十二話 治癒魔法と光と


 フィンランディア領主の居城。

 メアリーにあてがわれた自室に、鈍い音が響き渡る。

 

「はぁはぁはぁ……!」


 うつ伏せに倒れ伏すシトラス。

 倒れ伏した頭部から、瞬く間に絨毯に広がる赤い染み。

 絨毯は瞬く間にその色を忘れていく。


 剣を振り切った姿勢のまま固まるメアリー。

 手にした竹刀に付着する真新しい血。

 息は荒く、思考がまとまらない。


 後悔。孤独。辛く、寂しく、苦しい。


 頭がごっちゃになる感覚。眦に宿る熱。

 反して手足は冷水に浸したかのように感覚を失う。


 尻もちを着いて戦慄の眼差しを浮かべているミュールも、目の前で起きた惨状に頭の中は真っ白であった。


「シ、シト……」


 力なくミュールの口から名前が吐き出されると同時に、部屋のドアが勢いよく吹き飛ばされ、室内の隅にぶち当たって砕け散った。


 勢いよく飛び込んで来たのは、顔を蒼くしたバーバラ。

 元から白い顔はもはやキャンバスのような白さに到達していた。


 庇護者の登場で、二人・・の目に怯えが走る。


 バーバラは部屋の惨状を認識するや否や、シトラスが見たこともない鬼の形相で手をメアリーにかかげる。

「シトラス様ッ!! おまえぇぇぇぇッ!!」


 手をかかげると、メアリーの体は一人でに浮き上がり、そのまま勢いよく壁に叩きつけられた。


 その小さな体が壁に叩きつけられてからもその勢いは止まることはなく、潰さんとばかりにかかる圧。

 周囲のカーテンやベッドの布団、シーツが室内で突如生み出された強風に煽られて激しく波打つ。


「かはっ……!?」


 見えざる圧にあがくも、メアリーは指一本動かすことができなかった。


 バーバラの後で転がるように飛び込んできたフィンランディア家の家人。

 鬼のような形相のバーバラを必死に止める。

 風で乱れる髪を抑えながらの必死の静止の声。


「お、おやめくださいっ!! それよりまずはシトラス様の看護をッ!!」 


 シトラスの名前に、はっと我に返ると慌ててシトラスの元に身を寄せる。


 部屋に吹き荒れていた風が収まり、メアリーが力なく床に落ちて鈍い音を立てる。


 バーバラはメアリーを気にも留めずに、割れ物を触るかのようにゆっくりとシトラスの体を仰向けに動かすと、顔を近づける。


 ――気を失ってはいるが息はある。


 しかし、彼の額から左こめかみにかけて伸びる裂傷から、今もなお失われつつあるその命。


 すぐさまハンカチを取り出し、患部を抑えるがハンカチの白は瞬く間にその色を失う。


「と、とまらない。血がッ!? だ、大丈夫。頭の傷を見た目以上に血が出るもの。だから大丈夫、大丈夫ッ!」


 大丈夫だと繰り返し自分に言い聞かせる。

 そうでもしないとどうにかなってしまいそうであった。


 バーバラは半狂乱で振り返り叫ぶ。

「私の魔法属性は治癒系が使えないッ! お前はッ!」

「私も火と土ですのでッ! ただ、本城に行けば治癒を生業とするものが――」


 最後まで家人の言葉に耳を傾ける余裕はなかった。


 窓の割れる音、ついで室内に激しく巻き起こる風。


 床に伏せた家人が身を起こした時には室内に二人の姿はなく、圧力から解放され、壁際に力なく横たわるメアリーと、尻もちを着いた姿勢で呆然としているミュールが残されていた。






 屋敷の上を飛ぶようにして跳ぶ。


 フィンランディアに来てから三か月。

 領地経営の為に早々にロックアイス領に帰ったキノットに対して、フィンランディア家の現当主であるウィリアムと、シトラス本人の強い希望もあって、シトラスは引き続きフィンランディア領に残っていた。

