六話 スラムと街の妖精と


 スラム街にあるシロッコたちの寝床。


 呼ばれてやって来た町医者。

 触診や問診を行った後、おもむろにミュールの頭に手を翳した。

 翳した掌から生み出されたほのかな青色の光が、ミュールの顔を照らす。


 誰もが真剣な顔で、町医者の治療を見守る。


 しばらくすると、ミュールの頭上に翳していた手から生み出されていた光が霧消し、その手を閉じる町医者。

 彼もまた、シトラスの主治医と同じくパイエオン教の信徒の一人であった。


「これで大丈夫じゃろ。あとはこの薬を毎日一さじ飲ませよ」


 スラムを相手にする唯一の町医者は、懐からクシャクシャになった包みを取り出し、床に置いた。


「また何かあったら来るといい。もちろん銭を持ってな」


 銭がある奴はいつでも歓迎するぞ、と言い残し、町医者は薄髪から覗く頭皮を夕日で輝かせながら襤褸家から去っていった。






 医者が立ち去ると、事の顛末を見届けたミスティアも去っていった。

 シトラスに対して、早く親元に帰るように、と言う言葉と共に羽織を残して。


 シトラスは、親元まで連れて行ってやろう、というミスティアの提案を笑顔で断って、今は藁むしろの上で横になっているミュールの隣に座っていた。


 時間はお昼を過ぎた頃で、お腹の虫が空腹を告げる。


「おなかへった……ごはんのじかんだ」


「坊主、俺たちの家族になるなら条件がある。飯か金を調達してこい。モートはやり方を教えてやれ。もし坊主が――」

「シトラス」

「ん?」

「坊主じゃなくてシトラス。シトでいいよッ」


 精一杯凄んだつもりが全く効果のないシトラスに、無精ひげをぽりぽりと掻くシロッコ。

「あ、おぉ、うん……俺はシロッコ。で、こいつがモート。……で、だ。坊主が飯か金を取れたら俺たちの家族として認めてやってもいい。モート。シトに飯の取り方を教えてやれ」



 モートに連れられ、シトラスは街の人通りの多い通りに出てきた。


 服をシロッコ達にあげたシトラスの服装はというと、シロッコ一家と同様に、上は東部一帯で主流のゆったりとしたシャツ。

 下は東部一帯で主流のガウチョパンツという、モートのお下がりを身にまとっていた。

 隣に立つモートとの違いは、ミスティアから貰った極東で着られる羽織の有無である。


 羽織が大きすぎたため裾を引き摺り、マントみたいになっているのはご愛敬。


「この通りの一本奥にある大通りが領主の屋敷に通じている大通りで商人や領主関係者が馬を走らせるのに使っているんだ。その裏通りであるこの通りは、ここで暮らしている人たちが使っているんだ」


 そうモートに説明されてシトラスは、辺りを見渡す。

 商会から逃げる時に紛れ込んだ人込みより人は少ない。

 行き交う人が着ている服は、大通りのそれより簡素なものが多い。


 行き交う人をよそ眼に通りの店を教えるモート。

 あそこはパン屋、ここは居酒屋、そっちが八百屋と。


 飲食の関係のある店を見つけると、その店の脇道に入るモートとそれについていくシトラス。


 モートは店の脇道に置かれたどこか生臭い木箱を見つけると、小走りで近寄り、蓋を開ける。

 蓋を空けるとその生臭さは強くなり、シトラスは思わず、眉間にしわを寄せ、鼻を摘まんだ。

  

 そんなシトラスを背に、木箱の中を漁りながらシトラスに説明するモート。


「いいか、こういう店は早い者勝ちだ。ただ早すぎても駄目だ。飯が落ちてないからな。例えばこの通りの酒屋、木漏れ日亭は日暮れと夜明けの毎日二回。逆に角のパン屋のコケッコは光の日の日暮れにまとめて捨てるから、その日はかなり激しい競争になるんだ」


