幕間 メアリー


 メアリー・シュウはポトム王国東部のある貴族、シュウ家の当主とその正妻との間の生まれた一粒種と言われていた。


 しかし、彼女の父と母は政略結婚で、メアリーがお腹の中にいる前からその仲は冷めきっていた。

 結婚後も両親ともに火遊び・・・を好み、お互いが愛人を持っていることも暗黙の了解としていた。

 そのため、東部貴族の一部の間では側室の子ともまことしやかに囁かれていた。


 メアリーの母親であり、シュウ家当主の正妻の女性は、産後まもなく流行り病にて他界。

 そのため、彼女は乳母によって育てられた。


 そんな彼女は、物心つく頃前から体を動かすことを好んだ。

 七歳前後より始まる特権階級における家庭教育では、礼儀作法や舞踊、学問より武芸を好み、淑女教育は壊滅的で、それは教育に訪れていた教師が、ついには匙を投げるほどであった。


 当然、シュウ家当主である父親はこれに怒った。


 メアリーの父親であるジョン・シュウは、代々後ろ暗いことに手を染めていることで東で成り上がってきたシュウ一族の今代の当主。

 例に漏れずジョンも出世欲や支配欲が強かった。

 惣領には継室の息子を早々に指名し、メアリーを力のある良家に嫁がせることで、自家の拡大を目論んでいた。


 ジョンにとって幸いなことは、メアリーは幼少期から見た目麗しく、闊達な少女であったこと。

 不幸なことは、ジョンが女としての価値を高めるために雇った東で評判の講師を始め、彼女が大人の言うことを全く聞かなかったこと。


 そのため、度々ジョンはメアリーを呼び出し、折檻しなければならなかった。


 しかし、いくら説教をしても、罰を与えても、言うことを聞くどころか、憂さ晴らしとばかりに家庭教育を抜け出し、棒切れを振り回して過ごしていた。


 それがしばらく続いたある日、遂に娘の蛮行を見かねたジョンがこう言った。


「女だてらに棒切れを振り回してなんになる。お前に武芸の怖さを教えてやる」


 ジョンは身辺を警護する近衛兵を引き連れると、メアリーを【領軍】と呼ばれる貴族の私設軍の鍛錬所へ赴いた。

 鍛錬所とはその名の通り、領軍の常備兵が日夜鍛錬に励む場所である。


 ジョンは鍛錬所に到着するなり、責任者の男を呼びだすとこう言った。


 ――見た目を損なわない程度に我が娘を打ちのめしてくれ、と。


 責任者の男は驚いたが当主直々の命令。

 怪訝に思いながらも、鍛錬所に詰めていた領軍で五本の指に入る若手の剣士に、実戦形式での彼女への指南を指示した。


 ジョンは、責任者の男から選ばれた剣士についての力量の説明を聞くと、これで娘も目が覚めるだろうとこれに満足げに頷いた。


 鍛錬所の一区画を貸し切っての一対一タイマン勝負。


 鍛錬所は四区画に分かれており、四区画の中心部は模擬専用の闘技場が確保されている。

 闘技場は真上から見下ろすと円形で、石のタイルが敷き詰められていた。


 区画が仕切られているとはいえ、半屋外施設であり、区画は密閉空間ではない。

 休憩中の者や雑事で通りがかった者は、目に映る光景への好奇心からその足を止めた。

 ジョンの思い付きであり、特に人払いをしていなかったため、その外野の数は時間を追うごとに増えていく。


 向かい合う剣士と少女。

 片や、軽装とはいえ、体の急所を防御した大人。


 片や、貴族男子が穿くのが一般的なキュロットパンツにチュニック。

 貸与された木刀は鍛錬所で最短のものだが、それでも長さを持て余しており、切っ先が地面についていた。


 責任者の男が二人の間に立つ。

 いつも屋敷では箒や庭の棒切れしか手にできなかったため、初めて握る木刀に興味津々な様子のお嬢様を見て、責任者の男はそっと彼女の対戦相手の剣士に耳打ちする。

 ――やりすぎるなよ、と。

 付け加えて、顔と腹は避けろ、とも。


 それに苦笑いで返す剣士。

 ――わかっている、と。