 それに合わせて、バーバラとミュールもフィンランディアに留まっていた。


 バーバラが最初に気になったのは、違和感であった。


 シトラスがビルの下に弟子入りして二ヵ月。

 きまぐれにビルが手合わせをすることがあったが、最初はシトラスは手合わせにもなっていなかった。

 それがひと月を過ぎた辺りから、拙いながらに相手の隙や剣筋を読もうとする意気が感じられるようになったことだ。


 裏庭でのビルの鍛錬はひたすらに基礎固め。

 筋力や体幹を鍛える内容が多く、後は素振りを繰り返すだけである。

 他の鍛錬といえば、第一区画の走り込みによる基礎体力の向上。


 素振りはあくまで素振りである。

 数少ないビルとの手合わせで学んだのかとも思ったが、彼のじじいは口下手で感覚派である。

 自身の敬愛するシトラスも感覚派であるきらいがあるので、そういうこともあるのかな? とひとまず放置していた。


 それが今日誤りであったことを知った。


 契機はシトラスが走り込みに行っている間に、軽食をとりながら本城に努める侍従同士で情報の交換。

 この日は、休憩中のフィンランディア家の二人の侍従の会話に加わっていた。

 

 ここでは、侍従たちが務める中で耳にした会話や噂を共有する。

 フィンランディア東に隣接する仮想敵国のチーブスの動向や、中央の勢力関係など大きな視点の話から、第二区画のどこどこの店のカフェがよかったのだの世間話まで、その内容は様々である。


 とはいっても、会話の大半は世間話が占めており、バーバラはロックアイス家に関わること以外では、愛想笑いと社交辞令で切り抜けていた。

 

 今もある侍従が休日に行ったレストランの話で盛り上がっており、バーバラは左右対称な完璧な愛想笑いで、時折頭を上下に動かしながら、話を右から左に受け流していた。


 フィンランディア家に勤める侍従が新たな話題を出すまでは。


『そういえば、ロックアイス家のご子息様が狂犬の所に出入りしているのを見た、って』

『え? 狂犬って、あの?』

『そうなの。しかも一回や二回じゃないみたいなの』

『え~! バーバラさん大丈夫なの?』


 狂犬という単語に心配そうにバーバラを見遣る周囲。

 だが、肝心の本人に聞き覚えのない単語であったので、申し訳なさそうに話題を切り出した侍従に伺う。


『すみません。狂犬……というのは? あまり穏やかではない言葉ですが』

『狂犬っていっても本当の犬じゃありませんよ?』

『でも本物の犬の方がましですわ』

 一人の侍従がそう評すると、その場に居合わせた他の侍従も一斉に首を振って同意した。

『たしかにそうですね……。あっ、すみません。狂犬っていうのはあだ名なんです。フィンランディアで有名な一人の少女。メアリー・シュウ様につけられた』

『バーバラさんが来られるひと月ほど前にお家が、チーブスとの内通によりお取り潰しになって、一族は処刑されたのですが、メアリー様は成人前ということと、個人的に公爵様ご一家と懇意だったことから刑を免れていたのです』

 当時はこの事件はポランドで凄い騒ぎだったのですよ、他の侍従が補足した。

『ただ、お家が取り潰される二か月ほど前から、彼女は体調を崩されており、第一区画のお屋敷に閉じこもっておいでなのですわ』

『そのお屋敷にロックアイス家のご子息様がいらしてるって。メアリー様のお屋敷で務めている者が言っていたので間違いないと思います』

『……すみません。少し用事を思い出しました。失礼します』


 バーバラは平素を装い、侍従に与えられた休憩室から退出すると、見咎められない程度に小走りで本城脇に設置されている厩戸へ。


 どうにか頼み込んで馬を借りると、シュウ家の屋敷まで一目散に駆けてきた。


 守衛に事情を説明して、なお渋る守衛に証拠とばかりに印章を見せつけ、半ば強引に屋敷に踏み入る。


 小走りで屋敷内に入ったバーバラは、シトラスの気配を辿って二階に駆け上がる。

 二階に数ある部屋の中で一つの部屋だけ家人が立っていたので、その部屋に歩み寄る。

 それと、同時に耳に入っていきた何かを殴る音とうめき声、そして何かが倒れる音。


 廊下にも漏れてくるほどの荒い息。


 聴覚からもたらされた情報に、バーバラは息を呑んで駆け寄り、家人の静止を振り切って部屋の扉を吹き飛ばして入った。


 そこには彼女が恐れていた光景が広がっていた。


 血に濡れた竹刀を抱える少女。尻もちを着いている少年。


 そして、両者の間で、倒れ伏す敬愛する少年。


 倒れ伏して動かない頭から絨毯に広がる赤。

 