 そろそろと後ろからモートの漁る木箱をのぞき込むシトラス。

 ツンと来る匂いにやられて少し涙目である。


 涙で鼻声となって思い浮かんだ疑問を投げかける。


「きょうそうって、だれと?」

「オイラたちみたいな奴だよ。シトもそのうちわかる。それより、やりかたはいま説明した通りだ。オイラはここから北を探す。シトはここから南を探すんだ。いいな?」


 危ない目にあったら逃げるんだぞ、と言い残しモートは、今しがた漁っていた木箱の隣の箱の蓋を開け、中身を漁り始める。

 あたりに漂う腐臭が一段と強くなった。

 シトラスは三歩下がった。


 そんなモートからしばし見つめた後に、シトラスは言われるまま南に歩みを進めた。


「よくわからないけど、はこをあけてたべものをとったらいいんだね」

 

 しかし、幼年とはいえシトラスも貴族である。

 木箱、もといゴミ箱でシトラスが今まで口にしてきたものに出会えるわけなどなく。


「うっ、くさい……」

「ないなぁ……」

「ここにもない……」


 南に足を進めながら、何個目にかになるかわからないほどゴミ箱を漁る。

 額にほんのりと汗がうかび始める。


 ごはんをたべるってたいへんなんだなぁ、などとどこかずれた認識をするシトラス。

 ロックアイス家が知ったら卒倒ものである。


 丁度、そのときパン屋から体格の良いエプロン姿の女性が出てきた。


 パン屋の女将だろうか。

 頭にスカーフを巻き、その腕にバスケットがぶら下げられ、黒パンがそのバスケットから顔を見せている。


 パン屋の女性は外へ出るや否や熱い視線を感じ、振り向くとそこには金橙髪金橙眼の少年シトラスがいた。

 シャツのサイズがあっていないため、シミ一つない綺麗なデコルテがこんにちはをしている。

 このあたりでは珍しい羽織を身に纏っており、いろいろとあべこべである。


 女将は奇妙な格好の少年を不思議に思った。


 スラムの子が表通りに出てくることは少ない。

 たまに出てくるときは盗みや乞食が大概であり、そういった少年はどこか荒んだ雰囲気があり、目に光がない。

 何よりそういった者は視線に敏感で、視線が合うと目を背けるか、そそくさと逃げていくのだ。


 女将は少し困惑した。その不自然な肌つやの良さや、無遠慮だが不快には感じない視線に。

 女将はシトラスにスラムの子、というより、自身の子を重ねていた。


「た、たべる?」


 スラムの子にしてはえらく肌つやがいいわね、とか思いつつ、バスケットから黒パンを一本差し出す女将。

 シトラスはパンを受け取り、地面を手で払い地べたに座りこんだ。


 そして、祈りを捧げると、一口大に千切ったものをその小さい口に入れて咀嚼する。千切る、食べる、千切る、食べる……。

 

 気がつけばどこか場違いなシトラスの様子に、足を止める者が出てきた。

 珍しい恰好の少年が、粗末な服で上品にパンを食している。

 そして、どこか視線を集める彼の所作。


 黒パンはシトラスが普段食べている白パンより酸味が強い。


 途中、喉が渇いたのか喉に指をあてる。

 シトラスがキョロキョロと人だかりを見回すと、足を止め自身を見遣る人の中で、革の水筒を手にしている髭面の男と目が合った。


 目が合った。目が合っている。目を合わせてしまっている。


 ――の、のむ?