 審判を務める責任者の男は、二人を遮るように右手を間にたて、形式的に手合わせの際の口上を述べる。

 その様子を、区画上段の全体を見渡せる二階で、急遽用意させた椅子に座りながら、意地の悪い余裕の笑みを浮かべるジョンが見つめていた。


 口上を述べ終え、右手を下ろすと、試合が始まる。予想通り、勝負は一瞬であった。



 しかし、それは誰も予期せぬ形で。



 息を呑む声。崩れ落ちる剣士。


 そして、会場に訪れる静寂。


 審判の手が下に降ろされると同時に、剣士が袈裟切り。

 手心がなかったと言えば嘘になる。

 それでも剣士の男は、普通の子ども、いや、多少齧った程度であっても対応できないであろう速度で踏み込み、剣を振り下ろす。


 その時、剣士の頭の片隅あったのは、出世欲。

 シュウ家の当主様に自身の剣捌きを見ていただける絶好の機会だと。

 今日はツいていると。

 その脳裏に描くは、自身が当主の側に侍り、軍を指揮する景色。


 しかし、現実は地面から喉元に向けて、自身の剣を凌ぐ速さで迫りくる剣を知覚したのが最期。


 それが一人の剣士の、人生最後の景色であった。






 運び出される男の遺骸を、上階から戦慄の目で眺める父親ジョン


 その顔から先ほどまでの余裕は吹き飛んでいた。

 予想だにしない結末に思わず椅子から立ちあがり、観戦席の石造りの柵を力一杯握りしめていた。

 そして、状況を理解すると、その顔が瞬く間に赤に染まった。

 その頭の中はと言うと、領主の威厳で埋め尽くされていた。


「強い奴を出せといった! それを、こんな女子供に! 強い奴だッ! 次はないぞッ!!」


 階上からの当主の一括に、試合の結果を受けて血の気が引いていた責任者の男の顔色は、ますます蒼くなる。

 そして、どもりながら答える。次こそは、と。


 いつの間にか区画を埋め尽くさんばかりとなっていた野次馬は、この試合結果にさざめいていた。


 しかし、聞こえる声は慢心や油断、幸運と言った声。

 誰もが目の前の光景は、少女の奇跡的なまぐれ勝ちだと思っていた。


 次に試合に呼ばれたのは、領内で三番目の実力者であると言う古参の槍兵。

 顔やむき出しの腕には数多の向こう疵。

 それは語らずとも男の実力は表していた。


 剣術三倍段という言葉がある。

 剣術は槍術と対抗するには三倍の技量が必要という意味だ。

 まして、平民とはいえ領内では名の知れた歴戦の槍兵。

 対するは、番狂わせを見せたが、今日初めて木刀を手にした温室育ちの少女。


 予想通り勝負は一瞬であった。


 しかし、それも誰も予期せぬ形で。


 審判の右手が下ろされるや否や、槍兵が繰り出した一撃は少女の顔を掠めた。

 当主の娘である彼女を殺すわけにはいかないため、牽制で繰り出した一撃であった。


 しかし、メアリーは勢いよく放たれた一撃に顔色を変えず、穂先を見送る。

 それに留まらず、繰り出された槍の柄を素早くつかみ取り、槍が戻る勢いに合わせて踏み込んだ。


 身軽さと体重移動と槍自身が引き戻される力を活かし、その小さな体が宙を舞う。

 メアリーはその勢いのまま、槍兵の首元に木刀の切っ先を差し込んだ。


 声にならない声を上げ、もんどりうって後ろに倒れる槍兵。

 反動と軽い身のこなしで危なげなく着地する少女。


 倒れ込んだまま起き上がらない槍兵。


 おそるおそる責任者の男が倒れこんだ槍兵を覗き込むと、既に槍兵は故人であった。


 あっ、と腰を抜かす責任者の男。


 今度こそ静まり返る場内。


 いらだちのあまり、立ち上がって石造りの柵の縁を蹴り飛ばす父親。

 ストレスからの衝動的な行動であった。


「私の兵は雑魚ばかりかッ! このッ! このッ!」


 しばらく当たり散らしていたジョンであったが、後ろに控える自身の身辺を護衛する兵を思い出した。


 ジョンは後ろを振り返り、命令を下す。

「誰でもよい。我が娘を痛めつけろ。そうすれば、給金は倍弾もう」 


