二話 魔法と適正と


 ロックアイス領主のお屋敷の中庭。


 今年で八歳になるシトラスは、今では医者いらずの元気さを見せていた。


 中庭に植えられた大きな木の陰の中。


 うだるような暑さにも負けず、シトラスはバーバラに見守られながら、剣の素振りに精を出していた。

 まだ幼いシトラスが手にするものは真剣ではない。

 それはシトラス用に誂えられた模造刀。

 長さも重さも一般的な真剣の半分以下の代物である。


 そのやや痩せ気味の小さい矮躯で一生懸命に剣を振るう。

 剣を振るうごとに橙色がかった金髪がサラリと揺れる。

 早さも型もない素振り。見る者が見れば欠伸がでそうな速度。


 ただ、一生懸命に振るう。

 髪色と同じ金橙色の瞳は真剣そのものである。


「ふぅ、ふぅ、ふぅ」


 肌を焼く日差しの中の運動で体は赤く火照っていた。

 今もこめかみから顎にかけて大粒の雫が伝い、剣を振る振動に合わせて足元の大地に染みを作る。


 屋外に立っているだけで汗をかく気温と日差し。

 バーバラはいつものメイド服を着こなし、シトラスが剣を振り始めてからしばらく経つが、汗一つかくことなく直立不動の姿勢で傍に控えていた。


 メイド服は露出がほとんどない。

 見るからに暑そうではあるが、彼女はそれをものともしない。

 腹部の前で手を組み、ただ静かにたたずんでいる。

 その頭には彼女の象徴であるメイドキャップ。

 その下には白みがかった頭髪と、切れ長の同色の瞳。


 彼女の瞳は視線の先のシトラスを捉えて離さない。


 貴族の嗜みとして、剣術は必須項目であった。

 シトラスは物語の魔法剣士に憧れていた。

 数ある家庭内学習の中でも、剣術に一層熱心に取り組んでいた。


「ふぅ……ふぅ……ふぅ……」


 しかし、身体が出来上がっていないことに加えて、剣を重視しないバーバラの方針もあって、剣の鍛錬と言っても、シトラスの気が済むまでただ剣を振るう毎日である。


 やがて、息を切らしたシトラスが模造刀を手放して、尻もちを着いた。

 沖に打ち上げられた魚の様に息を切らしている。


 すかさず「お疲れ様です」と竹筒に入った冷水をバーバラから手渡される。

 それを受け取ると一息で飲み干す。

 ついでに、渡された手巾でその額の汗をぬぐった。


 それでもやはり体温の熱が収まらぬ様子のシトラスに対して、バーバラは彼の後ろに回った。

 その膝をついて高さを彼に合わせると、両手で彼の頭を挟み込むように手を翳した。


 すると、バーバラの手のひらから冷たい風が生み出された。

 それはシトラスの体温を冷ますのに一役買って出る。


 シトラスは逆さに見上げる形で、後ろに座るバーバラの顔を見上げた。


 白みがかった琥珀色の髪の内側に見える彼女の顔は、シトラスの前ではクールな仮面を崩すことはない。

 ただシトラスを見つめ返すその瞳は、いつもどおり柔らかい。


「ぼくもまほうがつかえたらなー。どうやってやるの? ぼくもまほうつかいたいッ!」


 額から一筋の汗を流しながら、見上げたバーバラに笑顔を見せるシトラス。


「自身の魔力オドで大気に満ちる魔素マナに働きかけることで発露した現象を我々は【魔法】と呼んでおります。魔力とは世界中に満ちている魔素を体内に取り込んだ時に生成される生体エネルギー源のことです。ご意識していらっしゃらないだけでシトラス様も今この時、魔素を取り込みその一部を魔力に変換しておられます」


 バーバラがシトラスの右側の地面に彼女の右手をそっと置く。

 すると、ボコボコと地面が隆起し、手のひらサイズの小さな土人形が瞬く間に出来上がった。


 シトラスが彼女の魔法に感動していると、土人形は可愛らしいくシトラスにお辞儀をする。

 その動きはまるで実際に人間が行うように滑らかな動きであった。


「魔素は不定で実体を持たず、只人には見ることも触ることもできません。唯一魔力でのみ干渉できるもの、それこそが魔素なのです。そこで体内で生成される魔力に指向性を持たせた状態で体外に放出することにより、魔素を利用して――つまりですね……愛です」

