九話 帰宅と家族と


 ロックアイスの屋敷内のキノットの執務室。


「――で、連れて帰ってきたと」


 事の経緯をベルガモットから聴き、腰かけた椅子の上で深くため息を吐くキノット。


 ベルガモットによってシトラスたちを襲った悪漢を撃退後、シトラスは彼女に連れられて、ミュールと共に領館に戻った。

 そして、そのまま身を清める間もなく、キノットの執務室で父子の再開を果たしていた。

 その途中、シトラスがバーバラに泣きつかれる一幕もあったが割愛。


 執務机の上に肘を置き、組んだ両手に顔を沈めるキノット。


 キノットが心労に頭を悩ませていると、執務室の扉が勢いよく開いた。


「シトッ!」


 飛び込むように入ってきたのは、シトラスとベルガモットの母親であるダンシィ。

 よほど急いだのか、長い髪を振り乱し、前髪の一部が少し口にかかっていた。


 ダンシィは執務室を見回し、我が子をその視界に収めると駆け寄り、ギュゥゥゥっと抱きしめる。

 手加減を忘れた剣士上がりの母のそれは苦しくて、シトラスが彼女の背中をタップしなければならなかった。


「あぁ、無事で本当によかった……ヴェレイラもずっと貴方のことを心配していたわ。あとでその元気な顔を見せてあげて。ん? この子たちは?」

「彼は何というか……シトラスが拾ってきたんだ」

「……シト? どういうこと?」


 膝を曲げ、シトラスに視線を合わせたダンシィは、部屋の隅にカチコミに固まって立つ少年のことを尋ねた。


「いっしょにいたいんだ……だめ?」

「ううん。駄目じゃない」

「こらこら」


 首を傾けるシトラスに二つ返事。

 内容は二の次だ。

 それを苦笑いを浮かべたキノットが優しくたしなめる。


 夫の突っ込みを受け、ひとつ咳払いを入れて仕切り直すダンシィ。


「……彼のご家族は?」

「シロッコとモート」

「その二人はどこにいるの?」

「わからないんだ。ぼくたちをにがすためにのこっていたんだけど……」


 かなしそうに眼を俯かせるシトラス。

 その後ろに立っているミュールの瞳も悲し気にしょげる。


 年少者二人の悲痛な表情に、胸を打たれるダンシィ。

 母性を擽られた様子で、片膝をついて息子の頬に手を添える。


「そう……。それじゃあ彼のご家族が見つかるまで、ね?」

「ありがとう母上ッ!」


「また、シトを甘やかして……」


 小言を言う夫を振り返ってキッと睨むダンシィ。

 嫁の圧に思わずたじろぐキノット。


「いや、まあ、うん。ご家族が見つかるまでだね。き、きみの名前は?」

「ミュール!」


 ミュールが言葉を発する前に、シトラスが割り込む。


「ミュールね。よろしくね。私がロックアイスの現当主でありシトラスの父親でもあるキノット。そこの赤毛の女性が私の妻であるダンシィ。そして、君たちをここに連れてきたのがシトラスの姉であるベルガモットだ」


