幕間 カスタネア


 私は闇の中にいた。


 欲と暴力が支配する世界。

 それが物心ついたときから続く私の世界だった。


 世界は暗かった。

 どぶ川を煮詰めたようなえた臭いが世界を満たす。

 

 父親の顔は知らない。

 生まれた時から私には母親を名乗る女しかいなかった。


 あばら家の一角。

 そこが私たちの家だった。


 母親は父親ではない男と一夜を過ごす。

 身に纏う一枚の布切れは、いつも朝を迎える頃にはなかった。


 その男たちは日ごとに違った。

 嬌声と興奮する声が部屋に響く。

 私は部屋の隅でじっと息を殺す。


 それが私の日常だった。


「いい、ネア。人の幸せはね。恋して、愛することよ」


 母親はおつむの弱い女だった。



 シトことシトラスと別れてどれくらいの月日が経ったのだろう。

 都市セイカの屋敷の空気は太陽に影が差したように暗くなった。


 姫の打ちひしがれた様子は見ていられなかった。

 泰然自若としていた姫は、見る影もなかった。


 甦るのはいつかの母の言葉。


 ――これが、幸せ?


 私にはそうは思えなかった。


 あの日以来、その感情の起伏でその身に秘めた力を暴発させることはない。

 一時の感情でシトへとその力を向けたことが、トラウマになっているのであろう。

 皮肉なことに、愛する者へその力を向けたことによって、姫はその力を支配していた。


 最低限、食事だけはとってくれる。

 買い物にも付き合ってはくれる。

 ただ、四人で過ごした日のように笑顔を見せることはなくなった。


 時々、シトの影を思い出したかのように涙を流す日々。

 その心にシトの存在が深く刻み込まれていた。


 そんなある日、届けられた一通の手紙。

 

 また、軍部からの手紙だろうか。

 姫の力の有用性を知って、ある日を境に軍からは手紙が来るようになった。

 それには私かウィップが代筆して返事していた。


 億劫な気持ちで、手紙を見る。

 見覚えのない封蝋であった。


 続いて差出人の名前に視線を落とすと、私の目が自然と見開く

 こみ上げてきた興奮で震える手を抑えきれない。


 玄関を開け放ち、ぶち破るような勢いで居間への扉を開けた。


 居間にいたミュールが、何か言いたげな視線を向けてくるが、そんなのは無視だ。


「なんだ。騒がしい。もう少し静かにできないのか?」

「できないッ! ひ、姫はどこ!? こ、こここれ見て! これッ!」


 私は震える手で、握りめていた手紙をミュールへと差し出した。


 私の手に握りしめられた手紙を見ながら、胡乱気に、

「なんだって言うんだ……手紙? また、王都からか? ついこの前に、姫は体調が良くないから動かせない、と伝えたばかりなんだが……」

 面倒臭そうにそう呟く。


 私も最初はそう思った。

 だが、そうじゃないのだ!


 私は震える声で、抑えきれない喜びの声音で、

「ち、ちがうわよ、シトッ! シトからッ!!」

 そう叫ぶと、

「は? シトから? 何の用だ? 俺にも見せろッ!」

 ウィップは打って変わって、私の手から手紙をひったくるように奪い取った。


 そして、素早く広げると視線を手紙に落とす。

「裏魔闘会の誘い?」

「来月にあるみたいッ! シトの学校の催しみたいねッ!」

「来月、って……それはまた急な。両国の講和交渉もまとまったばかりだぞ?」

「じゃあ、お留守番ね。私と姫で行くからッ!」

 つーん、と突き放す私に、ウィップは慌てて弁明する。

「ま、まてッ! 誰も行かないとは言ってないだろ! ただ、大丈夫か? 姫は……」


 案じるのは、私たちの今の主人ひめ

 思い人が去ったあと、生気を失い、かつてのように引き籠りになってしまった少女ひめ


 しかし、

「わらわは行くぞよ」


 私たちが振り返った先にいたのは、

「姫ッ!」

 二人の声が重なった。


 かつて四人で和気あいあいと生活していたときのように。

 かつて思い人が隣にいた時のように。

 姫は覇気のある佇まいを取り戻していた。


「ジンジャーめに文を出す。そちらは今すぐに支度せい。今すぐに一等の馬を用意させるのじゃ」

 