「そっかー、あいかー」


 求められるままに解説を始めたバーバラだが、まだ齢一桁の頭脳に魔法の真理が理解できるわけもない。

 徐々に傾いていく主人の頭に、話題を強引にまとめた。


 再びシトラスの頭に右手を翳して風を送るバーバラ。

 既に土人形は土くれへと還っていた。


 シトラスはバーバラが自身の頭に手を翳しているように、両手を自身の前に翳した。

 突き出した両手に力を込めるが何も起きない。

 息を止めて、ぐぬぬ、と顔いっぱいに皺を作るが、ただただ息を止めた影響で顔が赤くなるだけである。


 ややあって諦めたシトラスは、後ろで膝立ちをしていたバーバラにもたれかかると、ポフッと音を立ててその頭は彼女の胸に後頭部が収まった。

 ぐりぐりと甘えるように頭を動かすと、服の上からもわかるその二つの膨らみが形を変える。


 できないや、と呟いてシトラスは空を掴むように右手を宙に伸ばした。



 ロックアイス屋敷の一室。


 シトラスはバーバラから魔法の授業を受けていた。

 魔法剣士に憧れるシトラスが剣術と並んで一番楽しみにしている授業であり――


 ――一番成績を残すことができていない授業でもあった。


 彼らの授業風景は、部外者が見れば首をかしげる独特なものである。


 二人は机を挟んでの腕相撲。


 腕まくりをして臨むシトラスに対して、バーバラは変わらずビシッと着こなしたメイド服姿。

 剣術の鍛錬で膝をついた際に付着した土汚れも今は見当たらない。


 唯一の違いはシトラスと組んでいる右手の手袋は外していること。

 そのほっそりとした指を晒していた。


「ぐぬぬぬ……」


 いつも通りの涼しい顔をしたバーバラに対して、シトラスは酸味の強いものでも食べたような表情。


 顔いっぱいにぎゅー、と力を込めて腕を倒しにかかる。

 それでも対するバーバラの細腕は微塵も動かない。

 クールを貫くその表情は、対戦相手というより雛鳥の成長を見守る親のようである。


「ぐぬぬぬぬぬぬ……」


 途中からシトラスが両腕を使っても微動だにしない。

 遂には両腕と全体重を使って倒しにかかるが、それでも微塵も動かない。

 その細腕にどれほどの力が込められているのか。

 子どもとは言え、その全体重をかけてもその腕は揺らがない。


「シトラス様。以前から申しておりますが、シトラス様の筋力では、この私の腕を動かすことはできません。ご自身の魔力オドをお使いになって下さい」

「バーラはいっつもそればっかり!」


 笑いながら快活に不満を述べるシトラス。

 人前では滅多なことでは表情を崩さないバーバラにしては珍しく少し困った表情を浮かべた。


 彼の魔法の学習の進捗状況もあまり芳しくはない。

 むしろ、第三者視線では非常に悪かったりする。

 特大の忖度を働かせた評価ですら、無限の可能性、伸びしろしかない、という具合である。内容は推して図るべき。


 しばらく躍起になっていたシトラス。


 最終的に卓上に立てられたバーバラの右前腕にのしかかるという、もはや腕相撲でも何でもない禁じ手を使う。

 しかし、それでもその腕を動かすことはできなかった。

 それどころか、のしかかった際に鳩尾にバーバラと自身の組んだ手が刺さり、軽い呼吸困難を引き起こしたところで、初めてバーバラが動きを見せ、その日の魔法の授業は終わりを告げた。