 キノットの紹介を受けて、慌てて会釈するミュール。

 借りてきた猫のようにカチコチである。


「じゃあ二人とも。湯浴みをしてくるといい。さっきからひどい臭いだ。セバス!」

「はい旦那様」


 部屋の隅で置物のようにじっと控えていた老執事に声をかける。


 すると、それまで彫刻のように不動であったセバスが頭を下げた。

 存在を完全に消していたセバスに驚いたミュールが、びくっと肩を震わす姿に母性が擽られたダンシィはくすりと笑みを零した。


 執務室に流れる柔らかな空気。


「セバス、二人を湯浴みに。着替えの準備も頼むよ。それと夕食の人数を増やすように厨房に伝えてくれるかい」

「それなら私が。私もちょうど汗を流そうと思っていたので」

「そうかい? じゃあ湯浴みはベルに任せるよ。着替えと厨房への連絡はセバス。頼んだよ」

「畏まりました」


 セバスが扉を開き、ベルガモットを先頭に子供たちが出ていく。


 子供たちが全員出ると、最後にセバスが一礼の後に扉をゆっくりと閉めて、彼らの後に続く。


 四人が部屋から見送ると、椅子に深くもたれるキノット。

 眼鏡を取ると左手で眉間を抑えた。ぐっぐっと指でツボを刺激する。


「やれやれ。次から次へと……」


 再び大きく息を吐く。


「でも無事でよかったわ」

「それはそうだが、自由が過ぎるなー。誰に似たんだかなー」

「さぁ誰でしょうね。……それよりあの子の身柄は?」


 夫の言葉に意味深に笑いかける妻。


 しかし、話がミュールの身柄に触れると顔が変わる。

 父親の顔から領主の顔へと。


「さっき言った通りだよ……ミュール、と言ったかな。ダンシィも気づいているだろう? 彼は魔力保持者ホルダーだ」


 魔力保持者、読んで字のごとく魔力を有する者を指す総称である。


「えぇ……平民の多くは魔力は貴人の特権能力と誤解している人が多いけど、魔力は誰もが持って生まれてくるもの。ただ、その総量が貴人と平民で大きな開きがあるだけ。その中で持つ者の中でも人並み外れた魔力を持つ者の総称、魔力保持者ホルダー。平民の魔力保持者ホルダーは心無い者に狙われやすいものね」


「あぁ、貴人の魔力保持者ホルダーは魔力の扱いを学ぶ過程でそれの隠し方を身に着けるものだが……」


「私やシトみたいに魔力が多くなくて、体内で生成した魔力が漏れ出さないくらいなら心配ないんだけどね。あそこまで漏れているとなると心配ね」


「それに『魔力保持者ホルダー魔力保持者ホルダーを殺すとその力が強くなる』なんて風説もあるからね」


 その風説こそが、セカマがわざわざ年端もいかないミュールを、その手にかけようとした理由であった。


「あれってどうなの? 前から気にはなっていたんだけど」


 キノットは左手の人指し指と親指を自身の顎に置くと、いい機会だとダンシィからの疑問に答える。

 彼は根っからの文官肌で、それは休日は趣味で魔法史の研究を行うほどだ。


「うーーん。どうなんだろう。僕はあまり信じてないけど、一部の貴族では魔力保持者ホルダー狩り、って言って、力を得るために領内の魔力保持者ホルダーを殺して回る者が今でもいるらしい。でも、今の主流はどちらかっていうと魔力保持者ホルダーを保護して自勢力に加えることかな。力が得られるかも定かじゃないのに力ある領民を殺すなんて、税収は減るし、反感は買うし、メリットは少ないよね。それより、自勢力でその力の使い方を教えた方が軍事力増強に繋がるから、そっちの方がいいよね」


 夫の意見に頷いて同意する妻。


「たしかにそうよね。ご家族が名乗り出てもミュールの処遇は考えないとね。私のところで面倒を見てもいいわ」

「そうかい? なら、頼もうかな。ここ数年で王国の東に隣接するチーブスの攻勢は強くなる一方だ。フィンランディア閣下も手を打たれているが状況は芳しくない。少しでも我が領地の足しになるなら子供だってなんだって使うよ」