 貴族の領地の領軍の兵のそのほとんどは、領地の平民で構成される。

 基本的には十九歳になると徴兵され、それから二十五歳までの七年間は兵役に勤めるのが、男女問わず一般的である。


 十まで親元で育ち、十八まで学び、二十五まで勤めを果たし、四十までに独り立ち、というのが王国での社会観念として存在する。

 加えて、給金もきちんと支給され、寝床や食にも困らないため、三十歳を過ぎても軍属という話は珍しくない。


 その中で貴族の近衛兵は、領軍の中ではエリート中のエリートである。


 近衛兵は小貴族の次男次女以降の跡継ぎになれなかった貴族子女や、学園出身の下級臣民が多い。

 個々人の兵の質は領軍とは比べるまでもない。


 また、領兵はその多くが領地の平民で構成されているが、近衛兵は領兵にはない縁故採用がある。

 近辺の同じ四門に属する貴族の縁故の子女を迎え入れることや、所縁のある流れの者が採用されることが近衛兵では一般的である。

 こちらは領兵と違い、生涯雇用であることが多い。

 仕える中で武功を立て、家を興すことを誰もが夢に見ている。


 女性の軍役関しては、近衛兵に限らず、王国軍、領軍も同様で、妊婦や二十歳未満の子供がいる母親は軍役が免除されている。

 免除されたものの他に、毎年多くの女性が子宝を授かり退役している。


 そのため、軍内の男女比は女性の比率の方がやや少ない。

 一般的に二十歳で一度退役する傾向があり、出産後に復役する女性が多い。長命種はその限りではないが。


 装備に関しても、領軍の兵は皮の鎧、武器は槍と銅の剣。

 士官であっても革の鎧に急所に鉄あてが付いた程度、剣は鋼鉄の剣になるが質はよくないことが多い。

 領軍の装備は支給品だが代々使いまわしていることや、戦場での戦利品を流用しているからである。

 そのため、初陣で武具が敵の首を刺す前に折れることもさほど珍しい話ではない。


 一方、近衛兵は裕福な家庭の者が多く、自前で質のいい武具、防具を揃えて着任する。

 機能性に優れた防具、魔力の付与されている武具、加護のある装飾品など。

 そのため、貴族間の戦場では戦功の他に装備品目当てで、平民が一攫千金を狙い貴族や近衛兵に逃げずに立ち向かうため、軍との体裁が保たれている側面がある。


 ジョンの視線を受けて、一人の近衛兵が進み出る。


「では、私めが」


 全身をプレートアーマーで固めた戦士。

 頭部を完全に覆う鉄兜でその容姿は窺い知れない。


 シュウ家の近衛兵の多くは、金に物を言わせた流れ者で構成されていた。

 シュウ家は代々にわたり選民思想から魔力を重視して採用しており、

 その採用した中には、魔法協会に正式に認められた本物の魔法使いも多い。


 進み出た近衛兵がそうであった。


「魔法は?」

「雷と土の四位階でございます」

「よしッ! 行ってこい。期待を裏切るなよ?」

「ハッ」


 一礼の後に、足早に階下へ向かう近衛兵を背に、ジョンは今度こそはとほくそ笑む。


「大陸に跨る魔法協会の四位階は正真正銘の魔法使いである証拠。メアリーにも素質はあるかもしれないが学園で学び、協会の認可を受けた魔法使いには叶うまいて」


 ややあって、修練所の闘技スペースで向き合うメアリーとプレートアーマーで身を固めた近衛兵。


 本日一番の奇妙な組み合わせである。


 メアリーは言うまでもなく、ラフな軽装で相変わらず木刀の切っ先は地面に接している。

 対する近衛兵は、プレートアーマーに身を包み、メアリーの背丈ほどあろうかというロングソードの剣先を天に向けるようにして、丹田の前に構えている。


 番狂わせに次ぐ番狂わせで、額に汗をびっしり浮かべている審判を務める責任者の男が、震える手を振り下ろす。 


 先の二戦と変わり、メアリーに踏み込まない近衛兵。

 審判の手が下りると同時に、体を半身ずらし、体の重心を低く落として剣を構える。


 先ほどの二人にはない剣呑な様子に、思わず息を呑む審判。

 

