五十七話 改革と策謀と


 チーブス王国へと本格的に侵攻を開始した、ポトム王国北東方面軍。


 北部の都市セイカを手中に収める際、勝利を収めたものの、輜重隊を奇襲され物資を失った。

 奪い取った都市の物資は既にチーブス王国の手により、そのおおよそが退避させられていた。

 これにより北東方面軍は兵站に不安を覚えることとなった。


 北東方面軍はこの事態に進軍を一時中断。

 兵站の確保に努めるが、ここは奪い取ったばかりの敵地の冬。

 本国からの輸送にも時間がかかる。


 近隣の村落に部隊を派遣し、資源の摘発及びにポトム王国への恭順化を図る。


 軍が奪い取った都市の影響下にある村落の一つで、シトラスたちは上記の任務にあたっていた。


 しかし、シトラスは平穏に暮らしていた村落を戦争に巻き込むことに嫌悪感を覚え、戦争の常識ではなく、自身の理想ユメに従い、村落の救出に動き出していた。



 村で一番立派な村長の家。

 そこから出てくる二つの影。


 夜に染まりつつある空の下では、少し距離を取ると相手の顔も視認ずらい。


 ホクホク顔のシトラスの隣をミュールが歩いている。

 その後ろにはメアリーの姿もある。


 ブルーはと言うと家でお留守番。

 シトラスたちが滞在している部屋には、彼らの他にもう一人客人がいるので、その対応を任されていた。


「どうにか大尉は説得できたね」

「説得というか、脅迫だった気もするけどな。相手がお前の姉貴の名前が効く相手でよかったよ」


 突然の訪問に驚く大尉に畳みかけるように、村の現状を告げ、村の負担の軽減を依頼した。

 自身の魔眼を伝え、その能力故に村人の体調に危機が迫っていると伝えると、心当たりがあるのか、口を重たくする大尉。

 最終的にベルガモットの名前を使った上で、何かあっても大尉に累が及ばないことを条件に、大尉はシトラスの申し出を承認した。


「これから奴のとこに行くんだろ? ちょっと心配だな」

「クレモ中尉だよ、ミュール。これから会うけど、本人に変なこと言ったらだめだよ?」

「わっーってるよ、俺もそこまで馬鹿じゃない」


 ならいいんだけど、と言ってシトラスは肩を軽く竦めてみせる。


 大尉が寝泊まりをする村長の家から、そう遠くない距離に目的の家はあった。

 敷地へ入ると、ドアノッカーを三回叩く。


 少し待つと家の中から、小さな足音が小走りで向かってくるのが聞こえた。

 

 室内からか細い声が聞こえる。

「ど、どなたですか?」

 子ども特有の中性的な声であった。


 シトラスは相手を怖がらせないように、ゆっくりと優しい声音で、

「ぼくたちは士官候補生のシトラス・ロックアイスとミュール・チャン、メアリー

・シュウ。クレモ中尉とお話がしたくて来たんだ」

 名乗りを上げると、

「お、おまちください」

 扉の向こうの子どもは、再び小さな足音を立てて、家の奥へと戻って行った。


 しばらく待つと、小さな足音が戻ってくる。


 開けられる扉。

「よ、ようこそ。い、いらっしゃいませ」


 部屋に足を踏み入れたシトラスは、扉の向こうにいた人物の姿を見て息を呑んだ。

 襤褸のような布切れ一枚を纏った子供。

 手入れのされていないぼさぼさの髪に血色の悪い肌。

 何よりその子供は顔や手足に痣を作っており、強張った愛想笑いをした際に欠けた前歯が垣間見えたからだ。

 