 非情な言葉とは裏腹に悲しそうに述べるキノット。


 実際に、ここ数年ポトム王国は東の隣国のチーブス王国と緊張状態にあり、度々国境で小競り合いが生じていた。

 ロックアイス領も直接被害にはあっていないものの国境近くの領地とあって、油断のならない状況である。


「せめてその力を振るうことがないことを願わないではいられないよ」


 椅子の向きを作業机から反対に向け、窓から夕の景色を見つめるキノット。

 ダンシィがそっと夫の横に身を寄せ、二人で黄昏たそがれる。


 執務室の窓から見える空は血のように紅く、どこまでも――。



「ふぅー、さっぱりしたー」


 湯浴みを終え、セバスの用意した部屋着に着替え、応接室でくつろぐシトラスとミュール。


 椅子に腰かける二人だが、ふかふかのソファにミュールはどこか落ち着かない様子でそわそわしておいりた。その顔はのぼせた様子で真っ赤である。


 セバスが用意した水の入ったグラスを片手でぐびぐびっと傾けるシトラスに対し、グラスを両手で大事に持ち、ちびちびと舐めるように唇を湿らすミュール。


 シトラスにとっては実に二週間ぶりの湯であった。

 そして、ミュールにとっては生涯初の。


 入浴により垢まみれだった二人の体は、年相応につるつる卵肌に。


 特にミュールは見違えた。

 皮脂でガシガシだった髪もさっぱりと、垢で薄黒かった肌色も健康的な色になり、見栄えのする容姿となった。


 垢と汚れで煤けていた髪は本来の黄金色を取り戻した。

 髪と同色の釣り目の瞳と相まって、見る者に野性味溢れる少年という印象を与える。

 かつて、街中でこの少年の物盗りスリに制裁を下した大人も、誰も彼とは気づくことができないであろう変わりようだ。


「あ、あったかいお湯なんてはじめてはいった……」

「いいでしょ?」

「あ、あぁ。それに……。おまえいっつもねーちゃんとふろにはいっているのか?」

「え? いつもじゃないけど、よくはいってるよ?」

「そ、そうか……いや、なんでもない」


 シトラスの言葉にもどこか放心状態である。


 風呂と年上の少女の裸体。彼は二重の意味でのぼせていた。


 一緒にお風呂に入った三人だが、ベルガモット髪を乾かすため、二人は先に応接室に来てくつろいでいた。


 扉の近くに控えるセバスもミュールの様子に目元を少し緩めていたが、扉の向こうから聞こえてくる足音を拾うと引き締めた。


「お坊ちゃま。お嬢様が来られました」


 セバスは一礼すると、応接室の扉を開ける。


「お待たせシト」


 応接室に入ってきたベルガモットに足して、同じ子供と言えど年上の少女。

 その大人びた様子に先ほど目にした光景を思い出して、顔を赤面させて背けるミュール。


 まだ何も知らない少年には刺激が強すぎた。


 ベルガモットはというと、年少の視線や反応を歯牙にもかけていない。

 風呂に入って文字通り垢抜けたミュールを視界に収めると、「さっぱりしたな」とだけ。


 ベルガモットの声にそむけていた顔を合わせ、改めて見惚れているとミュールの腹の虫が響いた。

 違う理由でますます顔を赤くするミュールに、くすっと笑うシトラス。


「夕食の準備も整っておりますのでご案内いたします」


 どこか柔らかいセバスの言葉にミュールは顔を俯かせて、ゆっくり頷いた。



 ミュールはロックアイス一家ファミリーの食事の席。

 席次は、キノットを上座に、そしてダンシィ、ベルガモット、ヴェレイラ、シトラスとミュール、と男女で左右に分かれて座り、食事は始まった。

 それぞれの背後にはセバスとバーバラが控え、給仕している。


 食事の前にシトラスと再会したヴェレイラが、感動のあまり彼を抱きしめて抱え上げ、スラムから無事に帰ってきたが、彼女の胸のスライムで危うく窒息死する一幕があったことはご愛嬌。


 食卓の上には色鮮やかな野菜に、暖かいスープ、不純物のない透き通った水。そして、ふかふかの白いパンに肉料理。


 貴人との食事とあって、ミュールは最初こそ大人しかったが料理を口に入れる毎に、その目は輝きを増し、途中からは周囲の事は見えていなかった。

 マナーなどなく、子供らしくただただ食す。


 幸いなことにロックアイスでは、それを無礼と捉える者はなく、というかシトラスもあまり綺麗な方でない。

 久しぶりの家族の食卓は、以前にもまして暖かなものとなった。


 食後のお茶の時間ティータイム


 満腹感から弾力性のある椅子の居心地の良さから、椅子の上でうつらうつらと舟をこぐミュール。


 シトラスはこの二週間の冒険を楽し気な様子に、両脇に座るヴェレイラとベルガモットに話していた。


 上座に座るキノットと、その横に座るダンシィもシトラスの話に耳を傾ける。


 話の中でシトラスがゴミ箱を漁っていたことを下りでは、ダンシィがそれまで浮かべていた笑みのまま石像のように固まり、キノットが口に含んだ紅茶を吹き出す一幕あった。

 両親の顔色は話が進むにつれ蒼くなり、最後のセカマに襲われた下りでダンシィは意識を飛ばし、キノットは、セバスのカップに注いだ紅茶を喉に通さずに空にする羽目になった。


