幼少期編

一話 シトラスと家族と


 ポトム王国北東部ロックアイス男爵領。


 ロックアイス男爵は、三代続くポトム王国北東部の辺境貴族である。


 その領地は北側の領地をアニマの森に隣接し、東には大陸を分断するように北から南へ流れるマグナム川に面している。

 東にはチーブス王国の国境が近い。


 そんなロックアイス男爵領主の館の一室。

 

 天蓋付きのベッドに一人の少年。


 髪はさらさらとした橙色がかった金色の金橙髪。

 日中は爛々とした髪と同じ色をした金橙眼も今は閉ざされている。

 規則正しい静かな寝息とともに小さな胸が上下する。


 彼の名はシトラス・ロックアイス。

 今年七歳になるこの部屋の主である。


 部屋は人一人が使うには十分すぎる大きさであった。

 ベッドの他には衣装棚と丸椅子があるだけ。

 白を基調とした寝室は、訪れる者に素朴で儚げな印象を与えた。


 扉を叩く音が部屋に響く。


 やや間があって扉が開いた。

 目麗しいメイドが一礼をして、サービスワゴンを押しながら入ってくる。


 メイド服をピシッと着こなしていた。

 機能性を考え短めに整えられた白みがかった琥珀色の髪。

 その頭には頭部上部を覆う白のメイドキャップ。

 ツン澄ました顔も相まって見る人に怜悧な印象を与える。


 音もなくメイドは少年に忍び寄る。

 天蓋のレースの隙間からそのキリっとした髪と同色の瞳にまだあどけない少年の姿を映すと――


 にへらっ


 メイドの顔が緩んだ。


 あぁ――今日もお美しい――


 メイドはこの後一時間ほど眠っているシトラスを眺め続けた。

 このメイド、名をバーバラという。



 外が白く明るんで来た頃。

 シトラスは長いまつげを震わせおもむろに目を瞬かせる。


 それをバーバラは、ほぅ、という息遣いと共に見守る。

 恍惚の表情であった。


「おはようございます。シトラス様」


 シトラスの瞼が持ち上がった時に、そこに緩んだ顔はなかった。

 キリっとした顔の侍従が、その琥珀色の頭を下げて寝具の脇に控えていた。


 今しがた目覚めたシトラスは上半身を起こした。

 大きく伸びをしてから、寝ぼけ眼で己の忠実な侍従に笑顔を向ける。


「おはよう。バーラ」


 バーラとはバーバラの愛称。


 頭を下げている彼女の顔はシトラスからは見えない。

 しかし、白みがかった琥珀色の髪からのぞく、後ろに尖った彼女の耳はヒクヒクと動くのが見えた。


 下げた頭を戻すとき、彼女はシトラスの枕元にあったそれに気がついた。


「またお読みになられていたんですね?」

「うん!」

 元気よく答えたシトラス。

 その枕元には、王国で人気の勇者とよばれる魔法騎士が主人公の絵本。


 裕福な家庭の子供向けに書かれた本。

 紡ぐは、一人の男が魔法と剣で数多の困難を乗り越えた末に国とお姫さまを助ける物語。


 シトラスはこの本が好きで、前日も就寝前に読んでいた。

 本の角は丸く、表紙の文字も薄くなっている。

 それがどれほどこの本が繰り返し読まれているかを物語っていた。


「シトラス様も将来は勇者様に?」

「うん! ぼくもしょうらいはまほうけんしになって、おおくのひとをたすけるんだ」


 陰りのない笑顔でまっすぐに見つめる主の姿に、

「それは素晴らしいことですね。シトラス様であればきっと多くの者を救えることでしょう」

 微笑むバーバラ。


 夢を語るシトラスに優しく目を細めながらバーバラが軽く手を挙げる。

 その手に呼応して、サービスワゴンに置かれた濡れタオルがひとりでに浮かび上がる。