 扉を閉めていたミュールも遅れてそれに気がつき、その体が強張る。


「おいで」

 シトラスはそう言うと、膝をついて目の前の子供を優しく抱きしめた。


「ごめん……ごめんね……」

 優しく何度もその髪を梳いて謝罪の言葉を口にする。

 その両の眼から流れる一筋の涙。


 子供は突然の抱擁に身を固くするも、シトラスの優しい手つきに、これまでずっと堪えてきた感情が堰を切って零れ落ちる。


 子ども特有の甲高い鳴き声。

 涙と鼻水でその顔をぐちゃぐちゃにしながら、シトラスの胸で精一杯の泣き声を漏らす。

 一度堰を切った感情はそうは止まらない。

 泣きたい時に泣くこと。

 それが本来のあるべき子どもたちの姿である。


 シトラスが子どもあやしていると家の奥から、苛立った声が聞こえてくる。

「何をモタモタしている? 用があるなら早くしろ」


 シトラスは湧き上がった感情に歯を喰いしばった。 


「……シト」

「わかっているよ。これ以上被害を出さないためにも中尉とは話をつけないと。ごめん。ちょっと話があるから待っててね。今までよく頑張ったね。もう大丈夫。ぼくが君を守るから」

 

 そう言って子供の頭を撫でると、この場で待つように言って立ち上がる。

「行こう」

 シトラスの言葉に、ミュールは無言で力強く頷いた。


 シトラスを先頭に、家の奥に足を進める三人。


 家の奥に進めば進むほど、室内は煙たくなっていく。

 現在のこの家の主であるアーゼー・クレモの待つ居間は、立ち込める煙がまるで霧のようであった。


 部屋の中央には椅子にだらしなく座り、子供たちから全身のマッサージを受けるアーゼー。

 その右手には水タバコのホースが握られていた。


 口に含んだ煙と一緒に言葉を吐き出すアーゼーは、

「それで? 色男ロメオ気取りがわざわざ俺に何の用だ? その女を差し出す気になったか」


 人を小馬鹿にした態度を隠そうともしない。

 下卑た視線を隠そうともせずに、シトラスの後ろに立つメアリーへ足元から舐め上げるような視線を送ると、再び水タバコのホースを口にする。


 水タバコのボトルの水は泡立つと共に、その濁った音を室内へ響かせる。


 シトラスはその不快さを押し殺し口を開く。

「村人の負担を減らしてほしい」

「なんで?」

 吸い込んだ煙を吐き出しながら嘲笑う。


「このままだと、この村人たちは、そう遠くないうちに……死ぬッ!」


 シトラスは部屋にいる村の子供たちの存在に、使う言葉に逡巡したが、担当直入に言い切った。


 それを茶化して笑うアーゼーは、わざとらしく周囲の子供たちに視線を送ると、

「おー、おー、この部屋にはその村人たちの子供がいるって言うのに、随分と残酷なことを言うもんだ……それで?」

「それで、って……。大尉にはさっき話を通した。あとはクレモ中尉が許可してくれたら、この村の環境はマシになる、だからッ!」


 アーゼーはシトラスの熱意に対して、無関心気に再度水タバコのホースを口にすると、再び息を吸い込んだ。


「なんで?」

「ぼくの話を聞いて欲しい。このままだと村人が死ぬんだ。収穫どころの話じゃないッ! 死ねば何も残らないんだッ!」


 人を馬鹿にするような笑い声と共に、水タバコの煙がその口から吐き出される。

「ははははは、色男ロメオ気取り……、お前こそ俺の話を聞くべきだ。俺が『なんで』と聞いたのは、理由じゃない。村人が死ぬからだからなんだ、って話なんだよ。収穫がなくなる? それが? なくなったら捨てたらいいじゃないかこんな村。ここは王国の土地になったが、こいつらは王国臣民でもなんでもない。俺がこいつらに何しようが、何人殺そうが俺たちの王国では問題ないんだよ。むしろ管理の手間が減っていいってもんだ」