 ロックアイス屋敷の執務室。


 キノットとダンシィが机を挟んで座っていた。

 シトラスの家庭教師バーバラからの定期的な報告書に目を通している。

 彼らの碧眼と琥珀眼が何度も左右に動く。


 一通り目を通し終えると、キノットは資料から目を離して、大きく息を吐いた。

 その対面では紅茶で喉を潤すダンシィと、二人に給仕する老執事、セバスの姿。


「そうか……ベルと違ってシトラスに魔法の才はない、か――」


 お世辞にも朗報とは言えない報告書の内容。

 にもかかわらず、その声はどこか軽やかであった。


 ダンシィは、そんなキノットの様子に眉を顰める。

 「ゆうしゃになる!」と無邪気に夢を語る息子を思うと、朗報どころか悲報である。


 報告書の差出人は、シトラスにはとことん甘いことで屋敷中に知られているバーバラであった。


「――我が子の不幸を喜んでいる様に見えるかもしれないが、少しほっとしたよ」


 しかし、すぐに対面に座る妻の非難するような険しい視線に気づいて、もちろんそんなつもりはないよ、と慌てて付け加えるキノット。

 僕みたいな小心者の親にとってはベルがみたいな天才の子どもは一人でも恐れ多いよ、とカップで顔を隠すように紅茶でちびちびち喉を潤す。


 ややあってダンシィの険しい視線が和らぐのを見計らい、キノットは手にしたカップを卓上に戻した。


「剣の方はどうなんだ? 僕は門外漢だけど君は違うだろう? 君のことだ。時々シトの様子は直接見ているんだろう?」

「……えぇ。才能の話をするのなら、シトに剣の才能はないわ」


 残念だけど、と申し訳なさそうに顔を伏せるダンシィ。

 溺愛する息子に対しては何かと甘い母であったが、剣には誠実である。


 なぜなら過大評価が実戦で直接的に死を招くことを、彼女は肌で知っているのだ。


 キノットが不思議そうな顔で、

「聞いておいてあれだけど、わかるものなのかい? 子どもの、それも学園前の年端もいかない子どもの違いというのは?」

 と問うと、ダンシィはこれに、えぇ、と迷うことなく言い切った。


 愛息子が自身の影響を受けて剣を手に取ってくれたのに、肝心のその才を授けることができなかったことを彼女は悔いていた。

 それがどうしようもないものとわかっていても。

 せめて、姉の才の欠片でも与えることができていればと。


「君はシトの進路についてどう思う? 僕としては文官の道を進めてあげてもいいかもしれないなぁ。このまま進むとベルはあまりにも優秀過ぎて、下の気持ちがわからないかも知れないから。シトにはそれを補ってもらうのも、悪くないかなと思うんだけど」


 まぁ彼女のことだからそれはそれで打破するんだろうけど、と付け足すと向かい合って座るダンシィも目を閉じて、うんうんと頷く。


 この夫婦にとって、長女ベルガモットが失敗を犯すところを想像することができなかった。


「その点、シトは人の気持ちが分かる子だ。それに不思議と人を引きつける。バーバラやバレンシア殿がしがない辺境領主のぼくの下に身を寄せてくれているのもシトがいてこそだ。はやく領民にも見せてあげたいよ――」

「だめよ」

「――そして、君もなかなか過保護だね。ベルがシトくらいの年齢の時はそうでもなかったのに……」


 キノットの苦笑いに対して、ダンシィは唇を少し尖らせてた。

 ベルは可愛げがないわ、と。


 長女であるベルガモットは放任主義で育ててきたが、シトラスのことになると、一転して過保護になるダンシィに疑問を呈すキノット。

 彼は屋敷の女性陣のシトラスについての溺愛ぶりは知っていた。


 通常の貴族の家であれば年少の子どもばかり構われたら年長の子どもは嫉妬し、いらぬ軋轢を家中にもたらすものだが、ロックアイス家には当それがあてはまらない。


 なぜなら年長の子どもがその甘やかしの筆頭であるからだ。


 それに加えて、二人の間には年齢差を考慮したとしても、隔絶した実力差があったので、周囲から見ても火種にはなりえなかった。


「私は好きにやらせてあげたいわ。それに騎士にはなれないかも知れないけど、戦士にはなれるわ」


 家はベルに任せておいたらいいのよ、あの子もシトの役に立てるなら本望でしょう、と冗談めかして付け加えるダンシィであったが、キノットはありありと肯定しそうな娘の日頃の振る舞いに、あながち冗談じゃないかも……、と胸中で思うのであった。