 シトの待つ王都キーフまでの道のりは最短経路で一直線。

 チーブス王国はもとより、ポトム王国にも姫を止めることができる人物などいなかった。



 ポトム王国で再開したシトはやっぱりシトだった。

 別れが別れだっただけに内心では心配だった私たち。


 シトは何もなかったかのように私たちを迎えてくれた。


 ……同席していた来賓席の招待客は怪物揃いだった。

 特に、姫とやりあっていた二人――シトの姉君ベルガモット商会の長バレンシア

 姫に敵意を剝き出しにしていたこともあって、ヤバイ。


 姫も久しぶりのシトで気持ちが高揚しているのか、

「――お主がシトラスの言っておった姉か……。では、一言言っておかねばならないな――これまで大儀であった。あとはわらわに任せよ」


 爆弾を投下するものだから、シトの姉君の顔が固まった。


 感情が抜け落ちた幽鬼の表情で、

「……泥棒猫が後からしゃしゃり出てきて、何を偉そうに。お前など眼中にないんだよ、姫サマ」

 口論を繰り広げた商会の長も、

「そうだね。男漁りは自国でやるといい。お姫サマ」

 彼女に同調して、姫をせせら笑った。


「――消ス」

「――死ネ」

「――オ前ガナ」


 三人とも目が逝っていた。


 これ、私とウィップで何とかなる? ならないでしょ……。


 幸いその場は、シトの試合が始まったことで有耶無耶になった。

 私とウィップは思わず胸をなでおろした。


 姫の身に何かあれば、それすなわち国際問題である。

 チーブス王国だけでなく、おそらくポトム王国にも主戦派はいることだろう。

 彼らがポトム王国東部侵攻のときのように、チーブス王国の主戦派と組まないとは限らない。

 戦争の大義名分を与えるいい口実となってしまう。


 後からきたイクストゥーラという女の子も姫と同じ香りがした。

 シトの初代幼馴染ヴェレイラの膝の上ではしゃぐ、ジェーンという少女が無邪気で唯一の清涼剤。


 そんな彼女も、シトに対するブーイングでは、

「殺す? シトと戦っているやつ殺す?」

 無邪気に言うものだから、背筋が怖くなった。


 シトが一回戦で負けたら、来賓席大丈夫かな……。


 護国騎士団の私でも、この人外魔境みたいな来賓席で誰か暴れ出したら逃げの一択しかない。

 女の喜びを知らずには死ねない。


 隣に立つウィップに、

「シト負けないわよね?」

 そう尋ねると、

「負けるわけがないだろ――」


 そうよね。シトには頑張ってもらわないと。

 私は喉が張り裂けるくらい応援した。



 



 シトは残念ながら二回戦で負けてしまった。

 私でも勝てたかどうかという相手だったので、シトはよくやっていたと思う。


 その後はメアリーとかいうヤバめな少女の暴走はあったものの、無事に裏魔闘会は終わりを告げた。

 シト以外は所詮学生のおままごと、と期待していなかったが、これが中々楽しめた。


 護衛の私たちは、チーブス王国へ帰るまでは油断はできない。

 それでも、友人の雄姿を見ることができてよかった。

 

 あとは姫の視察を受け入れてくれたポトム国王へ再度挨拶へと伺って、それでお終いだ。

 