 バーバラの手の動きと連動して、タオルは寝ぼけ眼の部屋主の元まで飛んでくる。 

 タオルがそのまま顔を優しく撫でる。


 役目を終えると、タオルは元あった場所に戻った。

 今度は入れ違いで別のタオルが飛んでくる。

 そのタオルはシトラスの髪を優しく撫でつけ、寝癖を整えていく。


「失礼します」


 仕上げは、バーバラの手櫛。

 きちんとした櫛を使わないのは、櫛が絡まるのを避けるためである。


 ――やわやわ。


 身だしなみが整うと、シトラスは寝具から出た。

 部屋の真ん中に位置する丸椅子に座る。


 バーバラは後ろに付き添いながら、部屋の隅の衣装棚に向かって右手を軽く振るった。


 すると、衣装棚がゆっくりと開いた。

 衣装棚の中から上下の服が躍るように飛び出してくる。


 バーバラがその手を衣装棚からシトラスの座っている前方に動かすと、宙に浮く服もするりと移動する。

 服はシトラスの前で止まった。

 自身をくまなく見せつけるように宙に揺蕩っている。


「あれ? みたことないふく。おかあさまがかってくれたあたらしいふく?」


 部屋のほぼ中央に位置する椅子に腰かけながら服を見やるシトラス。

 今まで見たことない臙脂色の服に興味を示した。

 それは今まで袖を通した記憶がない服であった。


 服や調度品は両親の買うに任せていたので、定期的に服が増えるので今回もそうなのかと思い、侍従の身分でありながら母と仲の良いバーバラに尋ねた。


「いいえ。そちらはどちらも先日、女ギツ――こほんッ、もといバレンシア様より頂戴しました物でございます。先日ダンシィ奥様との商談の際に友誼の印として頂いたものと聞き及んでおります」


 男爵夫妻の秘蔵っ子であるシトラスの存在を知る者は、王国にほとんどいない。


 それは社交界デビューや王都にある王立学園に入学していないこともあるが、何より所詮は地方男爵の子。気に留める者など皆無である。


 両親――特にバーバラに奥様と呼ばれる男爵夫人――がシトラスをそれはそれは大事に育てており、当人の体が弱いこともあって領民にもその姿を披露していない。


 にも関わらず、どうして一商人がシトラスの存在を知っているのかというと、シトラスが商談中に誤って割り込んでしまったからである。


 その時、商人が乗ってきた馬に驚き、シトラスは興奮のあまり飛び出したのだ。

 そこで知己を得た商人であるバレンシアは何かとつけてはシトラスに貢ぎに来ていた。


「そっか!じゃあまたシアにはおれいをいわないとね!」


 にぱっ、笑顔を見せたシトラス。


「さすがでございます。シトラス様」


 すかさずヨイショを忘れないバーバラ。


 シトラスが椅子から降りて手を広げる。

 バーバラは服をシトラスに向けて手を優しく振った。

 するとシトラスが纏っていた寝間着はひとりでに脱げ落ち、代わりにシトラスが選んだ服がその身を包んだ。


 ボタンが胸元までボタンがひとりでに閉まった。

 服が落ち着きを見せるとシトラスは椅子に再び腰かけ、まだ地面に届かない足を所在なさげにぶらぶらさせる。


「きょうはなにするんだっけ?」


 バーバラはシトラスの専属メイドであり、秘書であり、護衛であり先生である。つまり、超侍従スーパーメイドなのだ。


 男爵夫妻によって組まれたシトラスの予定はすべてこの侍従が管理している。文字通りシトラスのことなら何でも知っているのだ。


「本日の予定は朝は医師せんせいの検診の後に共通文字コイネーの学習となっております。お昼は旦那様、奥様と食の間で昼餉。また、その後は奥様のお客様の対応の同伴、その後はモーレス先生の礼儀作法のお時間となっております」