 衝動が思考を支配した。


 それからは、あまり覚えていない。

 ただ、家人の治癒できるものが本城にいるという言葉を信じ、シトラスを抱えて外に飛び出す。


 建物の屋上を駆けて、本城へ。

 足場にした屋根がえぐれるほどの跳躍。


 胸に抱きかかえたシトラスへ最大限配慮しつつの加速。


 布巾だけでは出血抑えきれないので、自身の胸に強くシトラスの頭を押し付ける。

 赤に染まる白のエプロン。

 時間と共にその範囲を広がっていく。

 服を通して伝わる生暖かさがひどく不快であった。


 屋敷の屋根を飛び越え、第一区画と本城の間の放牧地帯を駆け抜け、守衛たちの驚いた表情をよそに本城の正門へと飛び込む。


「ど、どうかなさいましたか!?」

「急病人ですッ!! 衛生兵はどこにッ!?」


 バーバラの尋常ではない様子に驚く守衛であったが、胸に抱いた少年と血に染まったエプロンから事態を察する。


 すぐさま懐から貝のようなものを取り出すと、貝全体を一度強く握りしめた後、貝の穴に向けて話し出す。


「こちら正門守衛。こちら正門守衛。きこえますか」

『……ぞ……うぞ……どうぞ』

『急病人発生、治癒術士ヒーラーを館の中央出入口まで手配されたし」

『急病人発生、館の中央出入口への治癒術士の手配、承知しました』

「ありがとうございますッ」


 魔法具で通信中も、焦る気持ちを隠し切れないバーバラの体は、小刻みに揺れていた。


「魔力はまだ持ちますねッ!? 館から正門までだと少し距離があるため、駆け足でも十分ほどかかってしまいますッ! そのため、館の正面の出入口に治癒術士を手配しました。あなたの足で彼をそこまで連れて行って下さいッ! 五分もあれば治癒術士が来ますのでッ!」

「重ねて配慮ありがとうございますッ!」


 素早く一礼すると、砂埃を巻き上げる。正門の姿が瞬く間に小さくなる。


 一分もしないうちに館の正門に着いた。

 館の奥から金髪の女性を筆頭に、治癒術士と思しき集団が向かってくるのが見える。


「この上にそっと寝かせてください!!」


 治癒術士たちは到着するや否や、【移動式魔法陣スクロール】と呼ばれる魔法が記された羊皮紙を広げる。

 広げられた羊皮紙の大きさは等身大ほどあった。

 特殊な材質でできた紙には、びっしりと文字が書き込まれている。


 言われるままに、そっと移動式魔法陣の上にシトラスを寝かせる。


 青白い光がスクロールからシトラスを包むように発せられ、顔色が幾分か和らぐ。


 すると、すぐさま一人の女性が進み出てシトラスの頭部に手を当てる。

 彼女の手からはスクロールと同じ色味、だがより強い青白い光が発せられ、その光を受けると傷口がみるみる閉じていく。


 傷の治癒に比例してシトラスの顔から険が薄れていく。

 最終的には安らかな寝顔となっていた。


 ほっと胸を撫で下ろす治療班とバーバラ。


 患部に手を当てていた女性もシトラスの傷が塞がり、呼吸が安定したのを確認すると、彼の額に浮かんでいた汗を拭い、傍らで彼を見守るバーバラに話しかけた。


「……ひとまずこれで大丈夫です。ですが、すみません。傷跡までは……」

「いえッ! ありがとうございますッ!」


「患者に着きましては、失った血が戻ったわけではないので、今日明日の運動は控えることと、滋養のつく食事をとることを心掛けてください」

「はいッ! ありがとうございますッ!」


 スッと治癒術士の視線の質が変わる。


 患者に対するものから、物事を見極める視線へと。 

「それで次はこちらね。私の旦那の領地で流血騒動とは穏やかではありません。詳細をお聞かせ願います」


 シトラスを治癒した彼女は、カイナ・イスト・フィンランディア。

 金髪碧眼の見た目妙齢の女性。ウィリアムの妻にして、アンリエッタの母。そして、フィンランディアの治癒術士の長を務める女傑。


 カイナは温厚な性格で華麗な立ち振る舞いから、ポトム王国東部では羨望を集めている貴婦人である。しかし、普段温厚な彼女はキレさせると当主であるウィリアムよりも怖いと、領内ではもっぱらの噂。