 ――お終いになると思っていた。


 舞台となった闘技場がすっぽりと日陰に覆われた頃。

 閉会式も終わり人のいなくなった闘技場。


 シトラスが招待した来賓席へと顔見世にやってきたときの話である。


 ジェーンという少女をあやしながら、

「シーヤはいつまでポトムこっちにいるの?」

 と口を開けば、

「わらわ? ……そうじゃなぁ。学園とやらに興味が湧いた」


 立ち上がって振り返った姫は、

「わらわもお主の学園に通うことにしよう」

 形の良いその胸を張った。


「え!? ほんと!?」

 喜びの声を出すシトラスに、

「姫ぇ!?」

 私は驚いて情けない声を出した。


 シトは、それは良かった、と笑顔を浮かべる。

 姫もその反応に満足顔である。


 護衛わたしたちにとってはもちろん良くない。


 慌ててウィップを見ると、アイコンタクトが飛んできた。

 ――やばい。ネア。なんとかしろ。

 ――むり。ウィップの方こそなんとかして。


 紺色へと染まりつつある空を見上げて願った。


 ――お願い、姫の願いを聞き届けないで。



 天は姫に甘いのか、私たちに厳しいのか。 

 姫の願いは聞き届けられ、私たちの願いは聞き届けられなかった。


「――ということで、わらわはシーヤ。短い間だがよろしく頼もう」


 シトのいるクラスへの編入。

 これは姫の権力わがままでゴリ押しだ。


 なんでも身分の低い者が専攻する授業だそうだ。

 学園長と共に学園の案内にあたった女性魔法使いは、上級階級向けの授業を進めてきた。


 しかし、そうではない。

 私たちにとって――姫にとって大事なのは、シトがいること、なのだ。


 迷うことなく押し切った。


 決まってしまったものは仕方ない。

 思えば私は学生生活というものを知らない。


「私はカスタネア。彼と同じく姫の護衛よ。よろしくね!」


 チーブス王国にもカーヴェア学園のような教育組織はある。

 しかし、私には無縁の世界であった。


 護国騎士団へ速達で連絡を取ると、引き続き護衛の任務にあたるように通達がきた。

 チーブス王国の中枢でも随分と騒ぎになっているようである。


 学園長に護衛としての、学園の滞在を願い出ると、私たちも学生となることを条件に承諾。

 十代半ばの生徒たちと学ぶというのは、少しこそばゆいものがあるが、案外運命の出会いというものもあるかもしれない。

 運命なんてものは意外と身近なものにあるものだ。


 私たちも姫の護衛兼クラスメートとして、カーヴェア学園に通うことになった。


 クラスにはメアリーという裏魔闘会で暴れていた少女がいたのは、少し心配要素。

 それに隣の、ブルーとかいう猫人族の少女も姫を良く思っていない様子だ。


 クラスの席決めでは、当然のようにシトの隣を希望する姫であった。

 しかし、二人は席を譲る気はなくて、一触即発の空気が流れる。


 私とウィップも万が一に備えて固唾を飲む。


 その中で、シトが動いた。

 姫の手を取ったのだ。


 私はウィップに視線を送り、頬を緩める。

  

 姫は入れ違うようにシトの座っていた席へと座った。

 シトは笑いながらその一列後ろの席に座った。


 ――ちがう。そうじゃない。


 クラスメートと私たちの心が一つになった。





 学園の授業は楽しかった。

 ポトム王国の魔法の理解、取り組みがチーブス王国のそれとは異なった。


 懸念していた差別も学園にはなかった。

 仮想敵国であろう私たちにも、学園の教師たちは平等であった。

 一部の銀髪の生徒たちが、睨み付けてくることがあったが、それぐらいである。


 私の得意とする火属性魔法一つとっても、いい刺激となった。

 かねてより魔法が好きなウィップにいたっては、姫以上に毎日ウキウキと授業に取り組んでいた。

 放課後は私に姫の護衛を任せて、大図書館に入り浸るほどだ。


 裏魔闘会の翌月。

 記念に受けた魔法試験は散々であった。

 