 

 ――うん


 言葉はいらなかった。


 そして、人が人を呼び、いつしかシトラスを見守るように人の輪ができていた。


 三分の一ほど食べて手が止まったシトラスは、周囲の人だかりを見渡したかと思うと、手にしたパンをちぎって配り始めた。


 最初に水をくれた髭面の男に、

「おみずをありがとう。このパンあげる、おいしいよ」


 それから次々と手渡しで配るシトラス。

 一口サイズのパンを渡された観衆も、子供からの善意ということもあって素直に受け取り、周囲の人と顔を見合わせながらもやがて一息に口へと放り込んだ。


 そんな周囲をよそにパン屋の女将に礼をのべるシトラス。

「あー、おいしかった! ありがとう!」

「そ、そう?よかったわ」


 ぺっかーという笑顔に女将もどこかほっとした様子。

 すぐさまほっとした自分を不思議がる女将。

 だが、女将にはその不思議な感情を整理する時間は与えられなかった。


「パン屋、俺にもパン同じパン一つ」「あ、俺にも!」

「私にも!」「わ、私も!」

「お、押さないでください! パンの欲しい方は中でも売っております! 今ならできたてですよ!」


 シトラスの食事を見守った観衆は髭面の男を皮切りに、パンを求めて女将に殺到したのだ。


 女将はシトラスに少し待つように言いつけると、人並みをパン屋に誘導した。


 そして、しばらくすると小さな袋を抱えて再び表に出てきた。

 女将はきょろきょろと辺りを見渡し、シトラスの姿を見つけると小走りで歩み寄り、両手でシトラスの両手を包んだ。


「ありがとう坊やッ。味には自信があったけど昔からある北のパン屋に知名度で負けていて、今日も店先で立ち売りしようかと思っていたのよッ。でもこの分だと心配いらないわねッ。むしろ私も中に戻って追加のパン作りを手伝わないとッ。ね、坊や。また、来て頂戴ねッ。坊やはとても美味しそうに食べてくれるからいい宣伝になるわ!」


 腕まくりをした女将は興奮気味で、これは今日のサービス、と腕に抱えた小袋をシトラスに渡す。


 シトラスが中を確認すると黒パンが三つ入っていた。


「わぁ、ありがとう」


 パン屋のおかみさんにぶんぶん手を振ってお礼を言い、歩を南に進めた。


 領地は中心に近づく程発展しており、逆に離れると人通りも減り、店も減る。


 しばらく歩いていたが飯処は見つからない。

 気がつけば通りの終わり、検問所の前にたどり着いた。

 その頃には太陽に染められ、空は青からオレンジ色にその姿を変えていた。


 もと来た方角へ戻ろうと思い、足を翻したところで、正面から一陣の強い風。


「わっ」


 それは通りを歩く人々が思わず頭を抱え込むほどであった。

 シトラスも思わず顔を腕で交差するようにして隠す。


 風はすぐに止んだ。

 止んだ風に代わりコロコロ、とシトラスの足元に届く赤い球体。


 それは北部の特産であるリンゴと呼ばれる果実であった。


 どうやら店先に並んでいたであろう果物の籠が今の突風で傾き、いくつか籠の中身が落ちてしまった様子だ。

 奥で店主と思しき、頭に手ぬぐいを巻いた無精ひげの男が、籠を抑えていない方の手を額に当てているのが見える。

 

 足元まで転がってきたリンゴを拾い、収まるべき店へその足を向けた。

 ついでに露店の足元に転がっていたリンゴも二、三個拾い、収まるべき籠に収めた。


「おぉ! ありがとな坊主!」

「これはなに?」


 つんつん、と突き、くんくんと嗅ぎリンゴに興味を示すシトラス。


 「何って、リンゴだよ、リ・ン・ゴ。俺んとこのリンゴは東のフィンランディア産じゃなくて北のアブーガヴェル産でな。何が違うってまず甘味がつえーのよ、ってガキに言っても分らんか」


 ロックアイスの食卓にリンゴが並ぶことはあっても、調理済みのリンゴしか知らないシトラス。


 店主はパンの詰まった袋を抱えているが、みすぼらしい服のシトラスを見て、余程貧しい家の子なんだな、と思う反面、そんな貧しい中リンゴをくすねるでもなく、集めるのを手伝ってくれるなんていい子じゃあないか、と胸を熱くする。