 シトラスの後ろで歯ぎしりが聞こえるほどに力を込めるミュール。

「この外道がッ……!」

 その肩が怒りに震えている。


「外道? 正気で戦争をする馬鹿がどこにいるッ! それにお前たち――」


 これまでただ気だるげに椅子に腰かけるだけであったアーゼーの纏う空気が一変する。


「――上官に対して、数々の非礼。これは重大な軍規違反だぞ」


 左手を三人へ向けて掲げる。


 素早く身構える三人。

 シトラスとミュールの二人は思い付きで家を飛び出してきたため、無手であった。

 ただその体を半身にずらして、腰を落とすことで重心を落とす。

 ちなみに、メアリーだけはちゃっかりと帯剣していた。


 真っ先に飛び出したのはメアリーであった。

 前に立つ二人の隙間を縫うように爆ぜると、剣を抜いてあっという間にアーゼーへと肉薄する。


 しかし、

「――ッ!」

 突如として崩れ落ちるように床へと膝をつく。


「なんだ、お前も実は俺に抱かれたかったんじゃないか、ははははは」


 剣を持たない右手で喉元を抑えながら、視線だけで人を殺せそうなほどにアーゼーを睨めつける。


「いいぞ。俺はお前みたいな気の強い女のプライドをへし折るのが好きなんだ」

「下衆がッ!!」


 ミュールが次に仕掛けた。

 強化した足で一思いに飛び上がって、アーゼーへと迫る。


 しかし、空中にも関わらず突如としてその速度が不自然に遅くなると、その拳がアーゼーへと届く直前でその動きは完全に動きが止まる。

「な……ん……だと!?」

 

 そして、

「上官への反逆は軍隊においては重罪だ、その体で覚えておけ」

 逆回しのようにものすごい速さで吹き飛ばされたミュールは、壁際に設置されていたタンスを破壊して、崩れ落ちる。


 砕けたタンスの欠片がシトラスの足元まで飛び散る。


「さぁ、色男ロメオ気取り。お前はどうしてやろうか」

 余裕の表情を浮かべるアーゼーだが、

「……煙だね」


 魔眼がそのからくりを教えてくれた。


 アーゼーはシトラスの言葉に目を見開くと、

「……ほぅ。どうやって気が付いたかは知らないが、学園で学んでいるだけあって馬鹿ではないようだな。そうだ。俺の魔法属性は水。中でも蒸気を操る魔法使い。俺の魔力を含んだ水蒸気が今この家には蔓延している。こういった密室では俺は無類の強さを誇る」

 

 手ににた水タバコのホースを、これ見よがしに手の上で回転させみせる。


「それならッ」

 シトラスは足元に落ちていたタンスの破片を拾うと、水タバコのボトルに向かって投げつける。

 強化した腕力でもって投げられたソレは、ガラス細工の一つや二つを容易く破壊できる威力があった。


「――俺がそれを予測していないとでも?」

 しかし、投げつけたタンスの破片はボトルに当たると、投げつけた破片の方が更に細かく砕け散った。

「なッ!」


「残念だったな。このボトルには強化魔法を施している。生半可な攻撃ではびくともしやしないさ。弱点を持ち歩く奴がどこにいる。……そして明確に上官へ攻撃を加えたお前は、軍法会議ものだ。しかし、この有事……。残念ながら、その手間暇をかけている時間が北東方面軍にはない。よって――」


 シトラスが両手で自身の喉を抑えると、膝をつき地面へと倒れ伏す。

 メアリーと全く同じ症状である。

 そして、我が身に降りかかって初めて気がついた。


 ――吸い込んだ水蒸気に中尉の魔力が含まれていたのかッ!