 少しの間、にらみ合う少女と戦士。

 先に動いたのはメアリーであった。

 動かない近衛兵に痺れを切らしたのか、木刀を少し引きずる形で前に飛び出す。


 木刀の重さに負け、その速さは大したことはない。

 しかし、近衛兵の懐に飛び込むと、飛び込んだ勢いと、体全身を使って剣を振った遠心力の力で、木刀を近衛兵の鉄兜に包まれた頭に叩きつける。


 野次馬たちから上がるどよめき。


 メアリーの顔に獰猛な笑みが顔を浮かぶ。


 子供とはいえ、渾身の一撃を喰らったにも関わらず、相手が微動だにしていないことに気づくや否や、メアリーは木刀を手放し、すぐさま後ろに飛び退いた。


 直後、彼女が飛び退いた位置に叩きこまれた重い一撃。


 石でできたタイルが粉々に砕け、粉塵となって舞い上がる。


 これを間一髪で避けたが、服の腕の一部が切り裂かれており、判断が後一瞬でも遅れていれば、体ごと持っていかれたであろうことは想像に難くない。


 ここにきて初めてメアリーの額に浮かんだ一粒の汗。

 知らず息を止めていたのか、深く息を吐いた。


 ゆっくりと振り下ろした剣を引き戻す近衛兵。


「今のを躱しますか、すごいですね。素晴らしい判断力です」


 足元に落ちている木刀を拾いあげると、メアリーの足元に投げて寄越す。


「徒手の者をいたぶることは、騎士道に反します」


 ゆっくりと、しかし、視線を近衛兵から切ることなく、身を屈めて足元の木刀を手にするメアリー。


 メアリーは木刀を手にするのを確認すると近衛兵は、

「次はこちらから行きます」


 そう言うが早いか、素早く踏み込む近衛兵。

 全身をプレートアーマーに覆われているとは思えないほどの俊敏さで、たったの一歩で間合いを詰めた。


 これにはもともと大きな目をさらに見開くこととなったメアリー。

 これを横飛びに身を躱す。


 直後、振るわれる真向切り。


 転がるようにして避けたメアリーだが、すぐさま起き上がり、向き直る。


「これも躱しますか。貴女は」


 メアリーが戦士の教育を受けていないことは知っている。

 初陣を済ませていないことも言うまでもなくである。

 であれば、今の横に躱した動作は、得物の射程距離リーチの差で後ろに躱しても切られてしまうことを直感で感じ取って、それを即座に行動に移したということ。

 それを年端もいかない少女が。


 近衛兵はこの事実に、背中が薄ら寒くなるものを感じた。

 自分がこの年頃、いや、今のメアリーのような判断ができ、実行に移せるようになったのはいつのことか。

 今も射程距離リーチの不利さを悟ってか、ジリジリと距離を縮めてくる小さな戦士。


「しかし、今の貴女では私に勝てない」


 メアリーは近衛兵からの袈裟切りを寸でのところで躱し、躱した勢いを活かして体を回転させて、脛元に木刀を叩きこむ。


 しかし、これにも揺るがない近衛兵。

 メアリーは有効打と察するや否や再びすぐさま飛び退く。


 近衛兵はこれを追撃することなく、悠々と見送った。


 メアリーが不思議そうに、手にした木刀と近衛兵の鉄兜やプレートアーマーの脛元に視線を送るその心中を察したのか、対峙する近衛兵が鉄兜の内から口を開く。


「これが魔法です。私の【魔法属性】は雷と土。【七曜】と呼ばれる闇・火・水・風・雷・土・光の中で雷は"強化"を司る魔法属性。中でも私は魔法協会で認定される七位階ある魔法位階の第四位。五位階以下と四位階以上では大きな差があります。メアリーお嬢様、貴女はお強い。しかし、魔法の発露まだである以上は私に勝てる道理はありま――」