 この店主は若いながらに街を旅する行商人。

 各地で露店を出し、生計を立てていた。

 どこか軽い印象を抱かせる見た目に反して地頭が良く、先見の明もあり、取引先の商会のひとつであるバレンシア商会での評価も上々である。

 しかし、口の悪さと直情的な性格が災いして、ぱっとしない生活を送っていた。

 

「ま、ひとつやるよ。食えばわかる」


 ぽん、っと店主はリンゴを一つシトラスに投げてやる。


「どうやって?」

「どうやって、ってそりゃあ勿論齧るんだよ。お前もちっさくても男だろ、がぶつけがぶつけ」


 店主はリンゴにかぶりつく様子を、虚空そらで勢いよく実演する。こうだ、こうッ! と。 

 店主の実演通りかぶりつくとはいかないものの、口をつけるシトラス。


 シャリ。


 シャリシャリ。


 シャリシャリシャリシャリ……。


 店主はうまいか、とは聞かなかった。

 べたべたに汚した口から零れる音が、全てを物語っていたからだ。


「あまくておいしいッ!」


「おー、そうだろそうだろ。フィンランディア産は酸味が強いからな。それと比べると、アブーガヴェル産は芯に近づけば近づく程甘くなるリンゴだ。加えてアブーガヴェル産は、芯まで食べられるんだ」

「あ、ほんとだ!シャキシャキしておかしみたいだ!」


 通りの端と言ってもそれなりに人は通る。

 奇妙な格好の少年が美味しそうに頬張るリンゴから、皮に閉じ込められていたアブーガヴェル産の濃く甘い匂いが、辺りに漂う。


 一人、二人と足を止めて露店を見やると、そこにはそれはもう幸せそうにリンゴを頬張る少年。


 一人が二人になり、二人が三人になった。

 

 店主はこれ幸いとリンゴを小さく切り分けると、小さなトレイに乗せて、シトラスに手渡した。

 その際に、こそっと耳打ちし、

「これ良かったら周りに配ってくれねぇか?」


 シトラスはこれを快諾すると、最後の一口を飲み込み、早速トレイを片手に小走りで周囲に配りに向かう。

 手ずからリンゴを取って渡す無邪気な少年に、周囲は躊躇いながらも受け取ってしまう。


 止めとばかりに店主が、

「そいつはタダだ! ただうまかったら一個でも買ってってくれよ!」

 との声が飛ぶ。


 無料タダなら、と手にしたリンゴを口にするが食べ終わるや否や、

「て、店主、俺にリンゴ一、いや二袋」「私は三袋!」

「俺は二袋!」「こっちも二袋!」


 店主に殺到する人々。


「へ、へい!」


 驚きながらも笑みを浮かべる店主のもと、しばらく袋を掲げる客でごった返した露店だが、あっという間にアブーガヴェル産だというリンゴは完売した。

 店主は最後の客を捌いた店主は、汗を拭って店から出てくると、シトラスに小さな麻袋を渡した。中にはリンゴが二つ。

 

「へっ、こんだけ売れたのは坊主、お前のお陰だよ。そいつの見返りだ。俺はこう見えても商人なんでな。借りは作らねぇ主義なんだ」


 照れくさそうに鼻の下を指でこすり、ぶっきらぼうに振る舞う店主。

 ぱっと輝く少年の顔を見て、ほら行った行ったと手を払った。


「わ、ありがとう!」


 商人のおじさんにぶんぶん手を振ってお礼を言い、その歩みを南に進めた。



 太陽が地平線に姿を隠す頃。

 空はオレンジ色から青に染まろうとしている。

 