 しかし、そんな二人とは対照的にベルガモットとヴェレイラには好評の様子。

 二人にとっては楽しそうに笑って話すシトラスを見ることができたらそれでいいようだ。


「あー。シト。その、なんだ。ほどほどにな?」

「……うん!」


 絶対わかってないな、とキノットはがっくり肩を落とす。


「それそうとシト。お前には私と共に二週間後、フィンランディア領へ行かなければならないんだ」

「父上。シトは戻ったばかりですよ?」

「そうよ、あなた。何もそんな……」


 女性陣から非難の声。

 ダンシィは息子の再会を切り裂くキノットの発言に、シトラスの話で失っていた意識を取り戻した様子。

 心のなしか給仕のバーバラやセバスまでもがジト目で見ている気がして、キノットは慌てて弁明する。


「うん。お、お前たちの気持ちはわかる。わかるぞ。私とてシトの父親だ。しばらく家を空けた息子と話したいことはある。だが、フィンランディア閣下がお呼びなのだ。わかってくれ。今回は私とシトの二人だ」


 四門の一角で王国東部を支配する主家、フィンランディアの名前出されると、ダンシィもあまり強くは言えない。


 当のシトラスはというと、違うところに関心があるようで、

「ミュールは? ミュールも一緒がいい!」

「う、うーん……大人しくしているんだよ? はぁ、行儀見習いという形で連れていくか……」


 キノットとしてはスラム育ちの少年を連れて行きたくはないが、これ以上は誰にもへそを曲げられたくないため、少し逡巡した後に、承諾を告げた。滞在中のシトラスの話し相手として。


「私はその前にお別れかなぁ……」

「そうね。ヴェレイラは、来週迎えの馬車が来ることになっているわ。私たちとしては好きだけいてくれてもいいけど、北を統べる四門の傘下に名を連ねるあなたのお父様の外聞にも関わることだから……」


 主家以外の四門に子息を預けるということは、それだけ特異なケースであった。

 場合によっては、主家への裏切りの嫌疑をかけられかねない行為である。


「だいじょーぶ、がくえんであえるよ」


 ロックアイスを離れることに気落ちするヴェレイラに、シトラスは変わらない笑顔を向ける。


「そう……そうだよね。私もシトが入学してくるまでにがんばるからね」


 主家であるフィンランディアの名前にダンシィは引き下がったが、ベルガモットは食い下がる。

「父上。フィンランディアにはあの暴力女がいるから私も同行したいのだが」


「駄目だよベル。お前には学園の準備があるだろ。学問に剣術、魔法指南に礼儀作法。入園までに学べることはまだある。聞き分けてくれないか」

「しかし……」


 なおも渋る様子のベルガモットに頼み込むキノット。


「頼むよ。ベル。お前はこのロックアイスの次の惣領なんだ。そして、フィンランディア閣下の覚えも目出度く、お前はアンリエッタ様とともに今後は四門の東を率いていく存在なんだ。学園は実力による序列制だ。入学前に学べることはやっておかないと。頼むよベル。ひいてはシトのためだ。ベルが学園で地位を築くことができれば私たちも安心してシトを学園に送り出せるというものだ」


