、手を出すことはない。


 今回の個体は狂化して、人肉を求めて見境なく人を襲っていた。

 それが例え、通常であれば絶対に近づかない人族の軍の施設であろうと。


 飛竜は人の血肉を求めていた。

 ただそれだけを。狂ったように。

 左翼が使い物にならなくなった今でさえ。


 青の血潮は雪を青黒く染め上げる。


「もう一回隙を作れる?」

「任せろ!」 


 シトラスはそれを聞いて駆け出した。


 背後からもう一度空を切り裂く雷の軌跡。


 飛竜が三度悲鳴を上げた。


 その喉元へ目掛けて剣を振りかざす。

「これでッ!」

「――シトッ!」


 ミュールの悲鳴が聞こえたのとほぼ同時であった。

 視界の左から何かが凄まじい勢いで迫っていた。


 それは飛竜の右翼であった。

 苦し紛れに飛竜は体を投げ出すように回転させ、右翼の爪で反撃を試みたのだ。

 

 ――このッ!


 シトラスの体高ほどある鋭く尖った爪。

 当たれば人族の体は紙切れも同然である。


 シトラスも負けじと体を反転させて、爪を手にした刀で正面から迎え撃つ形になる。


 硬度が拮抗する存在が正面からぶつかると、質量と速度に勝るものが勝つのは自明の理。

 シトラスは後方へと吹き飛ばされた。

 

 崩れた天幕に埋もれてその姿は見えなくなった。


 シトラスを敵と認識した飛竜は、痺れる体で止めを刺そうとよろよろと、シトラスの消えた天幕へと近づき始める。


 <雷掌サンダーショック


 重低音を響かせ、飛竜は地に倒れ伏した。

 その衝撃で飛竜を起点に風が巻き起こる。


 その隙にミュールは、

「大丈夫かシトッ!」 

 シトラスの下へと駆け寄った。


 シトラスは天幕の残骸から自力で出てくるところであった。

「うん。なんとか」


 魔法で強化した体と天幕が緩衝材となったおかげで、傷らしい傷もなかった。

 服と顔が煤と土埃で汚れたくらいだ。


 シトラスの無事な姿に、ミュールはほっと胸を撫で下ろした。


 飛竜の咆哮が周囲に響いた。

 天幕跡から出てみると、視線の先では飛竜も立ち上がったところであった。


「わりぃ、シト。立て続けに撃ったから魔力なくなりそうだ。次で決められるか?」

 

 試すようにミュールが笑う。


 シトラスは力強く頷くと、

「うん。終わらせよう」

 再び飛竜の下へと駆け出した。


 剣を握る左手に力が籠る。


 飛竜の口元に青色の魔力が溜まるのが視えた。


「ミュールッ!」


 シトラスの指名に応えて、左手を飛竜へと翳し、

「これで店じまいだ! <雷掌サンダーショック>」


 振り絞ったからか、先ほどまでよりいささか元気のない一筋の雷。


 しかし、飛竜の息吹を妨げることには十分であった。


 その首が下へと落ちる。


 勢いよく飛び上がったシトラスは、掲げた剣にありったけの魔力を込めて――


「今度こそッ!!」


 ――振り下ろした。


 飛竜の金の瞳の中の瞳孔が見開かれた。


 骨ごと断ち切った一撃に、青い血潮が堰を切ったようにその断面から飛び散る。

 瞬く間に地面や天幕が青黒く染まっていく。


 周囲から歓声が沸いた。

 爆ぜるような大きな声であった。


 周囲を見渡すと、生き残った砦の兵士たちが抱き合って喜んでいるのが見えた。

 口々にシトラスを――勇者を湛える声を上げる。


 魔力を使い切ったため、足取りが覚束ないミュールがシトラスへと歩み寄ると、

「手を振ってあげたらどうだ?」


 シトラスはそれを聞いて、周囲に手を振ると歓声がひと際大きくなる。


「反対側の智勇の勇者さまは大丈夫かな?」

「わからん。たぶん大丈夫だと思うが」


 いつからか砦の反対側で聞こえていた破壊音も止んでいた。

 周囲の兵士が輪になって歓声を上げ続けているところを見るに、既に鎮圧していそうである。


「ちょっとぼく見てくるよ」

「わかった。俺も少し休んでから追いかける。無茶するなよ?」


 シトラスは首を縦に動かすと、砦の反対側へと駆け出した。

 その背中が見えなくなるまで、砦の兵士たちはシトラスを称え続けた。





 飛竜が暴れていた区画と反対側は、静寂であった。

 遠くで飛竜の討伐を喜ぶ声がまだ聞こえてくる。 


 足を進める度に、破壊された天幕や打ち捨てられた遺体が増えていく。

 破壊された天幕の一つがパチパチと音を立てて燃えていた。


 地面にはいくつもの大穴があった。

 足を止めて仲を覗き込んでも、その奥は微塵も見えない。

 ごくりと唾を呑んだ。


 周囲を、特に足元を警戒してすり足で進む。


「智勇の勇者さまは魔物を倒した、のかな?」


 悲鳴が聞こえた。


 シトラスは剣をもつ手に力を入れて、声が聞こえた場所へと駆け出す。

 天幕の残骸を踏み越え、角を曲がった先には、智勇の勇者と砦を襲った暴食土虫の遺骸があった。


 穴から巨体を半身を出した状態で倒れていた。

 既にその体に生気はなく、その体中から黒みがかった橙色の血が流れている。

 螺旋状の口から牙のついた舌が、地面へだらりと垂れ下がっていた。

 

 その隣に智勇の勇者はいた。

 傷一つない。ただ、その袖が返り血で赤く染まっていた。


「勇者さまッ!」


 左手に剣を、右手に何かを握りしめている。

 シトラスからは体の陰になってよく見えない。


 シトラスは笑顔で歩み寄る。


 智勇の勇者は嗤っていた。


 近づくシトラスに気がつくと、シトラスの方へ向き直る。


 智勇の勇者を正面から捉えた時、シトラスの笑顔は凍りついた。


 シトラスは目を見開き、

「何をしてるんだッ!?」


 智勇の勇者は嗤っていた。

 その手に兎人族の髪を握りしめて。


 その手の中の兎人族には、首から下がなかった。



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