 いかに日頃感覚で魔法を使っているかということを、嫌というほど思い知らされた。

 裏を返せば、伸びしろがあるということなのかもしれない。


 ウィップは見た目にそぐわない論理派。

 試験後にウィップにそう泣き言を漏らすと、ドヤ顔をしてきたことには腹が立った。

 

 しかし、それからさらに一ヶ月後の舞踏祭。

 今度は私がドヤ顔をする番であった。


 姫の提案で、舞踏祭ではウィップと踊ることになった。


 ウィップが激しく首を横に振ったことには腹が立った。

 それも、その理由はわかると微笑ましいものに変わる。


 堅物のウィップは、女性の手を握ると基礎的なステップを踏むことすらままならなかったのだ。


 一人で行う自主練習や、シトといった同性の相手との練習では問題ない。

 ウィップは女性に免疫がなかったのだ。


 私は姫やシトと共に半年間同棲したが、全く気づかなかった。

 尋ねてみると、姫も気づいていなかったらしい。


 新たに発見したその一面を、私は散々にからかった。


 そして、はたと気づく。

 ――へー、ほー、ウィップは私を女と意識してるんだねー……ふーん。


 赤面するウィップに悪い気はしなかった。

 むしろ、不思議と気分が良い。


 私の世界は突然明るくなった気がした。



 カーヴェア学園でクラスメートとなったある日。


 私とウィップは、改めてシトに謝罪をした。

 これがシトにとって何の意味もないことは二人ともわかっていた。


 ただ、けじめとしてあの時、言わなければならない。

 例え、その結果がシトが私たちを否定しすることになったとしても。


 そうでなければ、私は、私たちはシトの友達を名乗れない。

 友人の好意に甘えて、なし崩し的に前の関係に戻るのはなしだ。


 放課後の空き教室。

 

 姫には事情を説明し、時間を取ってもらった。

 私とウィップは、呼び出したシトに謝罪と共に頭を下げる。


 私たちが深く頭を下げていると、

「……正直。すごい悩んだんだ。やっぱり恨んだこともあった」


 わかっていたことだ。

 それでも、友人に『恨んだ』と言われると胸にくるものがある。


 恨む、憎む、殺す、許さない。

 これまでの人生で散々言われてきた言葉。

 そのすべてを焼き払って私はここまできた。


「でも、許すよ……他でもないぼくのためにも――」


 顔を見るのが少し怖い、そう思った。


 これほどまでに相手の感情何てもの気にしたことがなかった。


 怒っていないだろうか、憎しみに染まっていないだろうか。

 これまで護国騎士団の任務を通じて見てきた憎悪の表情。


 それを見るのが怖い、初めてそう思った。


 隣のウィップも同じ気持ちなのだろうか。

 あいにく私の桃色の髪が視界を遮って、その顔はわからない。

 ただその気配から、真摯に頭を下げていることだけはわかった。


 瞳を瞑り、唇を一文字に結んだ。


 シトが何といっても受け入れよう。

 例え、それが絶縁だったとしても。


 目を開けると、意を決して頭を上げる。

 

「――前にも言ったけどね。ぼくは勇者になりたいんだ」


 儚げにシトは笑っていた。


「ぼくの理想とする勇者なら――友の過ちを許せる勇気があって然るべきだと思うんだ」


 ――だから、ぼくは君たちを許す。

 シトはそう言った。


 その言葉に少し救われた気がした。

 本当はそんなことを思うことさえ、罪であるのに。


 それと同時に、少しシトが怖くなった。


 その生き方は歪だ。

 かくあるべし、という勇者像がシトを蝕んでいる気がして。

 

 私にはわからない。勇者という者が。

 私にはわからない。友人シトが思い描く勇者像が。

 私にはわからない。その果てに辿り着く景色が。


 いったいその心はどこにあるのだろうか。


 頭をよぎる母の言葉。

『いい、ネア。人の幸せはね。恋して、愛することよ』


 勇者というのは幸せだろうか。

 その果ては幸せなのだろうか。



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