「カイナ様……実は――」



 フィンランディア本城の執務室。


 フィンランディアの当主が公務を取り仕切る一室。

 執務室は数ある部屋の中でも小さい。

 これは執務室に閉じこもらず、足を動かして現場を確かめるというフィンランディア家の家訓に由来している。


 ウィリアムが手元の書類に印を押していると、部屋の外から誰かが小走りで向かう音が聞こえてくる。

 その足音の持ち主は勢いそのままに、ドアが勢いよく開け入ってきた。

 ウィリアムは判を持ち上げた体制で固まった。


 その視線は乱入者を確認すると細かく動いた。

 何か思い当たることはないかと瞬時に考えたのだ。


 ずんずんと歩を進めたカイナは、ウィリアムの作業机の前まで来ると、その机を力強く叩いた。

 反動で机の隅の書類がいくつか床に落ちていく様子に一瞬目が映るが、すぐにカイナに視線を戻すウィリアム。

 優先度を誤ってはいけない。特に親しい中であればこそ。


「聞きましたかッ! メアリーが他家の子女に傷をつけた話をッ! よりにもよってロックアイスの縁者をッ!」

「いや、なんのことだい? 私は何も知らされていないよ」


 興奮して詰め寄る妻に、心底わからないと戸惑った様子を見せるウィリアム。


「謹慎中のメアリーがシトラスに危害を加えたのですッ! シトラスはアンリの片腕となるベルの実弟。ベルとは懇意にしていかなければならないというのに。そうでなくても、シトラス君は私の友人のダンシィの実子です! それを……。これも御義父様とあなたが甘やかすからッ!」

「まぁ待ってくれ。話を整理させて欲しい。まずは、どうやって? メアリーは第一区画の屋敷でこのところずっと療養中のはずでは?」


 困惑するウィリアムの様子に、少し落ち着きを取り戻したカイナは事情を説明する。


「少し前に御義父様がシトラスをメアリーのところへ連れ出していたみたいなの。それからこっそりお見舞いに行っていたんですって」

「そうか、父上には困ったものだな……。でも、それなら何故メアリーは見舞いにきた彼に危害を? 子どもとは言え、あの子はそこまで馬鹿じゃない」

「それはまだわかりませんが……。では、貴方はシトラスから襲い掛かって返り討ちにあったと言いたいの!?」


 またもや、落ち着きを失うカイナに対して、手にしていたペンを机の上に置き、落ち着かせるようにゆっくりと首を振った。


「いいや、そういうつもりはないよ。ただ状況を整理しないと。いずれにせよ。本家に滞在中に預かったご子息に怪我をさせてしまったのはよくないね。まず、シトラスは無事かい?」

「えぇ、私が治癒しました。頭部の怪我だったので出血がひどかったですが命に問題はありません……ただ……」


 歯切れの悪いカイナの様子に、ウィリアムは眉を顰める。


「ただ、どうしたんだい?」

「……傷が恐らく残るわ。頭部からこめかみにかけて。あなたも知っているでしょう? 頭部に強い治癒魔法はかけられない」


 領地に招待した良家の子息に治らぬ傷痕を残した事実に、ウィリアムはたまらず、左の指で目頭と鼻の骨との間にあるくぼみをつまんで、深いため息を吐いた。

 先代当主が先導している時点で、紛れもなくこちらの落ち度だと。


「あぁ知っているとも。外部の魔力が頭部に与える影響は大きい。パイエオン教がこれを解明して公表するまでに、いったい何人の患者が犠牲になったことか。特に魔力の不安定な幼少期であればなおさらだ」

「あぁ、どうしましょう。……ダンシィが悲しむわ。あなたは知らないかもしれないけど、彼女はシトラスを溺愛しているの」


 シトラスとベルガモットの母親であるダンシィとは、カイナは学園時代からの親友。

 恋愛相談、妊娠中、産後の精神ケア、子育ての助言をし合うほど親密な関係で、それは今でも文通をするほど続いていた。


 ある日を境に、文の中身はそれまでのベルガモットの教育の話や、夫に対する愚痴から、一人の話題に変化した。


 シトラスが泣いた。動いた。お漏らしをした。甘えた。笑った。食べた。立った。喋った。ひとつひとつに一喜一憂し、何かと自慢してきた。

 長子であるベルガモットはまったく手のかからない子であったこともあるのだろう。

 次子は貴族では珍しく手ずから育てたというのだから、愛情の入れ込みようは一入である。


 ほとんどの貴族は育児、教育は乳母を始めとする侍従に任せるため、自慢話を聞かされる度に、少し損をした気分になったものだ。


 大人の友情は稀有である。

 共に過ごした日々は絆であり、過ぎさりし時間は絆を強くした。


 しかし、それが今は彼女を苛む。


 親友ダンシィの怒りを恐れるカイナに、ウィリアムが助け舟を出す。


「私からも謝罪の文をしたためよう。それと、謝罪の証として贈答品をすぐに用意する。ロックアイス夫人はお優しいお方だ。そして何よりカイナ、君の友人だ。誠意を尽くせばわかって頂ける。大丈夫さ」