 モートは襤褸屋に帰って成果をシロッコに報告していた。

 ミュールはまだ藁むしろの上で寝ている。


「オイラの方は当たりだ。今晩と明日の分の飯が獲れた。木漏れ日亭で質の良い飯が出たんだ。ついているぜ」


 モートはそう言うと嬉しそうに顔をほころばせて、腕に抱えた残飯を地面に並べた。


 カビの生えた黒パンに痛んだリンゴ、それにほとんど可食部のない骨付き肉たち。


「あのガキは?」

「オイラと違う所で飯をとっているはずだ」

「あんなやつに飯をとれるもんか」

「違いねぇ。で、アニキ。ほんとにあいつを置いておくんですか?」


「まーな。服もらった分は面倒見てやろうかと思う。何かの役に立つだろ。あの身なりだ。まず間違いなく、いいとこのガキだろ。もしかしたら、親がガキを探していれば謝礼を弾んでくれるかもしれねぇ」


 トントン、と扉を叩く音。


「だれだ?」


 来訪者に警戒する様子を見せた二人だが、ぼくだよ。シトラス、という声で肩の力を抜いた。

 

「やっと戻ったのか。遅かったな」


 やれやれと肩で笑う二人。

 シロッコが顎で扉を指すとモートが扉の閂を抜いて、新入りを迎え入れた。

 

 わととと、と声を出しながら覚束ない足取りで、甘い香りの漂ってくる麻袋とパンの刺さったバゲットを腕一杯に抱えたシトラスが室内に躍り込んだ。

 そのまま、倒れこみそうになったところをモートに抱きとめられた。

 

「お、おおおお前、こ、これ!?」


 シトラスの収穫に目を剥く三人。

 口をパクパクして言葉が出ないモート。


「ま、まぐれだ。まぐれ! 明日だ明日! 次は銭の方を手伝え。とりあえず今日はここで寝るのを認めてやる」


 モートが部屋の隅に重ねられたほつれだらけの布を引っ張り出し、藁むしろの横の床に敷く。


 シロッコは懐から鉄片を取り出して服で拭った後、ナイフ代わりにリンゴとパンを布の上に切り分ける。

 大きさは歪で、鉄片の錆がリンゴの切り口に付着している。


 大きい順から、シロッコ、モート、ミュール、そしてシトラス。


 お皿などなく、お世辞にも衛生的とは言えず所々、でこぼこした大地が、こんにちは! している。

 