「はーい」と言う子供特有の甲高い声の後に、よっ、という声と共にシトラスは腰かけていた椅子から飛び降りた。


 扉に向かって歩くシトラス。

 その三歩後ろをバーバラは付き従う。


 シトラスが扉の前に差し掛かった。

 バーバラは体の前で組んだ手のうち、左手を小さく動かした。

 シトラスの歩みを止めるものはなくなった。


 部屋主がいなくなった部屋。

 扉は主のいなくなった空間を守るようにゆっくりと閉じた。



 シトラスはバーバラを引き連れて、屋敷内のロックアイスのお抱えの医師の部屋に訪れていた。


 近頃は床に臥せることもほとんどなくなったため、今週の検診で担当医から外出許可が出れば、それを許可すると両親からの言質を取っていた。


 そのため、固唾を呑んで検診結果を待つシトラス。


 親、特に母親のこの息子に対する溺愛が凄まじく、シトラスは病弱なこともあって生まれてから今まで七年間屋敷から出たことがない。文字通りの箱入り息子。


 本人は外の世界への好奇心が強かった。

 時には大冒険をする魔法騎士の絵本を擦り切れるくらいに読んで、まだ見ぬ世界に胸を躍らせていた。


「――問題なさそうですな。ここのところお加減もよろしいようで。熱が出る回数もここ数年でぐんっと減ってきましたし、そろそろ屋敷の外に出ても心配はいらないと思われます」


 シトラスは体が弱く、春と秋は風、夏は暑さ、冬は寒さに負けとても手のかかる赤子であった。

 担当医の男も何度覚悟を決めたことかはもう覚えていない。

 彼の顔に深く刻まれた皺はそれだけに重みがあった。


「それじゃあからだをうごかしてもいい? ぼく馬にのりたい! えほんのゆうしゃも馬にのってた!」

「馬ですか。それではまず体力をつけることおすすめします。乗馬はなかなか体力を使いますので」

「うん。わかった!」


 二人のやり取りを見つめながら、担当医は感慨深そうに目を細めた。

 彼もいつからか心の中では、不敬ながらシトラスのことを密かに孫のように思うようになっていた。


 大陸の医者の多くが入信しているパイエオン教という組織がある。


 かつて一人の男が立ち上げた組織。 

 開宗して以来医学の進歩を目的として医学の研究、魔法の研鑽、応用を行っており、大陸における医学のスペシャリストの集団である。

 国家に属さず中立の立場で、医学の進歩、医師の育成を行っている。

 各国の政治に関与しない独立した組織として広く認知されていた。


 担当医の男もアニマの森にあるパイエオン教総本山で医学を学んだ。

 その後、ロックアイス家の領地に移り、多くの命を救ってきた。

 ある日、ロックアイス家の当主直々に呼び出され、我が子を見るように頼まれたのだ。


 当時ロックアイス家はパイエオン教から見れば、医者とも言えない祈祷師の類の者がシトラスの看病に当たっていた。

 年々寝込む回数が増え、嘆く子爵夫妻はパイエオン教の者が領地にいることを聞きつけるやいなや、藁にも縋る思いで直ぐに呼び出した。

 その後は言わずもがな、その腕をもって領主夫妻の信頼を勝ち取ったのだ。


「大きくなられましたなぁ……」


 シトラスは難病だった。

 シトラスが犯されていた病名は"魔系衰弱"。周囲に漂う魔素マナに身体が犯され衰弱し放置すればやがて死に至る病だ。

 種族問わず高齢者に見受けられる死因の一つである。


 普通であれば成長するにつれ、周囲の魔素マナに対抗するように体内で魔力オドを生み出す精臓と呼ばれる臓器が成長する。

 しかし、シトラスはその器官が生まれつき弱かった。

 体内で対抗するだけの魔力オドが作り出せないため年々弱っていったのだ。


 幸いにして、パイエオン教ではその対処法は既に発見されていた。

 トゥルシと呼ばれる薬草と、擦り下ろしたハジカミという植物の茎を薬研で混ぜ合わせ、そこに聖水を加えたものを天日で干す。干したものに再びトゥルシとハジカミの茎を薬研で混ぜ、再び聖水を足す。それを七度繰り返す。