「シャアアアアッ!!」

「――まるで、獣ですね。しかしッ!」


 話を遮るように繰り出された全身を使ったメアリーの真っ向切りを正面から受け止め、力で跳ね退ける。


「なるべく傷が残らないようにしますので、あまり動き回らないでください」


 近衛兵は再び体を半身ずらし、体の重心を低く落として剣を構える。


 メアリーも相手を真似て、ここにきて初めて型らしい型を取る。

 体を横に向け、木刀の重さに負けないように体を捩じる。

 両手で木刀を握りしめた。

 受けを考えない超攻撃型の構えである。


 仕掛けたのはまたしてもメアリー。

 体を横向きのまま、斜めに走るように向かう。

 相手の射程距離リーチに入る直前で飛び上がった。

 全身の捻りを加えた袈裟切りを叩きこむ。


 それを逆袈裟切りで真っ向から迎え撃つ近衛兵。


 重なる剣劇。


 少しの均衡の後、メアリーの得物が砕ける。


 重心をかけていた剣先が消失した。

 メアリーは剣を振り切った勢いのまま、相手の懐に飛び込む形となった。


 それを見逃す近衛兵ではなく、返す刀ですかさず左袈裟切り。

 

 メアリーは間一髪でそれを空中に跳ぶことで回避する。


 そして、あろうことか、相手の剣の側面を蹴り飛ばすことで相手の射程距離リーチから逃れる。

 一歩間違えれば、足が物理的に体から離れていたであろう離れ技である。

 一連の攻防で手にしていた剣が半分に砕けたことが、幸いにも彼女の身軽さを活かすことになった。


 息を呑む攻防に沸きあがる場内。


 近衛兵は間髪を入れず、また一歩でその距離を詰める攻撃を放つ。

 得物が半分に砕けたことにより、リーチが短くなったメアリーも距離をとることなくこれに応じる。


 放たれた一文字切りをしゃがむことで回避するメアリー。

 頭上を木刀が通過すると、相手の右脇をかすめるように飛び込んで、相対する近衛兵の後方に飛び込んだ。


 近衛兵は一文字切りの勢いのまま体を反転させ、上段の構えに移る。

 飛び込んで来るようなら叩き潰そうと。


 しかし、近衛兵の考えに反して、振り返った先にいたのはメアリーではなかった。


 審判を務めている責任者の男だ。


 いざというときに止めに入らなければならない立場であるため、

 二人の後ろを付いていたのだ。

 そして、二人の立ち回りから、二人の横やメアリーの後ろでは、彼女らの攻防の巻き添えを食らうと考え、近衛兵の後方に付いていた。


 近衛兵と向き合う形となった責任者の男は、恐怖から両手で目をつぶって、交差させて頭を守る。

 交差した手の下から聞こえてきたものは、大の男の情けない声。


 これには堪らず、剣を上段で止め、固まる近衛兵。


 すると、審判の影に隠れていたメアリーは、審判の男を後ろから思いっきり蹴り飛ばした。


 少女の力とは言え、思わぬ強襲に責任者の男はたたらを踏み、近衛兵に抱き着く形となった。

 これにより、近衛兵は振り上げた剣を動かすことができなくなる。


「しまッ……!?」


 審判の後ろから繰り出される一撃。

 これに全身を強化させることで対抗する近衛兵。

 しかし、メアリーは木刀の切っ先を地面と平行にして、視界の確保のために空いている鉄兜の目元に突き刺した。


 先ほどの剣先の粉砕で鋭く細く尖った剣先は、するっと鉄兜に吸い込まれていった。


 直後に会場に響き渡る悲鳴。


「ぐぁあああああああああああああ!!!!」


 鉄兜から飛び散る赤い血潮。

 痛みに堪らず近衛兵は後ろに倒れこむ。


 鉄兜から飛び散る血潮を顔面に受けながら一緒に倒れこんだ審判が、追撃を企てるメアリーを慌てて制止する。


 相対する目が完全に逝っており、それが審判の股を湿らせた。


 誰かの叫ぶ声。

「衛生兵ッ!! 衛生兵をッ!! はやくッ!!」


 領軍で近衛兵は一人一人が一小隊の力を有し、戦時には指揮官となって陣頭指揮をとる。

 領軍の兵士と違い、おいそれと補充はきかず、間違っても模擬戦で失っていい存在ではない。


 階上では、ジョンが驚きのあまり腰を抜かして地面に倒れこんでいた。


 後ろに控える近衛兵たちも、同僚の敗北に動揺を隠せていない。

 近衛兵が敗北した事実に加えて、審判を人質にとる、急所をためらいなくつく、立て直す暇なく追いうちをかける、などメアリーの戦いぶりに恐れ慄いていた。