「主よ。お恵み感謝します」


 日がすっかり暮れ、天井の隙間から覗く月光のもとでシロッコが祈り、皆が続く。


 食事を終えると、床に着く。

 この時代では明かりを持たない者は、日と共に床に伏し、日と共に起き上がる。


 ミュールの寝ている藁むしろの上に横になり、食事の際に床に敷いていた襤褸布を掛け布団にする。


 屋敷で食べる食事と比べものにならない食事。

 切り口は歪で一口目には錆の味が広がる。


 そして、藁むしろの上で固まって雑魚寝。

 床は固いし、隙間風は入ってくる。


 何もかもが屋敷とは違う環境。


「なに、にやにやしてんだ」

 ミュールの胡乱気な視線もなんのそ。


 それがシトラスにはたまらなく楽しかった。






 次の日、太陽が地平線から姿を覗かせ始める時間帯。


 シトラスはシロッコに連れられて、ミュールと共に通りに面した近くの広場に来ていた。


 町医者の治療を受け、丸一日安静にしたおかげで、ミュールの顔色がだいぶ良くなっていた。


 シトラスはあくびを噛み殺しながら、目の前で胸を張るミュールを、寝ぼけ眼で見ていた。


「いいか、ゆだんしているやつをねらえ」

「ゆだん?」

「そうだ。ぶつかったり、うしろからさっとだな――」


 こうだ、こうッ! と身振り手振りで先輩風を吹かすミュールの指導に、ふわあ、と欠伸で返すシトラス。


 ミュールのこめかみがピクピクひくつく。

「お、おれはこっちのとおりでやる。おまえはむこうのほうでやれ! しょうぶだからな!」


 ミュールは突然転がり込んできたシトラスのことを快く思っていない。

 同じ年頃の友人と呼べるものが周囲にはおらず、この同年代の少年には負けたくない、負けるはずがないんだと気張っている。


 この年頃の少年は何かと優劣をつけたがるものなのである。






 太陽が地平線に姿を隠し始める頃。

 オレンジ色の空が日没を告げる。


 部屋をトントン、と叩く音が襤褸屋に響く。ミュールが物乞いを終えて帰ってきた。


「アニキー、戻ったぜー」


 ミュールの声を合図に部屋の中で閂を抜く音が聞こえる。


 襤褸屋に入ったミュールは床に座る二人の前に座り込んだ。


「おうミュール。どうだった?」


 シロッコの問いに、へへーん、と胸を張って答える。

 その顔には青あざができていたが、そんなことは日常茶飯事なので誰も触れない。


「どうかが三まいとてっかが十一まい、それとなんとしょうぎんか一まい」

 

 親指で小銀貨を上に飛ばして、今日一番の成果を二人に見せつけた。


「おぉ、小銀貨か! 久しぶりの収穫だな! これで今週は食うものに困らずに済みそうだ!」


 上から【白金貨、金貨、大銀貨、銀貨、小銀貨、銅貨、鉄貨】。

 金貨以上は富裕層でのみ流通している高額貨幣であり、逆に鉄貨は専ら市井の間でのみ流通する少額貨幣である。


 王国臣民の大人一人の生活費がおよそ大銀貨一枚、大衆食堂の食事代が小銀貨一枚前後と言われている。

 スラムのシロッコたちの生活水準は、王国臣民のそれよりはるかに下である。

 そのため、小銀貨は大金星ともいえる成果だ。


「さすがミュール!」


 三人が喜んでいると、コンコンコン、とドアを叩く音。

 

「もどったよ!」


 続出でシトラスが返ってきた様子である。


 勝ち誇った顔をしたミュールが立ち上がって、シトラスを襤褸屋に迎え入れる。


 手ぶらのシトラスを見てほくそ笑むミュール。

 それを後ろから、笑っているシロッコとモート。


 羽織に隠れていたため、すぐには気がつかなかった。

 ただシロッコだじぇは、シトラスのガウチョパンツのポケットが、やけに膨らんでいることに気がついた。


 シロッコとモートの前にやってくるシトラス。


 ミュールは小馬鹿にした顔をしている。

 ミュールとモートはまだポケットの膨らみに気がついていなかった。


「お、おまえ――」


 シロッコが震える声で目の前まで来たシトラスに声をかける。

 シトラスはおもむろにポケットをひっくり返す。


 そして、零れ落ちる貨幣。

 百枚はあろうかという銅貨と鉄貨たちが音を立てて床にばらまかれる。


 目が丸くなる三人。


 三人そろって目を剥く状況で、ミュールに至ってはあんぐりと口を開いていた。


「どう?」


 固まってしまった三人の様子に、心配そうに尋ねるシトラス。


「え、あ、あぁ、よくやった」

「お、俺こんなにたくさんのお金初めて見た」


「あ。あと、これも」


 羽織として着ていたポケットから、小さな手で鷲掴みされて出てきたものは、ひと握りの小銀貨。


「そ、そんなどうやって……」

「今月は飯の心配はいらなさそうだ。よくやった! お前は今日から俺たちの家族だ」


 掌をくるっと返すシロッコに、素朴な性格故に素直にシトラスを褒めるモート。


 ミュールだけはそれを苦虫を噛み潰した表情で見ていた。



 ロックアイスの屋敷のある衛兵たちの会話。


「そー言えばお前あの噂を聞いたか」

「あのって、どの噂だ?」

「最近出るって噂だよ」

「出る? 幽霊ゴーストかなんかか? 昨日教会の祈願に行ったがいつもと変わらなかったが」

「ちがうちがう。妖精だよ。妖精。妖精が出るって噂だよ」

「妖精? 妖精族って言えばあれだよな。自然の奥深くにいるって言う。魔法で自然を手足のように扱う種族だろ。見たことはないけど、妖精族って綺麗な羽が生えていて、耳長族と並ぶ別嬪さん揃い、って王都に行った奴が自慢していた。俺も見てみたいぜ。でも、妖精族が何でまたこんな辺境に……」