 男爵夫妻は領内にパイエオン教への布施を度々行った。

 また、領内に小さいながらも寺院を立て、男を院長として領地に留まらせた。


 それからシトラスが体調を崩す度に屋敷を訪れていたが、最近はめっきり減りその数も減った。


 このまま行くとそう遠くないうちにお役御免となる日もなるだろう。

 男は、大きくなられましたなぁ、と再び呟き、診療室から立ち去る二人の背を見送った。



 コイネー。

 それは大陸で使われている共通言語である。

 一部の種族を除き、多くの種族で用いられている言語で王国の公用語でもある。

 もともと人族の言語で、各国の王や要人に人族が多いことから古来より多くの場面で用いられてきた。単に共通語ともいう。


「――本日の学習はここまでにさせていただきます。私の説明が至らなかったところなどありましたでしょうか」

「ううん。きょうもバーバラのせつめいはわかりやすかったよ。コイネーはむずかしいけどいろんなひととなかよくするのにだいじなんだよね! ぼくがんばる!」


 シトラスに共通語を教えているバーバラ。

 本来であれば主人に物を教えるのはメイドの本分を超える。

 無駄に有能なバーバラその性能スペックを最大限に活用して、メイド業をこなしながらシトラスの教育にも携わっていた。


「流石でございます。このシトラス様。私一生付いていきます……」


 ちなみにバーバラは少し重たいでもある。

 シトラスの言葉に、怜悧な視線を伏せて感動している様子であった。


「バーラはいつもおおげさだなぁ。でも、よろしくね」


 笑って流すシトラス。

 シトラスが物心つく前からバーバラはこの調子なので何も思わない。彼にとってはいつものことであった。


 ほんのり頬を染めるバーバラ。

 ちなみに大陸では多くの国で一般的に十六歳未満みせいねんに手を出すと捕まる法が制定されている。


 ただでさえ長命種は出生率が低い。

 その身体が成熟する前の行為は種の繁栄に繋がらないという見識と、とある大人たちの都合のために大陸の数百年前に制定された。


 毎年少なくない数の者がこの法を破って牢にぶち込まれている。

 その中でも特に熱心な者は少女嗜好ロリコン少年嗜好ショタコンと呼ばれ、その名を大陸に轟かせているのは余談である。


「では、そろそろ食の間に参りましょう。旦那様と奥方様がシトラス様を今か今かと待ちわびておられます」


 一日に二度取る食事はなるべく家族みんなで! 