「そう……そうよね。私も謝罪の文と今度会った時に直接お詫びするわ」


「メアリーについては、きちんと注意しておくよ。ただ彼女もいま不安定なんだ。原因不明の病で日に日に弱っていく中、父親の不正が見つかり、彼女以外の一族は死罪。父親の自業自得とはいえ、家族を失ったんだ。母親は彼女を出産して間もなく亡くなっているから、今や彼女は天涯孤独なんだ。以前にも話したと思うが子に罪はない……違うかい? 今回のことは確かにメアリーに非がある。わかるよ。だからその点は私の方から注意しておくよ。だから……」


「わかった、わかったわよ……確かにメアリーの立場には同情する余地はある。ただこれっきりよ? 次誰か意味もなく傷つけたら、あなたと御義父様が何と言おうとフィンランディアから叩き出すわ!!」


 カイナは言うことだけ言うと、嵐のように立ち去っていった。


 ウィリアムは小さく息を吐くと、床に落ちた書類にそっと手を伸ばした。



 日が落ちて闇の帳が降りた。

 荒れ果てたメアリーの部屋。


 バーバラによって吹き飛ばされた故に部屋にドアはない。

 彼女が突き破った窓は一時的に木の板で防がれていた。


 二枚ある窓のうち一枚は板に閉ざされ、もう一枚の窓から入ってくる光も、今は雲の影で覆われ、室内は薄暗い。


 木の板は月の光を遮り、部屋に一層の影をもたらしていた。


 あれから二日。

 メアリーは食事もとらず、ベッドの上で膝を抱えていた。


 手足は氷に浸したように冷え切っていた。

 手足同様に心まで冷え切り、どこまでも沈んでいく感覚。

 何も見えない。何もわからない。


 ことの発端は些細な口論。


 メアリーの下に通い始めて一か月。

 初めて竹刀で手合わせして以来、三人は徐々に話すようになった。


 あの日、三人の話題はメアリーの実家の話になった。


 その中で、ミュールがメアリーの実家を揶揄したことが、彼女の気に障った。

 それは、自分でも理解できない怒りであった。

 ただただ頭がカッとなった。羞恥による怒りを抑える術を持たなかったのだ。


 気がついた時には、竹刀を手にミュールに襲い掛かった。


 しかし、感情に身を任せた一撃は、寸での所でミュールに防がれた。

 それがまたひどく彼女の気に障った。ついこの前、剣を握ったばかりの弟弟子の抵抗が。


 これまでの稽古ではなんだかんだ手を抜いていたが、許さない。


 気がついた時には、彼に本気で竹刀を振り下ろしていた。

 直前で二人の間に影が飛び込んできたが、血が上り切ったメアリーは躊躇うことなく、それごと切り捨てた。


 竹刀が折れる破裂音に続き、鈍い打撲音。


 そして、力なく倒れるシトラス。

 シトラスに押し退けられて、尻もちを着いているミュールの瞳には恐怖。

 その瞳に映るメアリーの顔にも浮かぶ恐怖の感情。


 それは彼女にとって初めての感情。


 それを整理する間もなく部屋に飛び込んできたバーバラ。

 とても一介の侍従におさまらない身のこなし、目つき、殺気。


 そして、怒号と衝撃。


 それからは一瞬であった。

 バーバラは、メアリーの身動きは封じると、倒れ伏したシトラスを抱えて、窓を蹴破って出て行った。 


 メアリーは、それをただ見送ることしかできなかった。


 その後、部屋に集まった衛兵たちに竹刀は取り上げられ、窓は木の板で塞がれた。


 それはまるで外の光を閉ざす壁のようにメアリーは感じたが、彼女には自身の凶行がもたらした結果に、何もすることもできなかった。


 あれから彼女の部屋に訪れる者はいない。






 ふと、頭に重みを感じる。

 メアリーはその重みに逆らうように徐に顔を上げた。


 目は真っ赤に充血して、瞼はぱんぱんに腫れあがっている。

 目元には薄っすらクマができ、少女らしからぬげっそりとした表情で生気がない。


 定まらない焦点をゆっくりと横に向けると、そこにはシトラスがいた。


「や」

 何も変わらない笑顔。


「……え?」


 徐に目に光が灯る。