 気づいた時には後の祭りである。



「――この場で死刑だ」



 万事休すと思われたこの場面。


 救いは思いもかけないところから差し出された。


 ガラス窓の割れる音が室内に響く。


「な……に……?」

 今度はアーゼーが驚く番であった。


 視線の先では、先日粗相を働いて打ちのめした子供が、室内にあった椅子で窓を叩き割ったところであった。


 それはシトラスの胸の中で涙を流した子供。


 思いもよらないところからの反攻に、驚きのあまりアーゼーの思考が停止する。

 その間にもさらにもう一枚窓ガラスが叩き割られる。


 ついで、アーゼーの頭を支配したのは猛り狂う怒り。

「き、き、きききき。貴様ぁぁぁあああ!!」


 しかし、子供は止まらない。

 さらにもう一枚。窓を叩き割る。

 次第に室内の空気が変わり始める。


 叩き壊された窓から、シトラスたちが入ってきた通路へと、冬の冷たい空気が流れていく。

「――はッ!? ま、まさかッ!! このガキッ!!」


 窓から吹き抜ける冬の風とともに、室内に漂っていた煙が霧消していく。


「虫ケラがッ!!」

 椅子から立ち上がり、アーゼーは子供に向けて左手を掲げる。

 その左手には、子供の頭ほどの大きさの水の球が瞬く間にできあがる。


 <水球ウォーターボール


 勢いよく放たれた水球が、子供にぶつかる直前、

「うおおおおおッ!!」

 強化した身体で飛び込んできたミュールが、子供を抱きしめながら転がり込んで、これを間一髪で回避する。


 その光景を続て、もう一撃を放とうとするアーゼーだが、

「死ねッ! ――っく」

「オマエガナ」


 背後から膨れ上がった殺気。


 倒れ伏していたメアリーが、倒れたままの姿勢で、顔と剣を握る左手だけを動かした。

 万全とは程遠い状態、かつ殺気が先行したため、アーゼーはそれに間一髪で気がつき、倒れるように後ろに下がってそれを回避することができた。


 アーゼーも腐っても軍人。倒れた先ですぐに立ち上がり、今だ地面に倒れ伏すメアリーを睨みつける。

「ひッ!」

 しかし、再び彼女を視界に入れるとその顔には怯えの表情が色濃く浮かんだ。


 アーゼーを見るメアリーの目はっていった。


「こ、殺してやるッ!」

 すぐに<水球>を練り上げると、今度は動けないメアリーにぶつけようとするが、それを制するように、シトラスが強化した身体で肉薄する。


 すぐにアーゼーは手にした<水球>の矛先を、メアリーからシトラスに変える。

 しかし、メアリーが手にした剣を左手のスナップを効かせて、アーゼーの顔へと投げつけた。


 魔法は繊細な力である。


 ほんの些細な意識の変化一つで、効果や効能は大きく変わる。

 メアリーが投げつけた剣は躱されたものの、彼がその手に集めていた水球の魔法を霧散するには、十分すぎる牽制であった。


「しまッ――」

「はぁぁぁあああ!!」


 勢いよく懐に飛び込んだシトラスのパンチが、アーゼーの顔面にめり込む。

 そして次の瞬間、吹き飛んだその体は、子供に割られた窓の穴をさらに大きくすることとなった。


 拳を振りぬいた姿勢のまま、

「はぁ、はぁ……やっ……た」


 ミュールは抱き寄せた子供を抱えながら、

「やったのか、やってしまったのか」

 と言いつつ、立ち上がった。


 メアリーは立ち上がって窓辺まで歩き、アーゼーが広げた窓の穴に足をかけると

「……殺してきていい?」

 何てことないように振り返り、許可を求める。


 既に意識のないアーゼー。

 戦意のない者には興味を示さないメアリーであるが、今回の戦闘で彼に不覚をとったことに、表情以上に腹を立てているようであった。


「だめだメアリー。さすがに上官殺しは庇い切れない。軍法会議ものだ。……これからどうするんだシト? 説得どころか、上官をぶっ飛ばして。とりあえずは大尉のところへもう一回行くか」