 これはロックアイス家の家訓の一つである。

 ちなみにシトラスがお乳から離れてからできた、大変歴史の浅い家訓の一つでもある。


「うん!」


 シトラスは元気の良い返事を返し、家族の待つ食の間に向かった。

 家族との食事は彼の好きな時間の一つである。



 食の間と呼ばれる食堂には、楕円形の長いテーブルを囲むように等間隔で椅子が並べられている。

 シトラスが食の間に着いた時には、料理の並べられた席に既にシトラスを除く男爵家の家族は着座していた。


「おはようシト」


 シトラスを見るや否や、赤毛の女性が声をかける。

 彼女の名はダンシィ。ダンシィ・ロックアイス。


 ロックアイス男爵夫人であり、シトラスの生母であり、貴族にしては珍しく手ずからシトラスを溺愛して止まない。


 やや褐色の肌で背中まで伸ばした少し癖のあるくすんだ赤の髪。

 かつて一角の剣士であったことに由来する普段のダンシィの琥珀色の力強いまなざしは、シトラスを前にして微塵も感じられない。


 ダンシィは貴族では珍しく、手ずから子育てを行った。

 最初からうまく育児できたとは言えなかった。

 時に失敗し、時に周囲の助けを借りつつシトラスに愛情を注いで、今もなお注ぎ続けている。


「おはよーシトラス」


 続いて声をかける一番奥の席に座る金髪碧眼の優男。

 彼の名はキノット。キノット・ロックアイス。


 ロックアイス男爵当主であり、シトラスの父親である。

 力強い印象のあるダンシィに対して、学者肌であるキノットは肌も白く華奢である。

 シトラスの柔らかいくすんだ金髪はキノット譲りである。

 どこか少し抜けている雰囲気があり、貴族らしからぬ男である。


「……おはようシト」


 最後に声をかけたのはシトラスの二歳年上の実姉。

 彼女の名はベルガモット。ベルガモット・ロックアイス。

 シトラスと同じく父キノットから受け継いだ柔らかい金橙髪の持ち主。

 シトラスの髪との違いは、彼女の髪の色がややくすんでいるいうことである。


 シトラスが癖のある髪質であることに対して、ベルガモットは綺麗な直毛であった。

 また、ベルガモットの金髪には母譲りの一房の赤色が入っていることが特徴的である。


 シトラスの姿を視界に収めると、彼女の宝石のような浅葱色の瞳が嬉しそうに細められた。


「おはようございます。あっ、ははうえ。かみの毛がはねてる。ぼくがなおしてあげる!」

「あら、ありがとうね。シトは本当に髪を梳かすのが上手ね」


 シトラスがとことこと母の下に歩み寄ると、その小さな手で髪の毛を数度撫でる。

 すると一房乱れていた髪が次第に収まっていく。

 地味ではあるが、屋敷で働く女性に大変好評なシトラスの特技であった。


 褒められたその顔には満面の笑み。


 ちなみにダンシィのそれは故意であった。

 数日に一回の頻度でわざと、従者に寝癖を残させているのだ。


 ベルガモットは自身の髪を手に取ると、それはさらさらと絹のように流れた。

 彼女は口をへの字に曲げた。


 バーバラが引いた席に座るシトラス。

 シトラスが座ったことを確認した後に、キノットが神に謝辞を述べる。  


「主よ、自然の恵みに感謝してこの食事を頂きます。恵ともに我らに祝福があらんことを」


 目を瞑り胸の前で手を組み祈る。


 ポトム王国をはじめとして大陸中央では古来より名もなき神への信仰が広く普及していた。

 その名は語られず、偉業と教えのみが教会によって語り継がれてきた存在。

 ポトム王国は教会と王族の繋がりが強く、国教としてこの名もなき神を祀っていた。

 ロックアイス家も例にもれず、王国に名を連ねた時からこの名もなき神を信仰するようになった。


「それじゃあ頂こうか」






 食事の後は家族団欒の時間。


 シトラスは知らぬことだが男爵夫妻はこの時間をとても大事にしていた。

 公務が被らないようにする徹底ぶりである。


 あまり裕福でない貴族は当主と言えど、悠々とふんぞり返ってなどいられない。

 汗を流さないといけないのだ。


「おかあさま」

「うん?」


 食後の紅茶。

 シトラスには知らされていないが、バレンシアのシトラスに対する貢ぎ物の一つである。

 ダンシィはゆったりと家族の空間を味わっていたが、シトラスに呼びかけられて体ごと息子に向き直る。


「このあと、おきゃくさまにあうの?」


 コテン、首を傾け尋ねると女性陣が頬を紅潮させる。

 可愛いは正義。


「……そうなの、でもシトが出たくなかったら出なくていいわ。むしろ、出ない方がいいわ。大丈夫。母がバレンシア殿にはうまく言っておくから」


 こらこら、とキノットが思わず突っ込みをいれる。

 同性が故か母性と父性の違い故か。

 キノットはダンシィほどシトラスを甘やかしてはいない。


「あ、シアなんだ。ならシアにおようふくのおれいいわなきゃ」


「偉いぞシトラス。私たちのような小領主は市井の者とも力を合わせなくちゃ生きてはいけない。そのためには相手に対して礼を尽くすんだ。丁度今のシトラスのようにね。流石私たちの息子だ」


 ――とは言っても十分甘いのだが。


「……わかったわ。でも嫌になったら母に言うのよ?」


 キノットの意見もあり、さほど本気で言った訳ではないので引き下がるダンシィ。


 ベルガモットはそんな両親と弟のやり取りを真剣な面持ちで黙って見ている。

 あまり口数の多いほうではないベルガモットは、家族であっても聞き手に回ることが多い。

 

「ありがとうおかあさま」


 影のない笑顔を見せる紅顔の少年。


 ベルガモットの浅葱色の瞳が見つめているのは、終始弟の笑顔であることはロックアイス家に勤める者の公然の秘密である。



 シトラスはキノットに呼び出されて、彼の応接室を訪れていた。


「シトーー!!」


 応接室に入るや否や、シトラスに飛び込んでくる妙齢の女性。


 しかし、シトラスに飛び込む直前で風が女性を包みこんだ。

 飛び込まれたシトラスにm本来おとずれるべき物理的な衝撃はない。

 とは言っても、人が飛び込んで来る視覚的な衝撃まで和らげることはできないのだが。


 いつもいつもこの自由な商人にはシトラスは驚かされていた。


 肩にかかる軽くウェーブした金緑の髪。

 知的に輝く大きな金緑の眼。

 にこにこと愛嬌で魅せる彼女の名はバレンシア。

 彼女は貴族ではないので姓はない。


「うわっ、もうシアってば。じゃあ僕からもぎゅーー」


 シトラスは抱き着かれたから抱き着き返しているに過ぎない。

 しかし、受け取り方は同じではない。

 