「さーな。俺も――「こらっ、くっちゃべって無いで仕事しろ!」――は、はい!」



 ロックアイスのお屋敷。

 そこはロックアイス家が住まう場所であると同時に、領主として施政を行う場であり、有事の際は司令部の役目も果たす名実ともに領地の心臓部。


 一族の居住区でもあるため、平素は静かなこの屋敷が、昨晩からまるで蜂の巣を突いたような大騒ぎである。


 警備担当や検問の監督官から報告を受け取るキノット。

 各所の監督官からの報告書はセバスが受け取り、整理した後にキノットに手渡す。


 キノットは眼鏡を一度外し、目頭を押さえた後に再び眼鏡をかけ直して各監督官に告げる。


「各所の報告書には目を通す。追って指示を出すまでは警邏、検問を強化するように。特に領地から立ち去る者、積荷がある者に対しては、複数人でもって隈なく探すように。その際、領民や商人にはこの事を悟られないように最大限注意を払うよう」


 取り掛かってくれ、という掛け声と共に部屋に詰めていた者たちが立ち去った。

 入れ替わりで妻であり、軍部の監督を務めているダンシィが部屋に入ってきた。


「ノックくらいしてくれてもいいんじゃないか」


 椅子に座りながら、今しがた運びこまれた資料に順に目を通しているキノットは、ダンシィに一瞥した後、再び資料の査読に移った。


 ダンシィは夫の小言を無視して本題に入る。


「それで、シトのこと何か分かりましたか?」

「まだ何も……。昨日のうちに領地を抜けていないことを願うばかりだよ。検問と警邏を強化したからまだ街にいればいずれは……」

「いずれ……!?」


 落ち込んだ表情から一転して夫であるキノットを睨み付けるダンシィ。


 キノットは妻の気配の変化から、自身の失言を瞬時に悟った。

 慌てて顔を上げてダンシィと向き合う。

 根っからの文官であるキノットに対して、妻のダンシィは結婚して丸くなったものの、領地では領軍の指揮も務める武官でもある。


 椅子に座っているおかげで物理的に腰を引く醜態は晒さずに済んでいたが、正直妻の気迫に腰が引けていた。


 目がすばやく泳ぐ。


「い、いや……。だいじょうぶだ、うん。私たちの子どもを信じよう」

「あなたが信じてあげなかったからッ、あの子が出て行ったのではなかったかしらッ!」

「信じていたさッ! でも、公爵家で騒ぎを起こしたんだ。何も御咎めなしというわけにはいかないだろ?」

「では、そのことはちゃんと説明しました?」

「いや、その、うん。これからしようと言うところで……その、すみません」


 言い訳を口にした辺りで、妻の眦が上がるのを見たキノットは肩を落とした。


「ベルも心配しているわ。あのこ学園の入園も近いのにお稽古そっちのけで探しに行こうとしていたのよ?」

「あの子は弟にべったりだからね……」

「私も心配で堪らないわ。でもきっと誰よりもシトこそ不安でしょうがないでしょう。最近は各地で魔法使い崩れが動いていると聞くわ。もしも巻き込まれたと考えると私、私……」


 肩を震わせるダンシィ。

 自身を抱きしめるようにして小さくなる。

 その目じりには雫が浮かんでいる。


 キノットは椅子から立ち上がって、ダンシィに歩み寄りそっと寄り添う。


「あぁ、天使のような美しい私たちの子供に天の御加護がありますように」


 手を合わせ祈るダンシィの肩をキノットはそっと抱き寄せた。


 

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