「……とりあえず大尉のところへ行く必要はないみたいだけどね」

「ん? それってどういう――?」


 シトラスの言葉に眉を顰めるミュールであったが、その答えは向こうからやってきた。


 シトラスたちのいる部屋に、玄関から複数人の話し声が聞こえくる。

『なんだ? 玄関が空いているぞ』

『なにかあったのでは? 急ぎましょう!』


 ついで、慌ただしい足音と共に、

「――何の騒ぎだッ!!」

 騒ぎを聞きつけた大尉と副官たちが駆けつけた。


 シトラスが最初に大尉を説得した際に、大尉の後は中尉であるアーゼーの下へ行く、と話していたため、大尉は彼の副官たちと万が一に備えていた。

 その万が一とは、アーゼーがシトラスに害を加えるというものであったが。


 部屋の惨状と、窓の外で伸びているアーゼーを見て狼狽える上官たち。


「ほらね?」

「ほらね、ってお前……」


 予想が当たって笑顔のシトラスと、笑える状況じゃないミュールの困り顔が対照的であった。



 その後の顛末。

 シトラスたちはその場で身柄を拘束され、彼らに割り当てられた家へと軟禁されることとなった。

 上官への反抗、ましてや暴行はいかなる理由があろうとも、軍隊においては重罪である。


 本来であれば除隊処分もありえる事件。

 諸々の幸運が重なった結果。シトラスたちは給与返上、雑用一ヶ月の処分に落ち着いた。


 シトラスたちにとって一つ目の幸運は、シトラスの身分。

 シトラスは上級臣民であり、その従者の立ち位置である二人に厳罰を与えるのは、同じ身分以上の者による手続きが必要である。

 駐屯部隊で上級臣民はシトラスの他に、アーゼーしかいなかった。


 そして二つ目の幸運は、アーゼーの逃亡。

 村で幅を利かせていたアーゼー率いる分隊が、事件の数日後に、とってつけたような理由で北東方面軍の本隊のいる都市サイカへ帰ってしまった。

 これによりこの村でシトラスに厳罰を与えることが、事実上不可能となった。

 同時に本件の被害者が不在という事態にも。


 最後に、駐屯部隊の状況。

 北東方面軍は遠征軍であり、増援が見込めない以上、その人員には限りがある。駐屯部隊も最低限の人数が割り当てられていた。

 その最中で、身内同士の揉め事で、駐屯部隊の一隊が、何かと理由をつけて村を去ってしまった。

 ただでさえ人手不足の駐屯部隊に、もはやシトラスたちを遊ばせる余裕がなかった。

 一方的に言い分を述べて、自身の分隊を率いて村から出て行った中尉の部隊に、駐屯部隊を束ねる大尉の絶叫が村に木霊したとかしないとか。


 シトラスは、この機会にアーゼーの家に訪れる前に、話していた融和策を再度主張。

「……責任は誰がとるんだ?」

「ぼくが取ります」

「…………好きにするといい」

 というやり取りの後、シトラスはそれまでの武断統治から大幅に方針転換。


 労働時間を減らし、休憩時間を増やす。配給の頻度、量の増加。布団などの日常品の返還。人質の解放など村人の環境の変化に加えて、

「なんで俺たちがそんなことをやらなきゃならないんだッ!」


 主だった駐屯部隊の隊員を集めて、シトラスは部隊の方針転換を告げた。


 村人の監視することに一日を費やす駐屯部隊を、農民の作業支援に向かわせることを決定。

 これまでやる必要のなかったことであり、当然反発の声も多かったが、

「――シトのやることに文句あるの?」

 メアリーが腰に差した剣の唾を鳴らすと、反論する声は一様に押し黙った。


 まっとうな人間であれば、彼女は怖い。

 その視線、その佇まいは死線をくぐり抜けてきた兵士をも震え上がらせた。

 いや、死線をくぐり抜けてきた兵士だからこそ震え上がらせた。


 彼女がると言ったらる。


 抗う力を持たぬ者たちにとっては、彼女は生きた死線であった。


 何はともあれ、シトラスが暫定的ではあるが指導者の立場となり、村は大きく変わり始めようとしていた。



 チーブス王国の王城にある謁見の間。

 そこに文武百官が、左右に分かれて集っていた。


 ステンドガラスから差し込む光が、室内を明るく照らしている。


 左右に分かれた座席の中央、左右の席を分断するように部屋の入口から真っ直ぐに伸びる赤い絨毯の上。

 一人の人物が跪き頭を垂れている。

 蜂蜜のような光沢のある金髪がその顔を覆い、その表情は誰からもうかがい知れない。


 後ろになるにつれて段差が高くなる階段状の座席で、居座った王国の権力者たちが思い思いに意見をぶつけている。

「どうするのだ! このままでは北西部の大都市をポトムの犬らに取られてしまうではないかッ!」