 シトラスにいれこむあまり、ロックアイスの御用商人となった経緯のバレンシアから見れば、絶頂ものである。


「あぁ……。し あ わ せ」


 メスの顔である。


 抱き着きあっている両人を横で見せつけられているダンシィは、顔を引き攣らせる。

 とりあえず、彼女は脳内でバレンシアをぼこぼこにして留飲を下げることにした。


「……バレンシア殿、そのあたりで」


 いくら御用商人だからと言って貴族の息子に気安く抱き着くなど、その場で殺されても文句は言えない。

 ましてや溺愛している子なら猶更だ。


 しかし、そうはならない。

 そうはできない事情がロックアイス家にはあった。


 ロックアイス家は貴族と言えどあまり裕福ではなく、商家や同じ貴族派閥に援助して領地を代々治めてきた。

 このレベルの貴族は貴族とは名ばかりで当主、惣領以外の一族は領地の発展に尽くすのが義務。

 時に市井に混じり、斧をふるって開拓し、手ずから武器を取って野党や害獣と戦うことで営みを紡いできた。


 なぜダンシィが脳内に留めたかというと、男爵家はバレンシアに多大な借りがある。

 彼女はシトラスに対してはダダ甘のお姉さんだが、それはあくまでも一面に過ぎない。


 バレンシアはその実、王都にも名を轟かす大商人の一人であった。


「融資だっけ? シトくんくれたら言い値で貸してあげよう」


 つまり、下手な貴族よりお金持ちなのだ。


 そして、ロックアイス家は下手な貴族よりお金がない。

 加えて、バレンシアが辺境のこれまで付き合いのない貧乏貴族に融資を始める理由もない。

 シトラスがいなければ、の話である。


 約十年のある日、ふらっと辺境にあるロックアイス家を訪れた彼女は、ただでさえ財政難で苦しんでいた上に、二人の出産、育児における出費に対して、家財を売って切り詰めていた彼らに破格の融資を申し出た。

 その後も商会の誘致、他商会の介助、財政運営の助言などを経て今では半分財政官の立ち位置である。

 現在では彼女ありきの領内財政であることから、彼女が如何に根幹に関わっているかがわかる。


「……これ以上、シトに、手出したら、殺すわよ」


 笑えない冗談にダンシィの眼が据わる。


「おー、こわいこわい。助けてシト。お義母かあさんが私をいじめるの!」


 ただ本気でシトラスに手を出せば、この母親と彼の姉が暴れだすのでバレンシアも一線を越えることはしない。

 特にあの姉は危険だと彼女の勘が告げていた。


 この母親も過去に王国東部では武闘派で鳴らしていたことはバレンシアも把握しているが、あれは次元が違う。

 それはシトラスの件がなくても投資してもいいと思えるくらいの逸材である。

 もちろん口には出さないが。


「誰が、誰の、お義母かあさんよ!」

「それよりシト。その服似合っているよ。やっぱり私の見立てに間違いはなかった。それは一からシトの為に作らせたの。あ、でもでも、どんな服でもやっぱりシトさいこーー!」


 ダンシィを軽くいなして、一段と強く抱きしめるバレンシア。

 ダンシィの顔が引き攣る。


「わわ、苦しいよシア~。でも……ありがとう!」


優しくそっと抱き返すシトラス。

 何かを言いたそうなダンシィだが、シトラスの嬉しそうな顔を見て肩を落とす。


「あぁもう、閉じ込めたい! 何か用があったら私に言ってね。シトのためならなんだって用意しちゃう」

 

 しかし、その時間も長くは続かなかった。続かせなかった。

 抱きしめ合う二人を風が包み、ふわりと引き離す。


「……そろそろ本題に入りましょうか」


 侍従が仲介に入る。

 他の貴族ではまずありえない光景だが、ロックアイス家では見慣れた光景。


 貴族よりも平民に近い辺境貴族、ロックアイス家。

 領地も大きくはなく、経済的に豊かであるとは言えないが領民を愛し、領民に愛される貴族。それがロックアイス家である。


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