 素早く立ち直った近衛兵の幾人かが、ジョンが身を起こすことを手伝う。

 ジョンは生気のない顔で、胡乱な目を我が子に向けていた。


「ば、化け物だ。化け物だ。近衛兵だぞ、地方とはいえ近衛兵だぞ、正式に魔法位階を有する学園の卒業者だぞ、それを……あれ・・はなんだ。なんなんだ」


 ぶつぶつと呟くジョンは立ち上がったものの、現実を受け入れられず、力なく近衛兵に寄り掛かった。

 そして、娘に声をかけることもなく、そのまま鍛錬所を後にした。


 残されたのはメアリーと対戦相手の近衛兵と、それを治療する衛生兵とざわめく野次馬たち。


 メアリーの治療のために、領軍一の衛生兵を呼びつけていたことが幸いした。

 すぐさま木刀を引き抜き、鉄兜を取り外して、治療に取り掛かる。

 

 衛生兵たちが群がる様子を、最初はぼんやりと眺めていたが、治療が始まると対戦相手の顔への好奇心から輪に加わった。


「あっ、犬耳……」


 輪の中心には自身の血で真っ赤に染まった妙齢の女性。

 頭上には獣人族の特徴である耳。

 中でも兵士として優秀な犬人族の特長である犬耳である。

 彼女の特徴的なその耳は、今は痛みでぺたんと強く伏せられている。


 目元に充てられた白い布が瞬く間に赤に滲んでいる。

 その上から手を翳し、治療を行う衛生兵。


 痛みでぴくぴくと動くその犬耳を、メアリー興味深そうに眺めていたが、少しすると飽きたのか舞台を後にする。

 その手には、立ち去るときに拾った血に染まった折れた木刀。


 血に染まった木刀を引きずり、鍛錬所を練り歩く少女メアリー

 

 彼女の存在は瞬く間に、野次馬たちの口伝で鍛錬所内に知れ渡り、木刀を引きずる音がすると誰もが動きを止め、息を殺すようになった。


 この日以降、シュウ領の鍛錬所では木刀の引きずる音がすると、鍛錬所には静寂が訪れるようになった。

 この話がこの時に残した印象がいかに強烈だったかを物語っている。


 そしてこの日以来、ジョンは恐怖からメアリーを屋敷で遠ざけた。


 メアリーはこれ幸いと持ち帰った木刀を振り回し、指南役をコテンパンに叩きのめす。市井の町道場に道場破りに行く。鍛錬所に詰めている兵士を叩きのめす。などやりたい放題。


 それは、メアリーの武勇伝を風の噂で耳にしたフィンランディア公爵が興味を持って、メアリーを公爵領に呼びつけるまで続いた。



 執務室で一際豪華な椅子に腰かけ、過去のメアリーを思い返すジョン。


 ジョンは執務室で酒に溺れていた。その顔には隈と無精ひげ。


 部屋には書物や羊皮紙が散らばっており、部屋に飾り付けてあった観賞植物は引き倒され、絨毯にその中身をぶちまけている。

 部屋の明かりは付けられておらず、光源は窓からの月光のみ。


 ノック音が部屋に響くと、力なく返事をするジョン。


 入ってきたのはシュウ家に仕える老家令と、二人の侍従の者であった。

 三人は部屋の惨状に少し眉を顰めるが、すぐさま仕事に取り掛かる。

 この惨状はここ最近見慣れてきた光景であった。


 家令が胸の前で掌を上にすると、瞬く間に掌に熱が集まり、小さな火を形作る。

 それは部屋の隅々に飛び散り、部屋中の蝋燭に火が灯る。


 侍従の二人が部屋の掃除に取り掛かる中、家令の男は座席で酒を煽るジョンに言葉をかける。

「だ、旦那様。ここのところ少々飲みすぎでございます。随分と御心が惑わされているご様子。ここは、一度お休みなられていた方がよろしいかと……」

あれ・・はなんだ」


 脈絡のない一言。戸惑う老家令。


「申し訳ございません。あれ? と申しますと?」

「あの剣に取りつかれた魔女だッ!!」


 グビッと手にしたろくろに口をつけ、酒精を流し込む。

 喉が痛い程熱を持ち、それが腹に下っていく。

 口を離す同時に零れるゲップ。

 貴族らしからぬ醜態である。


あれ・・の噂を聞きつけた閣下にお渡しした時は肩の荷が下りた気分であった。それどころか、今代のフィンランディア公爵をはじめ、先代当主に気に入られ、次期当主筆頭であるアンリエッタ様のお供役に大抜擢されたときは望外の喜びであった。アンリエッタ様の股肱の臣となって四門の要職につくことができるのだが、できるはずだったのだッ!!」