「き奴らはこのままこの王都へ向かってくるのかッ!?」

「ええいッ、軍はいったい何をしておるッ!?」


 唾を飛ばして軍部をなじる宮廷貴族たち。

 最前列には宮廷貴族、それ以降の座席は後部になるにつれ、座席の高さ比例して座る者の地位も高くなる。


 その時であった。

 一つの声が謁見の間に響いた。


「ジンジャー」

 そのたった一声で、騒ぎ立てていた室内は静まり返る。


 部屋の中央。赤い絨毯の進む先。

 左右に別れた座席の最後部より更に高い位置。

 そこにあるのは王国の意匠を凝らして作られた立派な王座が一つ。


 玉座そこに座る者を、人は王と呼んだ。


 王は肘置きに肘をたて、手の甲に顎を乗せた姿勢で臣下を見下ろしていた。


 その名を呼ばれた中性的な整った容姿の持ち主――ジンジャーは部屋の中央で無言で下げていたその頭をおもむろに持ち上げ、

「御心配には及びませんよ」


 こともなげに言い放った。


「心配には及ばん、だとッ!?」

「自信があるというものだからお前に軍を任せた結果、渡河後の千載一遇の機会を狙った初戦で、無様にもやられておるではないかッ!?」

「そうだッ! そうだッ!」


 宮廷貴族たちが再び騒ぎだす。


 ジンジャーは、沈痛な面持ちで、両手で自身の胸に手を当て、

「そうですね。それは私の不徳の致すところです。まさか、指揮官ともあろう者が欲にかられ、一撃離脱の命を忘れるなどと、司令官として指揮官を見る目がなかったとしか……おや? そう言えば、歩兵部隊の指揮官は私の管轄外でしたか」

 ジンジャーの含みのある物言いに、どよめく室内。


 後部に座る壮年の男が、文武百官をものともせず、演技がかった仕草を見せるジンジャーを睨みつける。

「……何が言いたい」


 ジンジャーを胸に充てていた両手を下ろすと、不敵に微笑み、

「私が騎馬隊だけではなく、軍を、任せていただけていればと思わない夜はないという話ですよ……いやはや、やはりこれも私の不徳といたすところです。唯一の戦果を独り占めていると、どうも私であれば、と考えてしまうのですよ」

「ぬぬぬ、調子に乗るなよッ!」


「そこまでだ」

 王の言葉に再度静まり返る室内。


「任命したのは余だ。お前たちに瑕疵はない」


「ありがたきお言葉」

「もったいなきお言葉」

 王の言葉に口々に紡ぐ言葉。


「余は民の為にもこの戦いを早く終わらせたい。無論余らの勝利で、だ。そこで、これまでの戦果を踏まえて、ジンジャー。ここからはお前が全体の指揮を取れ」


 予定にはない王のアドリブであった。


 謁見の間で行わる会議の内容は、概ねその会議が始まる前に既に決まっている。

 言わば、会議で行われるのは、内容の周知と確認、そして、問題提起の場であった。


 これは予定にはそうではない。

 この日一番のざわめきが生まれた。


「へ、陛下ッ!?」

「そ、そんな……」


 国王直々の指名に狼狽える者たち。

 狼狽えはせずとも、苦虫を嚙み潰したような顔を見せる者も多い。


 それを見てにやりと笑うジンジャーだが、たちどころにその表情を消すと、

「承知いたしました。ご期待に沿い、匹夫共を我らが領内から追い払ってみせましょう」


 臣下からの力強い言葉に、鷹揚に頷く国王。


 しかし、ジンジャーが紡ぐ言葉は終わりではなかった。

「――恐れ多くも陛下。一つお願いがお願いがございます」


 これには瞬く間に激昂する一同、

「陛下へお願いだとッ! ふざけるなッ!」

「貴様ッ! 身の程を弁えろッ」

「后妃様のお気に入りだからと言って、調子に乗るのも大概にしろッ!」

 怒号が飛び交う中で、飄々と両耳を両手で隠すジンジャーの仕草がまた怒りを買う。


 騒がしくなった室内を、国王は片手を上げて制する。


「それは余らの勝利に必要なことであるか?」

「はい。彼女抜きには我らが戦略的勝利は見込めないでしょう」


 今度は違った小さなざわめきが生まれる。


 チーブス王国も大陸有数の大国の一つ。

 ジンジャーの口ぶりから一人で戦況を覆す者が自国にいるような発言である。

 そのような情報は、この国の中枢に居座る者たちが知っていて然るべきであるが、誰も覚えのない話であった。


 何かを考えるように少し沈黙を貫いた国王であったが、

「……いいだろう。良きに計らえ」

「ありがたき幸せ」

 再び仰々しく頭を下げたジンジャー。


 その脳裏には、既に勝利のファンファーレが鳴り響いていた。

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