 そんな彼女の髪をゆっくりと撫でる。

 まるで父であるかのように、兄であるかのように。

 自分が失くした、失くしてしまったと思っていた姿がそこにはあった。


 変わらない態度。

 変わらない笑顔。

 唯一変わったのは、左のこめかみから髪の生え際に残る年齢にそぐわない裂傷。

 塞がっている傷だが、まだ傷の生々しさを残している。


「げんきないね? だいじょうぶ?」


 変わらぬ笑顔で、彼女の髪をさらさらと指ですくう。


「……て……うして?」

「え?」


 事件の日から数日声を出していなかったため、彼女の声は少しかすれていた。

 自身の頭を撫でる彼の後ろを見ると、応急処置で取り付けられていたはずの木の板が、いつの間にか割れて転がっていた。


 そしてそこには、剣呑な目つきをした一人のメイドの姿も。


「どうして……?」

「どうしてって、どうして?」


 自身のもたらした結果を思い出して、苦しそうに問いかけるメアリー。

 そんな彼女に対してシトラスは笑顔で首を傾けた。


「わたし、き、きずつけた。そのひたいだって」

「あぁ、これ? かっこいいよね? せんし、ってかんじがしてッ!」


 ベッドの上で俯くメアリーに反して、額の傷をなでながら、朗らかに笑うシトラス。


「でも、だって……」

「いたかったよね。つらかったよね」


 なおも言い募る彼女に対し、先ほどとは違う笑みを浮かべる。

 優しい笑みを。相手への思いやりの笑みを。


 被害者が加害者にかける言葉では決してない。

 本来労わるべきは加害者である。だが、そうはしなかった。させなかった。


 雲が切れ、遮るものの無くなった窓から光が差し込む。


「ぼくはしっているよ。あれはじこだって。だからきにしてない。だからメアリーもきにしないで」


 ついでに、ミュールもゆるしてあげて、と。


 顔を上げると真っすぐに見つめるまなざし。


 光を背負った少年が屈託なく笑う。


「もっとわらってよ」


 そのまなざしが、言葉が、感情が。

 心にスッと溶けるように、混じるように入ってくる。

 胸の奥が熱くきゅうっとなる感触に、無意識に胸元を握りしめて皺になる服。


 生まれて初めて感じる奇妙な感覚だが、今のメアリーはそれをどこか心地よいと感じ始めていた。



「――ということだからバーラもきにしたらだめだよ!」

「しかしッ!」

「だめだよ?」


 メアリーの見舞いに行きたい、というシトラスの我儘を叶えた後、フィンランディアの本城で与えられた部屋に戻った二人。


 二人が部屋に戻ってきた時には、ミュールは既に寝入っていた。


「こればっかりは……第一キノット様とダンシィ様にはなんと?」

「うーーん。きにしないで、って? うん。たぶんいけるいける」

「いやいやいやいやいや。さすがに……」

「だいじょうぶ。ふたりともぼくにあまいからッ!」


 屈託ない笑みに、ぐっとなるバーバラ。


 無理でしょう、と続けるつもりだったバーバラであったが、がんばって押し切ろうとするシトラスの様子に、うん、なんかいけそう、とクールな表情の下で身悶える。

 彼女もとことん甘い。


 本人が今回の件で心を病む様子を少しでも見せたのであれば、真剣に闇討ちを検討したのだが、本人が気にしておらず当人同士の和解も済んでいるなら野暮。

 それに確かに領主夫妻、特に奥様は溺愛しているので許しそう、根拠ソースは私、と脳内で結論を瞬時に弾き出す。


「そうですね。では、私の方から事のあらましを書面で伝えておきます。先日フィンランディア家より送り出されたロックアイス家への伝令がもうすぐ届く頃でしょうから。きっと奥様とベルモット様が心配されると思いますので」


「じゃあおてがみにも、ぼくがきにしないで、っていっている、ってかいておいてね!」


「承知しました」


 この後まもなく領地に帰ることになるのだが、主従揃って両親にこってりと絞られるのであった。


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