 子供のように癇癪を爆発させるジョン。

 酒精が感情の箍を外すことに一役買っていた。


「しかし今はどうだッ。先月からあれ・・は病に臥せり、使い物にならんッ!! 医者に診せても原因不明ッ!! アンリエッタ様は入園を控えた大事な身。病を移すわけにはいかず、隔離処置!! あれ・・だけでなくこの私までもがッ!! 」


 自身を病原菌が如く扱う周囲の対応を思い出し、悔しそうに拳を握りしめたジョンだったが、やがて力なく拳を解いた。


「みな掌を返し、毎週のように届けられた貢物、毎日のように面会を求める声。そのどちらも今や途絶えた。さきほど閣下より、正式にアンリエッタ様のお供役から解任される胸の言伝を頂いた。これで我が家はおしまいだ」


 打ちひしがれた様子のジョンは、その知らせを受け取ってから、老人にも見えるほど老け込んでいだ。


「で、ですが、それはもとの鞘に戻っただけではございませんか。また再び盛り返せば――」

「普通であれば、な……。ただ、あれ・・はやり過ぎた。フィンランディア家の威光を借り、閣下の領地でも好き勝手していたそうだが、力あるときは大人しくへらへらしていた者たちがここになって牙を剥いて来たのだ。……先日、我が家の秘め事を漏洩リークする者が出た」

「ひ、秘め事と申しますと、ま、まままさかチーブスとの件でございましょうか」


 老家令は先々代の当主に採用され、先代から執事統括を務めており、シュウ家の裏にも精通していた。

 それだけに事が露見したことが、どれほど大変な事態か悟る。


「あぁ、そうだ。我が祖父からチーブスとシュウ家の密約の件だ。我らはチーブスに情報を流し、対立貴族を攻撃させたことや、逆に我が軍が情報を独占することでチーブスとの戦争を有利に進めていたことを傘下の小貴族が漏洩リークしたのだ。あいつらわが身可愛さに我が一族を売ったのだ。閣下は大層お冠と聞く。詳細な調査の後に沙汰を下す、とのことだが」


 唾を飲み込む老家令。


「て、敵対勢力との共謀の処罰は……」

「王国法では良くてお家断絶、悪ければ一族郎党死罪。いずれにせよ我が家はおしまいだ。父上に合わせる顔がない」


 自分で話していて、ワッと涙するジョン。悪い酒である。


 ひッと息を呑む老家令。

 しかし、沈痛な顔をジョンに向ける一方で、その脳裏ではそろばんを弾いて次の身の振り方をすぐさま考えるあたりはシュウ家の家令である。


「……それもこれも、あれ・・のせいだ。あれ・・が必要以上に目立ち、あまつさえ恨みを買うようなことをしたから。あれ・・はのろくでなしだッ!!」


 室内で同調シンクロする(((いやいやジョン様も大概ですよ)))という心の声。


 部屋の掃除を進めていた侍従たちはほんの一瞬動きを止めたが、すぐさま何事もなかったかのように澄まし顔で部屋の清掃を続ける。

 酒に溺れるジョンは室内に流れた微妙な機微を察することはできなかった。


 ジョンはただただ赤く充血した目で、一心に祈る。

 祈る他になかった。


「大丈夫だ。きっと大丈夫だ。私は栄えあるシュウ家の当主。私には祖霊の加護がある。……祖霊よ我が身と我が血脈を守り給え」


 この三日後、当主ジョンをはじめとするシュウ家の主だったものは王国法に則り、死刑。

 お家はお取り潰しとなることとなった。

 公爵の憐れみを持ってただひとり命を繋いだメアリーを残して。


 皮肉なことにジョンの願いの半分は叶ったのだ。


 シトラス一行がフィンランディア領に訪れたのは、それよりさらに三月ほど時間が流れた日の事であった。


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