 ベルガモットは目を瞑って深呼吸した。


「……それがシトのためになるのであれば」


 父親のプライドを投げ捨てて娘に懇願するキノットに、不承不承に受け入れるベルガモット。


 自分の言が受け入れられほっとした様子を見せるキノット。

 当主として、家長として、何より父親としては情けなくも映る光景。

 こうまでする理由がある。


 ベルガモットは天才である。


 それは父親の贔屓でもなんでもない。

 四門の東の長であるフィンランディア公爵が、次期当主の娘の側仕えに直々に指名するほどである。


 側仕えを命じられた者は、仕えた者が当主の座に収まった際の側近、腹心。

 現に東の前線を預かる中将、近侍を統括する近衛長官は現当主の側仕えだったものが、文官を統括する政務長官は先代の側仕えだったものが任官していた。


 そのため、各貴族は自身の縁のある者をその立場に押し込もうと暗躍する。

 縁故、金子、風評、容姿。代々当主が次代の側仕えを明言するまでは、権謀術策が飛び交うものだ。

 このあたりは宮廷だろうが地方だろうが大差はない。


 多くの場合は、貴族からの推薦を当主が吟味して、可否を下す。


 だが、ベルガモットは違った。

 その才覚と容姿故に、地方貴族の中でも弱小、いいとこ中堅であったロックアイス男爵に当主が直々に依頼したのだ。

 それは次期当主自らの強い推薦があったとも噂され、東の多くの貴族が妬心から疑いの目を向けた。

 曰く、金で買った評判、田舎の美人、人違いなど。しかし、そんな噂も当人を前にすると沈黙した。沈黙せざるを得なかった。


 同性も唾を飲む可憐な容姿、魔法を使いこなす・・・・・・能力。

 老若男女を引き付けるカリスマ性。

 冷やかしでベルガモットを目にした者は自身の子女を対抗馬とするのを早々に諦め、逆に取り入れてもらおう画策とするほどであった。


 誰が呼んだか"東の傑物"。


 ロックアイスの次期当主の座は確約されているが、既にその椅子に収まる器ではない。

 次で十二を迎える齢で、既に父親以上に優れた娘。


 キノットは、よく自分からこんな天才が生まれたもんだと今でも思うことがある。

 そのため、キノットはベルガモットには頭が上がらない。

 別の面で嫁にも頭が上がらず、息子に頭を上げると嫁と娘の顰蹙を買ってしまうため、ロックアイス家で誰よりも地位が高く、誰よりも頭の低い男、それがキノット・ロックアイス。


「幸い、メアリー嬢もあれ以来体調を崩して屋敷に籠っていると聞く。そうでなくても、同行するバーバラには接触を避けるように指示するから大丈夫さ」


 父親のこういう楽観的な所はしっかりシトラスに引き継がれていると思うと、血のつながりを感じることができて、会話を見守る母親の頬は優しく緩んだ。



 薄暗い寝室。


 部屋に洒落っ気はなく、木刀、薙刀、槍、矛といった武具ばかりが目に付く。

 武具もベッドの脇や床に散らかっており、槍にいたっては壁から生えていたことから、この部屋の主の気性が窺える。


 壁に飾られていた額縁は真っ二つに切り裂かれ、留め具によりかろうじて釣り下がっている。

 窓際に飾られていたであろう花瓶は床にぶちまけられ、瓶としての原型を留めていない。

 水は干上がっており、花もしおれている様子から、その状態になってからそれなりの時間が流れていた。


 ずたずたに引き裂かれたカーテンからのぞき込む差し込む月光が唯一の光源。

 ベッドの横にある蝋燭は、もはやその形を残してはいない。


 光が照らす先には一人の少女。


 その呼吸は荒く、額からこめかみに汗が何度もつたう。

 癖のある赤髪は一段と乱れ、その呼吸は荒い。


 胸を掻きむしり、ネグリジェのボタンがはじけ飛ぶ。


「はぁはぁはぁ……」


 辛いとき、悲しいとき、孤独の影は深まる。


 少女はうっすらと目を開けると、ベッドの脇の小机に置かれた水差しに震える手を伸ばす。

 常なら力強いその赤の瞳も、今や焦点が定まっておらず、その手つきは怪しい。

 なんとか水差しを手にし引き寄せて、口を開けゆっくりと水差しを傾ける。


 しかし、水差しから少女の口に伝うものはなかった。


 開いた口が震え、次の瞬間にはその水差しは引き裂かれた額縁に叩きつけられ、その形を失った。


 与えられた衝撃で床に落ちる額縁。


 雲が月を覆い隠すと、部屋には闇の帳が下りる。


 部屋に木霊するは少女の声。

 

 この部屋の主であり、正体不明の病状に身体を苛まれている少女の名をメアリー。

 東では中堅に位置する貴族であるシュウ家の息女である。

 本来であれば執事や侍従が身の回りの世話を行う立場の人間だが、部屋にその影はない。


 小さくくぐもった声を出すと、胸を押さえベッドの上で体を丸める。それはまるで母親の胎内で守られていた赤子の頃を思い出すかのようであった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る