 中庭に設けられたテラスに、柔らかい朝の光が差し込んでいる。


 そこでお気に入りの紅茶を啜りながら読書をする少女、ベルガモット。


 肩甲骨のあたりまで伸ばした橙色がかった少し癖のある金色の髪が、風が吹くたびにサラリと揺れている。

 手にした書物の字を追って、左右に動いていた浅葱色の瞳がピタリと止まった。


「あねうえーー!!」


 ぱたりと読んでいた本を閉じる。


 小走りで駆け寄ってきたのはシトラス。後ろにはバーバラの姿も見える。

 シトラスはテラスに入ると、テーブルに身を乗り出してベルガモットにせまった。


「うん? どうしたんだシト?」

「魔法を教えてッ!」


 シトラスのお願いに不思議そうに眉をよせるベルガモットは、彼の後ろに視線を向けた。


「それは構わないが。そこのメイドに教えてもらっているだろう?」

「そうなんだけど、バーラが言っていることはよくわかんないッ!」


 笑顔で無邪気に言ってのけるシトラス。

 彼の後ろでバーバラはしょんぼりと肩を落とした。

 それを視界に収めたベルガモットは少し上機嫌になった。


「そうか。それで何を教えて欲しいんだ?」


 えーとえーと、と唸り始めるシトラス。

 特段何かを考えてきたわけではなかった。

 それを急かすでもなく、穏やかな表情で待つベルガモット。


「それじゃあそれじゃあ、風でビューンってするやつッ!」

「……残念だがシト、お前に風は使えないだろう」


 彼女は眉を少しハの字に変え、残念そうにそう告げた。


「……どうして?」


 キョトンとした顔で尋ねるシトラスに、ゆっくりと語りかけるように説明を続ける。


「適正、言わば向き不向きというものだ。人は生まれながらに魔法の向き不向きが決まっている。例えば、父は雷と水を。母は火と土に適正がある。逆に言うと適正がないものは基本的には使えないんだ」


「まほーてきせい。このまえバーラにならった気がする。ぼくのまほうてきせいは……?」

 首を傾げるシトラスに、ベルガモットは、

「シトはおそらく雷と火だろう。ただ、火に関してはあまり強い適正とは言えない。いずれにせよ、風の適性を持たないお前に風はつかないんだ」


 ベルガモットの説明を聞いて、過去のバーバラの授業の内容を思い出すシトラス。


「そっか……でも、かみなりって? かみなりをばーんってだせるの?」

 両手を一度上にあげた後、擬音と共に両手を振り下ろしたシトラス。


 ベルガモットはシトラスの問い掛けに頭を振って答えた。

「熟達したものであれば可能だろう。ただ雷は別名では強化系とも言われているんだ。物質の強化に優れている特徴がある。それを応用して身体能力を向上させるのが、今お前にできる最初の一歩だ。雷でばーん、とするのはもう少し先の話だよ」


 おどけるようにシトラスの擬音を伴った仕草をマネするベルガモット。

 彼女を知る人からすればかなり貴重な光景であった。


「……でも、ぼくぜんぜんできないんだ。まな? おど? のつかいかたがわからなくて……バーラはかんかくをつかんで、って言うばっかり!」


 シトラスが後ろを振り返って、冗談めかしてバーバラを睨みつけるふりをすると、彼女の視線がしどろもどろに泳いだ。


「そうか……。それで私のところに来たのか……。残念だが……。本当に、残念だがシト。そのメイドが正しい。お前はまずお前自身の"魔力オドを使う感覚"を掴まなければならない。魔力を使うというのは、手足を使うようなものだ。慣れてしまえば自由にそれを使えるようになる。辛いかもしれないが辛抱だ」


 残念そうにバーバラを肯定するするベルガモット。


 次に弟の口をついて出た質問は、大いに姉を困らせる。

「あねうえはどうやってつかんだの?」


 初めて答えに窮するベルガモット。

 彼女は物心着いた時には既にその感覚は身についていた。

 その感覚を掴むことに苦労したことはない。


 いわゆる天才肌。


 先ほどは一般常識を引用したが、彼女は自身が一般の枠に当てはまらないことを自覚していた。

 彼女にとってそれは、息をするように簡単なことであった。

 しかし、それができなくて苦しんでいるシトラスに正直に言うことは憚られた。


「――ご歓談中に申し訳ございません。ベルガモット様におかれましては、奥様とお約束されていたお時間ではないでしょうか?」


 助け舟はシトラスの後ろに立つメイドから出された。


 これまで黙っていたバーバラであったが、一歩前に進み出ると二人の会話に口を挟んだ。


 シトラスがそうだったの? と確認するとベルガモットは頷き、

「そうだったな、すまない。シト。私は外すよ」


 大丈夫お前ならできるよ、と言ってシトラスの頭を優しく一撫ですると、ベルガモットはテラスから出て行った。


 彼女が立ち去ったのを確認して、シトラスは己の忠実な侍従メイドに振り返った。


「バーラもう一回おねがいできる?」


 シトラス様が望まれるのなら何度でも、と言いバーバラはベルガモットが座っていた席についた。

 おもむろに右手の手袋を外して右肘を机に乗せる。


 シトラスが彼女を倒せるようになったかどうかについては、またずっと先のお話――。



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